初心忘るべからずなんてねえ | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

「初心不可忘」と「花鏡」で世阿弥は書いていますが、この言葉の意味は間違って解釈されているようです。

「初めてその事にたずさわった時の感動や意気込みを忘れずに物事に当たらなければならない」という世間での一般的な解釈は正確ではありません。


世阿弥は「三ヶ条の口伝あり。」と書いてあります。

「是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」


すなわち、「初心者の時の芸の未熟さを覚えておくことで、自分の芸の上達ぶりを相対的に知ることができ、同じ過ちを犯さなくて済む。」

「芸が上達していく過程においても、その段階段階におけるそれぞれの“初心”がある。」

「年老いてある程度の芸の極みにまで達しても、これで良いと言えるような到達点はないので、その境地に達しても、そこには新たな初心がある。」


ということなのです。

霊的修行においては、正に金言だと思うのですが、実はなかなか難しいことでもあります。

人は常に慢心してしまう危険と隣りあわせでいるのですから。


ところで、一般的な解釈の初心ですが、こちらも忘れずに維持するなどということは極めて難しいことです。

人の心は常に変化します。

頑張ろうと思った数時間後にさぼることを考えたり、ほとんどのことが三日坊主で終わったりします。

実は、これは人の心の特性なので、変わること自体は別に悪いことでも何でもないようです。


霊的な進歩向上を目指して道を歩み始めても、いつしか惰性になり、いつしか初心を忘れます。

そのこと自体は問題ありません。

大切なのは、そのことを理解し、自覚して、常に自分で刺激を与えるよう工夫して、自分で修正しようと努力するかどうかということなのです。


霊的カルマも苦悩もそうですが、ありのままをきちんと受け止めて、それと向き合い、自分自身の努力によってそれを乗り越えようと最善を尽くすことが大切なのだと高貴な存在は何回も繰り返して仰います。

肉をまとった地上の人間に、高貴な存在は過度な要求はされておられないのです。


さて、いつものようにこのブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐ始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学 龍の正義 弁慶と弟子 霊魂イエス 契山館 が管理するサイトである霊を知るために などをご覧になって頂ければと存じます。


倫理や道徳は、施政者や宗教的権威者が人々を治めるために用意した概念です。

それは、その時々の都合によって大きく変化し、多くの人々を縛ります。

もちろん、今の世の中に法律は必要でしょうし、一定のルールがなければ、社会は混乱してしまいます。

しかし、それは便宜上のことであって、絶対的な基準ではありません。

まして、法律やルールを超えた部分での倫理や道徳など、勝手に作られたものであって何の基準にもなりません。


初心忘るべからずと言って、人を戒めることは簡単ですが、実は人間というものは怠惰な部分を本質として持っており、欲望の塊とさえ言える存在です。

どんなにきれいごとを言っても、究極になれば、まずは自分自身を守ります。極めて利己的な存在なのです。


それは致し方ありません。

ところが、それらを倫理や道徳などというまやかしの言葉で封じ込もうとするから、反作用が起きて、霊的にはむしろ悪い状態になってしまうのです。

さもあらん。だからこそ、それを改善していくんだ。最善を尽くすんだ。

高貴な存在が求めておられることはその程度のことなのです。


しかし、その程度のことすら出来ないので、人類は何千年も負の連鎖を続けているのです。

今、この地上に生きている以上、いかなる人であっても言い訳は出来ません。

そして、もちろん、僕自身がその愚かな人類の最たる存在なのです。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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