人には個性があります。
それぞれの個性が違うので、対立することもありますし、そこまでいかなくても何だか気に食わないと感じることなどよくあることです。
なぜ人には個性があるのでしょうか。
当たり前だと仰る方もいらっしゃるでしょう。
しかし、残念ながら人という霊的生命体が個性を持たなければいけない理由などないと言えばないのです。
実は至上の神を感じられる神霊レベルまで進化すれば、実は個性はありません。
個性というのは、霊質界で暮らす霊魂がまでが持っているものなのです。
人という霊的生命体の本質は、霊的に進歩向上し、更に進化して神に近づくことです。
神が完全であるならば、そこには個性はありません。
そして、霊的に進歩向上していくと何度も書いていますように幸せは主観から客観に変わっていきます。
要するに、主観の幸せは個々の満足によって計られるものですから多種多様です。
霊的に進歩向上するということは、神という同一のものに個々が近づいていくのですから、当然、幸せというものがどんどん共通のものになっていきます。
そこには個々の事情など反映されなくなるのです。
霊質界へいけば、神霊の気を受けるだけで、幸せという言葉では表わせないような幸せを感じるそうですが、それは誰にとっても共通のものになっています。
だから、幸せは客観化されるのです。
従って、個性というものも霊的に進歩向上し、進化するほどのなってくるとどんどん共通化されていって、神霊に至るところまでくるともう個性などないそうです。
至上の神の手前までいけば、個性などという概念そのものがあり得ないのでしょう。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊を知るために 、弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。
優れた霊的修行者ともなれば、幽体だけではなく霊体さえもかなり成長させているでしょう。
そこまでになると、既に神体も芽生え、更にある程度成長しているかも知れません。
それは、霊的レベルで言えば、天使だの菩薩だのという霊質界においても上の方なのかも知れません。
そのような恐ろしい領域にまで行ったとしても、人は地上にいる以上、肉を着ていますし、自己保存欲の塊である幽体も重ねて着ていますので、個性がなくなるということはありません。
だから、意見や考え方の相違は致し方ないと言えます。
しかし、それをきちんと正面から受け止めて、どう霊的修行者として、或いは霊的指導者として、この終末の世を生き抜くのかということがとても重要になってきていると思われます。
霊的修行者もいろいろです。
世間の価値感においても、神霊やキリストがご覧になっても、立派だと言われる方もおられるでしょうし、僕のようにいつも落第で、少女時代のコンサートに行きたいとか最新の電子レンジが欲しいとかたまには銀座で鮨を食べたいとか言っているような者もいます。
霊的な進歩向上によって、ある程度性格が変わっていく場合もあるようですが、地上にいる以上、素の部分がどの程度変化するのかはよく分かりません。
それを思えば、霊的修行者は、その個性をいかに霊的なことに活かすかを考えるべきではないかと思います。
どなたでも、どんなことに活かすことが出来るのかを真剣に考えれば、何かあるはずだと僕は思っています。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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