僕には霊的修行者としてずっと感じていた違和感があります。
修行者としての自分に対する違和感です。
霊魂イエス
を読んで、何十分も声をあげて泣き続けることがあるのに、1年も霊的トレーニング
をやらなくなってしまったり、そうかと思うとまた突然霊的進化に強い願望が湧き上がってきたりと自分でも驚くほど上下に揺れてきました。
よほど重い霊的カルマなのかなあ、それともそもそも霊的修行者として向いていないのかななどと考えたりしたのですが、どうもそのようなこととは違う本質的な部分で何か大きな間違いを犯しているのではないかという違和感がずっとありました。
入会した時点で、先輩方には神伝禊法も神伝鎮魂法も奥伝までいかれた方がおられると知るや、まずはダブル奥伝までいきたいと目標を立てました。
その後紆余曲折を経ながら、赤点の連続であったにも関わらず、ある時、禊の奥伝にまでたどりつけました。
ずっと感じていた違和感も、この恐ろしくレベルの高い禊をすることによってきれいに消えてしまって清々しい気持ちになれるだろうと思っていました。
ところが、禊法の奥伝合宿が終わり、日々霊の禊を行っていても、その違和感は全く消えません。
むしろ、その感覚は強くなっているようにも感じました。
あまりにも落第生だから、合宿には参加させて頂いたものの、霊の禊どころか水も光も風も全く自分のものになっていないのではないかとも思いました。
しかし、どうやらそれとは根本的に違う問題のような気がするのです。
そして、今年の鏡の鎮魂の合宿を迎えました。
すっきりしない気持ちはかなり強くなっていました。
朝食を食べる時に、レストランでたまたまある修行仲間と一緒になったので、久しぶりにいろいろな話をしました。
その方から、鏡の鎮魂に関する、あることに対する意見を聞かれた時にうーんと感じたことがありました。
そして、それから派生して修行仲間が行った霊術の話になった時にもっと明確に感じるものがありました。
話していた内容とは直接関係無いことなのですが、自分はもしかしてとんでもない勘違いをしているのではないかとふと思ったのです。
ただ、その時はまだ漫然としたものを感じただけですし、合宿に集中しなければなりませんので、そのことはすぐに忘れてしまいました。
さて、合宿から帰ってきてほんの数日後、ふと合宿で感じたあの感覚を思い出しました。
「自由意思とはなんだろう。どうも神や高級霊魂を拒否することや契山館 を退会する時に行使するみたいなマイナスのイメージばかり持ってしまっているけど、霊的進化を望むのももちろん自由意思のはずだし、そもそも自由な意思なのだから、その裏には当然、無限の自己責任があるはずだ。
霊的カルマの解消や霊的身体の成長は当然必要だし、そのために禊や鎮魂法という霊的トレーニング をやっているのだけれども、日々の生活における修行 も両輪の片方の車輪として大切なはず。でも、そんなことは何度もいろいろな本を読んでわかっているはずだ。苦しみに耐えながら、反省して、改善して・・・・・、そしてチャンスを待つ。
うん?チャンスを待つ?
霊的修行者として本格的に活動できるようになるそのチャンスを待つ・・・・・・・。
チャンス?待つ?
自由意思の裏に自己責任があるはずなのに、そのチャンスはいったい誰がくれるのだろう。
苦難や苦しみはカルマの解消、霊的進化のためにあると言うが、それを乗り越えるチャンスというものが、苦しみに耐えながら待っていれば、どこからか沸いてくるのだろうか。
もしかして、僕は霊的修行者として決定的な間違いを犯していたのではないか・・・・・。
チャンスなどどこからもやってこない。
そもそもワンチャンスを狙って「霊的トレーニング やりたくない病」を治そうとする発想そのものが間違っている。
チャンスではなく、何かのきっかけが必要ならば、待つのではなく自己責任でそれを作り出すしか苦境を乗り越えることなどできないのではないか。
無理でも何でも自分が霊的進化のためにやらなくてはならないと感じていることは全てやると決意して動き出さなければ、このままずっと似非霊的修行者のまま終わってしまうのではないか。
なんでこんな当たり前のことに10年も気がつかなかったのだろう。」
唖然としました。
あまりにも当たり前すぎることにやっと気がついたからです。
そして、僕は、その時、やろうと感じていることは全てやろうと決意しました。
その瞬間、10年連れ添ってきた違和感はうそのように消えてしまいました。
霊魂学 を学び、霊的トレーニング を実践するとどんな良いことがあるのかと考える方は多いと思います。
世間で言うところのご利益はないと言っても良いでしょう。
心身ともに充実し、必要なお金があって全く生活には困らないような状態を期待しても必ずしもそうなるとは限りません。
僕はこんな当たり前のことに気がつくのになんと10年もかかってしまいました。
しかし、契山館 との出会いがなく、霊魂学 を学んだり、霊的トレーニング を行ったりしなければ、こんなことにすら気がつくことなく、長々と苦悩に満ち溢れた人生を送り、何一つ霊的に進化することなく、そして、死後は間違いなく下層幽界に落ちて、本体の脚を引っ張り続けることになったでしょう。
蜜の甘さはなめた者にしかわかりません。
インターネットや話だけで、「僕は蜜をなめてみたけど、甘くて甘くてこんな美味しいものがこの世にあるなんて知らなかったよ。」と知らされても、それをなめてみようとしないという心理はよくわかります。
蜜ではなくて、猛毒かもしれないからです。
しかし、間違いなく毒だと確信されないのであれば、なめるだけなめてみてはいかがでしょうか。
どれほどのリスクがあると思われるのでしょう。
なめてみて、自分には合わないと思われれば、二度となめなければ良いだけのことだと思います。
ここまで言い切るとご批判を浴びるかもしれませんが、なめることにためらいがあると感じられる方は、あれこれ考えずに、なめないと決めてしまってはいかがでしょうか。
なめてみたいと思うのであればなめてみる。
興味があっても何かひっかかってなめることができないのであればなめないと決める。
それだけのことだと思います。
自由意思は全てにおいて尊重されます。
自己責任という裏書付で・・・・・・・・。
少しでもご興味を持って下さった方には、わかりやすい霊魂学
や霊魂イエス
を読んで頂きたいと申し上げておきます。
リンク先をちらっとご覧になるだけでは、かえってわからなくなってしまうかもしれませんので、一つの書物を最初から最後までじっくり読んで頂くほうが良いかと存じます。
読むだけではまだ蜜の味はわかりませんが、蜜とはどういうものかはある程度想像して頂くことができるはずです。
また、契山館 、霊魂学 、霊的トレーニング 、日々の生活における修行 について更に詳しく知りたい方は、契山館 が管理する以下のサイトをご覧頂ければと思います。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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