347th  瞑想 | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

以前、瞑想がブームになり、今でも瞑想を日々行なっておられる方は少なくないようです。

呼吸法というのは、霊的に申し上げれば、とても危険が少ない修行法と言えるようですが、瞑想は残念ながら、大変危険な側面を持っているようです。

恐らく、瞑想をされておられる方々のほとんどは、瞑想という修行法が霊的にどのようなものであり、どのような効果をもたらすのかということをご存知ないと思われます。

神伝の法以外の修行法について書くと、他の宗教やスピリチャル云々の批判となってしまう部分があるので、これまで書いてきませんでしたが、今朝はふと気になったので、批判する意味ではなく、霊魂学的視点から事実だと僕が認識していることを少しだけ書かせて頂きます。


まず、瞑想というとヨーガが頭に浮かびますが、ヨーガは、その時代のインドという国や国民性を前提としたもので、現代の日本人向けのものではありません。

そして、そもそもキリストであるクリシュナ師が伝えた瞑想というものは、かなり変形されてヨーガでは行なわれており、それがもう同じものとは言えないほどに変形されたものが、日本では行なわれているようです。

一般的な瞑想には大きな問題点が二つあるようです。


一つは精神を体のどこか一部に集中させたり、「気」なるものをどこかに集中させたりするようですが、これはとても霊的には危険なことだと言えます。

「気」というものは、霊魂学的に申し上げれば「間気」という、人の肉と幽を接着させている反物質反幽質と言えるようなものを指すのですが、これをどこかに集中させるということは非常に良くないことです。

正確に申し上げれば、集中させること自体が悪いのではなく、どこかに集中させてしまうと他の部分が希薄になってしまうことが良くないのです。

間気は、全体にバランス良く存在することが必要で、希薄になってしまう部分があると肉と幽がきちんと接着しなくなってしまいます。

また、余計なことをして間気を本来あるべき状態にしていないと、漏れたりして未熟な霊魂や邪霊のおもちゃの対象になってしまいます。

これまで何度も書かせて頂いていますが、世間でいう霊現象というのは、霊魂が人から漏れた間気を利用して起こしているものですから、間気を健全な状態にしておくことは非常に重要なことなのです。

そして、間気が不足している場所は、肉体にも悪影響を及ぼしますから、病気の原因にもなってしまいます。


もう一つは、瞑想をする時に、意識が飛んでしまうと、未熟な霊魂や邪霊が関与したり、身体に侵入したりすることがやりやすくなるということです。

瞑想に限ったことではありませんが、霊的な修行をする時は、意識をしっかり持って理性を保っていなければ、常に危険な状態になります。

その意味では、実は瞑想というものは、未熟な霊魂や邪霊が一切近づくことが出来ないような高級な霊的空間を作って、その守られた中でやらなければ非常に危険な技法だと言えるのです。


瞑想によって、霊感や超能力を授かったとか、何かが見えたとか、何かが聞こえたということなってしまうと、それは霊的にはもう危ない一線を越えてしまったということを意味します。

いつも申し上げますが、そのうち、天使が守護霊となったとか、神が降臨されたとか、自分は神の子だとか菩薩の生まれ変わりだとか、あるいは毒ガスが換気扇から入ってくるとか、電磁波攻撃を受けていると言い出して、一気に堕ちてしまいます。

それも自由意思なので、そこまでいくともう誰にもどうしようも出来なくなってしまいます。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊を知るために 霊魂イエス ムーの大神人 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


偉大なるというよりも偉大過ぎるクリシュナ師が地上に示された瞑想というものは、そのようなものではありません。

瞑想がなぜ霊的技法として優れているかと言うと、己の幽体や己の幽体の個我(意識)を肉体の表面意識がきちんと認識してあげることで、自分自身の守護霊や指導霊と交流することが出来るようになり、そのことによって、幽体が霊的に進歩向上するからなのです。

瞑想とは、間気を集中させ、部分的に希薄にさせたり、超能力を身につけたりするものでは決してないのです。


手前味噌で申し訳ありませんが、人と言う霊的生命体が、地上においてまずやらなければならない守護霊や指導霊との密着です。

これは、契山館の修行会員になればすぐに毎日行ずることが出来る、基礎行できちんとした成果を出すことが出来ます。

守護霊や指導霊と密着できれば、まだ鎮魂法初伝を習っていなくても、守護霊や指導霊が何とかしようとされるので、幽体や幽体の個我には霊的に良い影響を与えることが出来るのです。

そもそも、幽体はその存在を肉の脳が認めてくれるだけで嬉しいのです。

現代のような非常に霊的環境が悪い状況では、何もしない方と基礎行を実践されて、トオゥ・ライ・シェイ(霊的集会)に参加される方では、霊的状態において、天と地ほどの差があるでしょう。

残念ながら、これこそが事実なのです。


信じる信じないはもちろんあなたの自由意思次第ですが、瞑想というのは、トオゥ・ライ・シェイ(霊的集会)や支部集会のように、霊的に高い空間が作られ、それを多くの霊魂の方々が未熟な霊魂や邪霊から守って下さっているというような状況で行なわないと非常に危険だと言うことだけを申し上げておきます。


地上の人々に必要なのは、当然、霊的トレーニング だと個人的には断言できますが、それは合宿において直伝で教えて頂かなければ叶いません。

従って、危険な技法を行なうのではなく、せめて霊的に高い空間に身を置いて、質の高い幽気や霊気や高級な力などを受けて、霊的なリフレッシュをしてもらえればなあと毎日思いますが、人々の自由意思はそのようなことにはご興味がないようです。


自由意思の本当の凄さと恐ろしさを知る方などどこにもおられないのでしょう。

それについては、また明日・・・・・。


求めよさらば与えられん。信じよさらば救われん。


求めなければ与えられることは決してなく、信じなければ決して救われることはないということです。

この言葉の意味は、実は地球よりも宇宙よりも重いのです。

しかし、誰も知らない。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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