なぜか富士山に呼ばれて | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

今から、15年ほど前のことだったと思います。

従って、まだ霊魂学 を知らない頃でした。

何人かの霊能者の方々との約1年に渡る濃密な交流が、逆に、僕に霊的なことから離れることを決意させてから少し時間が経っていました。


前にも書いたことがありますが、僕は当時、司法試験の勉強をしていました。

仕事をしながらの勉強でしたので、土、日や祝日は貴重な勉強に専念できる日でした。

特別な用事がなければ、いつも8時間くらいは勉強していたと思います。


ある日の日曜日の朝、テレビをつけた瞬間に忍野八海が目に飛び込んできました。忍野八海の存在をその時初めて知ったのですが、次の瞬間に富士山が映った時に突然、すぐに富士山に行かなければならないと思いました。

貴重な日曜日を一日潰してしまわなければならないのですが、どうしても今日、行くべきだと感じました。

しかし、事前に何の用意もしていないのですから、急に、富士山へ行くと言っても登ることは出来ません。

そこで、とりあえず、忍野八海へ遊びに行って、そこから富士山を見て、何かやるべきことを感じたら、それをやってみようと思いました。


観光地となっている忍野八海には予想していたよりも多くの人がいました。

ちょっとだけ忍野八海を見て、あまり人がいないところを歩いていると、小さなそしてほとんど手入れがされていない神社を見つけました。

木花咲耶姫命が祀られている浅間神社でした。


誰もいない小さな神社の鳥居をくぐって敷地内に入るとな、な、なんと・・・・・。

とドラマではなるのでしょうが何も起きませんでした。

実は、この話にはオチはありません。

僕はその場所から富士山を見ましたが、当然のことながら、何かを語ってくれることはありませんでした。


さて、いつものようにこのブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐ始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学 龍の正義 弁慶と弟子 霊魂イエス 契山館 が管理するサイトである霊を知るために などをご覧になって頂ければと存じます。


世間で言うところの霊能力者でもなく、霊魂学 の存在も知らず、霊的トレーニング も行なっていなかった当時の僕が、なぜ突然、富士山に呼ばれたと感じたのかは今も謎です。

あれは何だったのだろうかとたまに思い出すことがあるのですが、もしかしたら、守護霊か指導霊の方が何かを意図してそれをさせたのかも知れません。

何も見えず、何も聞こえず、何も感じませんでしたが、霊的には何かあったのかも知れませんね。

もちろん、単なる勘違いだったのかも知れません。

死後、守護霊の方に会うことが出来たら、聞いてみたいことの一つです。


ただ、その時、一つだけ分かったことがあります。

結局、僕は霊的なことから離れることは出来ないということです。

ずっと、探し続けている何かがあるからです。

その答えはまだ見つかっていません。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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