地上の人々は、自分自身のことすら分かっていません。
表面意識が左右している自分の心すら分かっていません。
「天災、人災、こんな災害続きの時は明るく笑っていよう。」
「笑う門には福来たる。」
「怒っては駄目だ。」
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ。」
人の心はすぐに変わります。さっきまで怒っていたのに、今はご機嫌になっています。さっきまで笑っていたのに、次の瞬間には泣いています。
心は変幻自在。
それが普通であり、さまざまな変化をするからこそ、実は人は霊的生命体として進歩向上することが出来るようです。
それを一つのことだけに偏らせるような行為は決して霊的な進歩を生みません。
魂は複雑です。
複雑な複雑な存在である魂のほんの表面のしかもその一部だけが、表現されています。
一つの現象を見ただけでは何も分からないし、それだけで判断すれば必ず間違えます。
全体のほんの一部だけで判断をして、正しい結果が得られるわけがないのです。
エバは、騙されたのを知り、己一人で罪をかぶることが嫌だったので、アダムを騙して、もう一人犠牲者を増やして、ともに罪人となりました。
人は、一人では苦しみたくありません。誰もが苦しんでいたら気が紛れます。一人でも不幸な人が増えると嬉しいのです。
最初に全ての罪があり、地上に降りた人々は救いを願いました。
真剣に祈ったからこそ、その思いは神霊に届き、神霊は地上に力を降ろされました。
しかし、地上の人々はその力を忌み嫌い、やがて終末が訪れました。
地上の人は、生まれてから死ぬまで病と闘い、生活のために常にライバルと戦い、ご飯の為に朝から晩まで働き、家の一つも買えないと、成功者に念を飛ばします。
お互いの念で幽体をボロボロにして、魂もズタボロになり、やがて下の世界に落ちて行きます。
これを何千年も繰り返し、更に状況は悪くなるばかり。
救われるわけがありません。
自らの意思で、どんどん救われない方向へ突き進んでいくのですから、救いようもありません。
肉は差別を生み、差別は不幸を生みます。
常に他の人よりは良くありたいと願う本性がある以上、絶対に幸せにはなれません。
アダムはなぜ騙されたのか。
一人ぼっちでは罪をかぶりたくないという人のおぞましい心を知りながらも、一緒に騙されて、一緒に罪人になってもいいと思ったのです。
そこには他者を思いやる心が奥に隠されていたのです。
人という霊的生命体にはその両者があり、それが時と場合によって、複雑に見え隠れしているのです。
一部を見ても何も分かりません。
心を救うには、すなわち、本質である巨大で複雑な魂を救わなければなりません。
そのためには、日々の生活において、この巨大な意識体としての自分を、時と場合によってどのように引き出すかを学ばねばなりません。
表面意識に振り回されるのではなく、自分自身が表面意識を制御することが必要なのです。
地上で、肉を着て生きる以上、それが可能となるには、それを可能とする技術がいるのです。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング
を実践して頂き、わかりやすい霊魂学
、霊を知るために
、霊魂イエス
、ムーの大神人
、弁慶と弟子
などをご覧になって頂ければと存じます。
技術とはすなわち神伝の法。
最初に罪があるのだから、地上にいて、普通に生活をしていたら、どんなにまじめで道徳的で多くの人から慕われる生き方をしていようが、結局は、地上の法則に縛られ、知らないうちに幽体が傷つき、知らないうちに他人の幽体を傷つけ、やがて下に落ちて行くだけです。
生まれてきた意味である、霊的な進歩向上を常に目指し、今の地上では簡単に傷ついてしまう幽体を正常な状態にしておかなければ、人はほぼ間違いなく下に落ちます。
だからこそ、神伝禊法と神伝鎮魂法があらゆる地上の人間にとっては必須となるのです。
しかし、そこに依存心があってはいけません。
己が蒔いた種は己が刈らなければなりません。
地上に生きるありとあらゆる人に、最初の罪がある以上、知らないでは済まされません。
己の罪を知り、それを己の努力で消すしかないのです。
イエス師は仰いました。
「私は光である。私を信じる者は救われる。」
今、終末の世に、再びキリストが地上に降りられています。
下の世界の力によって、地上の人々の自由意思によって、神霊の力を地上に降ろすことが出来なくなる前に、終末を知り尽くしたキリストが地上に降りられました。
キリストを信じ、日々霊的トレーニング を実践し、少しずつでも霊的に進歩向上しようと努力し続ける人のみが本当の意味で救われます。
救われるとは、ご利益が得られることでも、命乞いをしてそれが叶うことでもありません。
ご利益など、ほんの一瞬の満足。
地上の命など、生まれた意味を知らなければ、新たな苦しみを生み、新しい霊的カルマを作る原因でしかありません。
救われるとは、人という霊的生命体が、最初の罪を知り、自らの自由意思と努力によってその罪を消し、何千年も続いた馬鹿馬鹿しい再生の歴史を終わらせることを意味するのです。
救いとはそれしかないのです。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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