ぼろは着てても 心の錦
どんな花より きれいだぜ
水前寺清子さんの歌です。
ぼろは着てても心は錦という言葉が有名ですが、歌詞では「心の錦」となっています。
さて、僕が小学校5年生の時だったと思いますが、授業中に担任の先生がこの歌の歌詞について話し始めました。
どんな流れでそんな話になったのかは覚えていませんが、とても印象的だったので僕にしては珍しく今でもその時のことを覚えています。
「ぼろは着てても心は錦と言うけれども、そんなことはあり得ない。人間貧乏すれば心もすさんでいく。こんないい加減なことを言うのはおかしい。」
とそんな内容だったと思います。
僕はこれには引きましたね。
現実はそうであるにしても、この歌は若者に希望を与えるためのものだったのですから、小学生の子供に教えるのであれば、現実的な面を教えながらも、それに対するフォローも必要だと思ったからです。
「この人、先生に向いていないんだなあ。」と思いました。
さて、霊魂学 においては、貧乏が奨励されるということはありません。
お金に目がくらんで、霊的修行者としての道を誤るということはもちろん望ましくありませんが、お金があること自体には否定的ではありませんし、一般論としてはお金持ちであることが霊的修行の妨げになるという考えもありません。
むしろ、あまりにもお金に困っていると、霊的トレーニング の合宿に参加できませんし、遠方の方が、霊的集会 に参加したくても交通費がネックになって参加できないということにもなりますので、一般論としては大変良いこととは言えないかもしれません。
衣食足りて礼節を知るという言葉もあります。
但し、この経済的な環境が個々の霊的カルマの問題となると話は違うようです。
すなわち、人は、霊的カルマを解消するためにこの世に再生してきたわけですので、解消するのに相応しい環境が整えられます。
その中には、当然経済的な環境も含まれます。
霊的カルマの解消のために、どん底の貧乏生活を送らなければならないということもあるようです。
従って、一般論としては、極端な貧乏は必ずしも良いことではないと言えても、ある人にとっては、そのことが人生において極めて重要な要素であるということもあるのです。
そうだとすると、今、日々の生活を送っている僕たちの経済的な環境というものには何らかの意味があるということになります。
長引く不況で経済的に苦しんでおられる方は少なくないと思いますが、霊魂学 を学び、過去世 調査や霊査 を受けられるとなんとなくその意味が分かることがあるかもしれません。
そして、そのことは、自分がなぜ生まれてきたのか、そして何をするために生きていかなければならないのかという人生最大のテーマを紐解くきっかけになるかもしれません。
そのためには、わかりやすい霊魂学 や霊魂イエス などの書籍を読んで霊魂学を知ってもらい、日々霊的トレーニング を行うことにより、霊的な進歩、向上をするしか他に方法はないと、僕は確信しています。そして、実感もしています。
今、なぜ人生でこのような状況におかれているのか、その本当の意味を知りたいと思いませんか。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
※ 契山館
、霊魂学
、霊的トレーニング
、日々の生活における修行
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