地上という物質界にいても人は感動します。
間違いなく助からないと思っていた人が九死に一生を得た話で感動したり、オリンピックで金メダルを取った瞬間を見たら感動したりします。
それが身近なことであれば更に感動は深いものになるでしょう。
例えば、自分の子供が大事故に巻き込まれたらしい、ほぼ間違いなく亡くなっているはずだと思われていたのが、奇跡の生還を遂げた時、その親の感動というものは言葉に表せないくらいのものだと思います。
実は、神霊やそれに準ずるような高級霊魂がそこにいれば、その存在を認識できるレベルの霊魂は、それだけでもう表現のしようがないほどの感動がうちからこみ上げてくるそうです。
子供が助かった時の親の感動とは全く比較にならないほどのすごい感動のようです。
そこには、何の基準もありません。
地上で言うところの正や邪など入り込む余地など皆無です。
ただ、感動する。
そして、霊的に高級な世界における価値感とは極端な話、その感動の一言に尽きるそうです。
神霊やキリストの下で働く霊魂には、ただただそれしかないようです。
霊魂の本質は常により神に近づくということです。
そのためには、努力が必要ですし、困難を乗り越えなければなりません。
しかし、それはより深い感動を生み、より鮮明な感覚を与えてくれるようです。
神に近づくということは、当然自由意思によるものであり、その選択の結果、ただ単に神霊やキリストやそれに準ずるような高級霊魂の方々のために全てを捧げたいという気持ちになっていくようです。
最後は、もうただそこに神霊やキリストがおられるだけ、それだけで至福を得られるということになるようです。
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死後、上に上がればどんどん上がっていけるチャンスが増えていき、下に落ちればどんどん下がっていく要因が増えていきます。
まさに、死後、上層幽界に入るか、下層幽界に入るかは、その人の霊魂として運命を決定づけてしまうといえるのかも知れません。
全ては、地上での生き方にかかっています。
霊魂としての幸せは全て地上に隠されていると言っても過言ではありません。
しかし、地上の人間は気がつきません。
目の前に肉の体をまとったキリストがおられても全く分かりません。
神霊に何かを誓ってしまったのに、平気でそれを破ってしまいます。
天罰などありません。
一度裏切れば、高貴な存在は、もう二度と関わりをもたれないだけのことです。
自由意思は絶対です。
絶対ということはまさに絶対なのです。
それでも、地上の人間は何一つ深く考えずに、自由意思を行使します。
あとには、自由意思行使の結果が残るのみ。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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