ちょうど5年前に僕が受けた公開霊査の文章が手元にあります。
人は生きるためには、なにごとも。
人が生きるということは、肉の身を保持し続けることであるが、同時に肉の身を省みずに行為することなり。
その意味は、やがて分かる。
どなたか知れませんが、かなりレベルの高い指導霊の方からの言葉です。
指導霊というのは、守護霊と同じ上級幽界に住む方で、人の人生における霊的な指導の最終的な責任者は、守護霊ですので、かなりレベルの高い指導霊という言葉が意外でした。
守護霊よりもレベルの高い指導霊というのが存在するのだろうかと思ったからです。
もしかしたら、僕個人の指導霊ではなく、会の指導霊の方だったのかもしれません。
僕は、「肉の身を省みずに行為することなり。」
という言葉の意味が全く分からず、ずっと気になっていました。
霊魂学 においては、苦行を良しとしません。
むしろ、意識が苦痛の方に集中してしまうので、良くないとされています。
それなのに、肉の身を省みずに行為するというのはどういうことなのだろうかと、何度も考えましたが、当然ながら肉の脳では答えなど見つかりませんでした。
「その意味は、やがて分かる。」
当時は、神伝禊法の中伝である風の禊をやるところまできていましたので、本来であれば、それなりの霊的感性である程度は分からなければならなかったのでしょうが、残念ながら、さっぱり分かりませんでした。
人は、地上に生まれてくると肉の身を保持するために食べたり飲んだりしなければなりません。
しかも、肉の身はすぐに疲れるので、一日の約3分の1ほどは寝なければなりません。
要するに一生の約3分の1ほどの時間、人は寝ているのです。
このことが僕にはずっと理解できませんでした。
人間は、何か目的があって生まれてきたのだとかなり小さい頃から感じていましたので、それなのに3分の1も意味もなく、体を休めるために寝なければ生きていけないとは、人間とはなんという間抜けな生き物なんだろうと思い続けてきました。
食べるために、人生のほとんどの時間を労働や家事や子育てに費やし、しかも3分の1は寝なければならないのです。
神の存在は信じてきましたが、なんとまあ間の抜けた生き物を神様は造られたものだと呆れていました。
恋人とデートしたり、海外旅行に行ったり、豪華な食事をしたり、スポーツ観戦したり、綺麗な服を買ったり、高価な貴金属を身につけたり、家族との笑いに満ちたひと時を過ごしたりと人にはそれぞれ幸せや楽しみがあるでしょう。
しかし、それらは全て人生全体からすればほんの一瞬の出来事です。
しかも同じことの繰り返しだといつかは飽きてくることもありますし、同じような幸せな状況が一生を通して続くということもありません。
仕事が生きがいだという人もおられるかもしれませんが、成功や出世のその瞬間の喜び、達成感が得たいからで、ほとんどの時間は地道で苦しいことの積み重ねが必要となります。
時には、会社の正義によって、法律や己の正義を曲げてしまわなければならないこともあります。
人生の本質的な部分をよく見つめてみて下さい。
結局、肉の身を維持するために人生のほとんどの時間は家事などを含めて労働しているのですが、突き詰めて考えてみると、その成果は、食べることとと寝ることのために使われています。
もちろん、子供を育てるということもありますが、それは自分自身も育てられたわけですから、イーブンです。
すると、結局人間は、食べて寝るだけのために地上に生まれ、次から次へと襲ってくる苦悩にあえぎ苦しみながら、何一つ霊的に進歩することなく、やがて100年もたたないうちに死んでいくのです。
そして、また地上に生まれてきて、同じようなことをして死んでいく。
それが、知的生命体と自画自賛する人間という生き物の一生なのです。
さて、いつものようにこのブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐ始められる霊的トレーニング
を実践して頂き、わかりやすい霊魂学
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などをご覧になって頂ければと存じます。
果たして、あなたは食べて寝るだけのために生まれてきたのでしょうか。
ささやかな幸せ、ほんの一瞬の喜びはあるでしょうが、よくよく考えれば肉の身の保持のために生きていることに気がつくはずです。
そして、更に突き詰めていくと、何か目的があって生まれてきたということに気がつくはずです。
食べて寝るだけの、そして苦悩続きの何の意味もない人生を送るために、あなたは生まれてきたのではないことを教えてくれている存在に気がつくはずです。
「肉の身を省みずに行為することなり。」
「その意味は、やがて分かる。」
残念ながら、落第点続きの霊的修行者である僕には、その意味はやがてどころか、2年たっても3年たっても、挙句の果てに神伝禊法奥伝である霊の禊を行なうようになってからも分かりませんでした。
結局、修行というのは、作法よりもその中身が大切だと言うことです。
しかも、その修行が高度であれば高度であるほど、その完成度が重要になっていきます。
地上の人間にとっては不必要だとさえ思われるほど高度な霊の禊も、初伝である水の禊を極めることにはるかに劣るわけです。
水の禊には、10点も60点も80点もありますが、霊の禊には、0点か100点しかないからです。
逆に言えば、それほど水の禊とは奥が深く、すごいものなのですが。
いずれにしても、僕は神伝鎮魂法の奥伝である鏡の鎮魂の合宿の時にようやくそのことに気がつきました。
そして、なんとなくですが、
「肉の身を省みずに行為することなり。」
の意味も少しだけ見えてきたように思います。
霊魂学 は、霊的トレーニング を実践することによってのみ、やっとその一端が感覚としてとらえられるようになると今更ながら痛感しています。
しかし、大部分は全く分からないままですし、分かったつもりのことが分かっていなかったり、大きなミスを犯したりと、肉の脳が表面意識を支配しているために、何一つ進歩していない自分に気がつかされます。
しかし、それでも、泥水を飲みながらも、他人に唾をかけられながらも、真実を求めて進まなければなりません。
そうしなければ生まれてきた意味がないからです。
食べて寝るだけ。
いったい何回そんな人生を繰り返してきたのでしょうか。
もう今度こそ最後にしなければなりません。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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