388th  性善説と性悪説 | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

性善説は、人の本性は善であり、人を信じるべきだという考え方。
性悪説は、人の本性は悪であり、人は疑ってかかるべきだという考え方。
と捉えられているようですが孟子と荀子が唱えたそれの意味は違います。
孟子が唱えた性善説は、人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとするものです。
荀子が唱えた性悪説は、人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とするものです。
要するに、「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」というのが性善説で、「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というのが性悪説です。
高校の漢文の授業で、この性善説と性悪説を教わったのですが、その時に古文の先生が、「性善説と性悪説のどちらが正しいか。」という質問をしました。
僕は、どちらも極端な意見で、どちらかを選ぶことなど出来ないと思いました。
実際に、その先生は、人間はこの二面性を持っているから、両方の要素が正しいと言いました。
まあ、質問の仕方が二者択一のようでしたので、意味の無い質問を生徒にしたものだと思いましたが、その内容については霊的に見ても大きく間違ってはいないようです。

何度も書いていますが、人という霊的生命体はアダムの一面とエヴァの一面を持っています。

大津波で自らの命を捨てて多くの方々の命を助けた方が賞賛され、残虐な無差別殺人犯は亡くなられた方のご家族から憎悪の念を受け、世間からは極悪人と呼ばれます。

そのこと自体は、その通りなのでしょうが、そのどちらの要素も実は人という霊的生命体の本質であり、その二面性こそが人の特徴でもあるのです。

自分や自分の家族のためではなく、他人のために自らの命を犠牲にする貴さを持ち、何の罪もない人々を惨殺するような残虐性を持つのが人なのです。

誤解を覚悟で書きますが、その両面を地上の人間の誰もが持ち合わせているのです。

ただ、それが霊的カルマとして、あるいは魂の成長の過程として、どのように出るかは個人個人全く異なっているのです。 


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」)霊を知るために 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


何度も書いていますが、霊的カルマの解消という意味では過去は重要です。

それを乗り越えなければならないので過去世で霊的進歩向上のために必要な部分は知っておかなければなりません。

しかし、最も重要なのは今です。

今、この瞬間です。

今、本当の意味での霊的進歩向上に向いているかということが重要なのです。

どんなに過去世で偉業を行なっていても、地上に降りている以上、霊的なレベルが守護霊や指導霊になれるほど高いわけではありません。

所詮、再生されるレベルです。

確かに、再生されるはずのないレベルの方でも、ご自身の希望で無理矢理地上に生まれる場合があるようですが、そのような高貴な存在であっても、今、地上で物質界の価値感に染まってしまって、本来の目的である霊的活動を行なっていなければ、ミイラ取りがミイラになったというだけの話で終わってしまいます。

そして、実際にそのようになってしまう方が多いようです。


人は地上に生まれるというチャンスをつかんだ以上、どんな生き方をしようが自由ですが、霊的な進歩向上を常に最優先にしなければ、人生の目的を見失ってしまいます。

六本木ヒルズに住んで、ポルシェを乗り回して、南麻布の高級フレンチで食事をするのも楽しいですし、僕もお金に余裕があればそのような生活をするかも知れません。

しかし、それが全てとなるのであれば、生まれてきた意味はないとしか申し上げようがありません。

霊的トレーニング を日々行い、トオゥ・ライ・シェイに参加し、日々の修行を行なった上で、残った労働以外の時間を好きに使うのであれば、それこそそれは本当の意味で幸せな人生だと言えるでしょう。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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