前回の続きです。

例えば小泉政権の時に小泉改革を批判していた急先鋒として活躍していた植草一秀氏。彼は痴漢の容疑で逮捕され、それこそ推定有罪でボロクソに叩かれましたが、今はどちらかと言えば彼を擁護する人が増え、彼の掲げる問題点に同意する人も増えたと思う。自分も彼が小泉政権華やかなりし頃に言っていた小泉路線への攻撃は、あれだけ世論が一色に染まっている中で、中々タフな物言いをする人だと思って注目もしていたし、彼の言っている事は非常に筋が通っていた。

しかし例の事件で彼はそれこそ尊厳もクソも無い程叩かれて、多くの国民も彼を叩いていた。それが今では世論の風向きも変わって彼を擁護する人も増えた。多分その中にはあの当時批判していた人や、小泉改革万歳だった人も混じっていると思います。それは別に構わない。何かに気付いて考えを変えるという事は悪い事ではない。だけど自分にはそれが本質的に小泉改革に拳を振り上げていた構図や抵抗勢力を叩いていた構図と何も変わっていないのではないか?という風に見える。

自分は植草氏の経済に対する見識は非常に興味があったし、多くの気付きも与えてくれたので、そういう意味で彼の言っている事は聞くべしというスタンスでした。しかしそれは彼が痴漢をやっているとかやっていないとか、そういう問題とは関係ないし興味も無い。自分にはその事はわからない。仮に彼が痴漢であったとしても、彼の経済に対する考えは重要な論点を含んでいるという事は変わらない。プラス推定無罪原則という事を大切にすべしというのと、刑が確定して償った事に対しては、それ以上何も言うべきではないという事を重視すべしという意味で彼の論点は重要だと言って来た。

しかし最近の風向き、彼を支持する人々を見ていると、何となく危うい感じがする。痴漢をやったかどうか、冤罪かどうかにやたら注目し、なんたらかんたら陰謀説みたいな話を叫ぶ人がやたら増えている。そして植草氏自体の言説も、彼は痛い目に合わされたと主張する当事者であるわけですから(本当に彼が冤罪であるなら尚更)しょうがないとは思いますが、論理性の中に、過剰な怨み節が混じっていて、ちょっと感情論が前に出過ぎているような気もするし、

(これは天木直人氏なんかもそうで、言っている事自体は、ある程度聞くべき事はあるだろうとは思いますが、ちょっと感情論やきれい事ばかりに聞こえてしまう。一方的に善悪の線を引き、線の向こう側への暴力に無自覚です。いくら正しくてもそれでは意味がない。だから今イチ自分は支持出来ない。例を挙げると例えば村上春樹氏の例のイスラエルでの受賞の際のスピーチに噛み付いて否定する。「壁と卵があったとしたら、仮に卵の側が間違っているとしても自分は卵の側を擁護したい」という言葉が気に食わないと言う。要するにこの場合、卵をパレスチナ側に見立てたもの言いなわけで、パレスチナ側が仮に間違っているという事などあり得ないと言うわけです。イスラエルの暴力が仮にとは言え正しいなどという事はあり得ない許さんぞと。まあ言いたい事はわかるけれど、そのときその時で人を説得する為のプレゼンテーションというのがあるわけで、イスラエル人<ユダヤ人じゃないひともいますから>に、お前らは間違っているから辞退するというやり方が善悪で言えば正しいのかもしれないけれど、何もサブスタンスは無い。線の向こう側に語りかける言葉や説得する言葉を否定したら、争いは無くならない。彼らにだって伝わる言葉というのはあるはずで、それを日本人の立場として、出来るだけ効果的な言葉を選んで村上氏は言っている。それでも伝わらないかもしれないけれど、伝わらないから言うだけ無駄だと否定したら、こういう争いは絶対に無くならない。線の向こう側を断罪するだけでは、線の向こう側を益々硬直させるだけ、敵視を煽るだけになる。だからイスラエルの人たちに向かって、貴方達には貴方達にとっての善があるのかもしれないが、過剰な暴力はどんなに正しくてもそれは過ちを引き起こす事につながるという事を自覚して下さいという事を言っているわけで、お前らは間違っているから正せという言い方をするよりも効果はあると思う。彼の批判というのは「何々と言った」みたいなのばかり、批判というよりケガレているという言い方ばかりです。これは自分の暴力に無自覚であまりクレバーなやり方ではない、護憲論者の中では比較的希望の持てる言い方をする人が出てきたと思ったので、自分はどちらかと言えば改憲派ですが、彼の言説には注目している。護憲の中で言い争っている場合ではないと彼自身言っている。それはもの凄く正しいと思う。つまり線を引くよりサブスタンスを重視しろという事です。しかし護憲という括りの外側に対しては、サブスタンスより線を引けと言ってしまっている。言うのは別に構わないけれど、護憲の中での線の引き合いや争いを否定するようなまなざしを、線の外側に対してももう少し向けてほしい気がする。)

彼を支持している人達も、彼は冤罪だったかどうかはわきにおいて、事件の当事者であるという事を冷静に見えてないような気もする。

推定有罪一色の頃は、冤罪の可能性もあるわけだし、彼の言っている事と、その行為は関係ないのだから、痴漢が偉そうに言うなとか、犯罪者の分際でみたいな、今の小沢批判にも当てはまりますね、与党のクソ野郎共がほざいておりますが、そういう批判は的外れであると言って来たわけです。犯罪者であったって正しい事をいう可能性はあるわけで、犯罪者には何も言う資格は無いみたいな今の与党のバカ共のような言い方というのはナンセンスです。そもそも刑が確定するまでは犯罪者では無いですし。罪を償えばその事は済んでいる事でもあるわけで、被害者が言うならともかく、第三者が犯罪者扱いして話も聞かないというのでは、一度過ちを犯したらお終いと言っているのと変わらない。そんなものは論外以前の問題です。

しかし今の状態も結局彼が冤罪かどうか陰謀論を騒いでいるだけで、批判の方向性が逆になったとは言うものの、本質的には何も変わっていないように思える。彼が冤罪かどうかはわきにおいて、彼は当事者な訳だから、彼自身の冤罪を主張する意見というのは話半分で聞いて、彼の経済に対する知見をアブストラクトして聞く(彼自身の言説が感情論が混じっちゃっているので抽出出来難くなっておりますが)という行為態度は相変わらず無い。犯罪者扱いして叩くのも、冤罪だと言って擁護するのも、その事と彼自身の言説を切り離して考えるという事が出来ていないという意味で同じです。

鈴木宗男氏がボロクソに叩かれている時も、自分は同じように当時は彼を一方的に叩く事に対しては反論を言ってました。彼への批判が頂点に達していたとき、ペットだか、マスコットだか、何にだったかは忘れましたが、何かの名前をつける時に、ムネオちゃんと提案して批判された事を覚えています。何でそんな不吉な名前を付けるのさと言われた。何か仕事かなんかの割り振りのグループ名を考えている時に、ムネムネ会と提案した事もあった。それも不人気でしたが、ようは彼が悪者かどうかを誰かが言っているからと言って決めつけるのは間違っているから止めろという意味でそれを言った。まあ知りもしないのに頭から湯気を吹き上げている人には通じませんでしたけれど、だいたい論破して納得させる事も出来た。

だけど今の彼の検察批判というのを100%真に受けるわけにはいかない。彼は怨みがあるわけで、頭に来ているに決まっている。だから話を割り引いて聞かないと、彼を叩いていた連中と同じになる。そういう意味で言うと彼と一緒に血祭りに上げられた佐藤優氏なんかはそのへんのバランス感覚は素晴らしいと思う。検察批判もただの怨み節には陥らないような距離感や自分の怨みや怒りを相対化して論理を組み立てている。

当たり前ですが、植草氏にしろ鈴木宗男氏にしろ、彼らが当事者としての主観が混じっているから、必ずしも間違っているとか言いたいわけではないし、彼らは主観が混じるとか言ったって当事者なんだから当然混じるに決まっている。自分だったら逆上して暴れまくってお縄になっているかもしれず、それに比べればよくあんなに冷静にいられるもんだと逆に凄いとさえ思う。感情論が混じると言ったって、混じって当然だし、自分が同じ立場だったら、暴言や感情論を喚き散らしているかもしれず、あそこまで徹底的に四面楚歌で叩かれたら、もっと愚れていると思う。そう考えれば凡人からすれば随分と冷静に感情論を押さえているとは思う。だけど、そうだとしても当事者で痛い目に合わされたと主張している当の本人なわけで、彼らの意見が100%正しいと見てしまうわけにはいかない。話半分で聞く必要がある。それは正しくないと言っているのとは意味が違う。

これと同じ状況に立たされている構造が、竹中平蔵の中にも若干見えるような気がする。植草氏が最初に小泉竹中路線を否定した頃というのは、小泉竹中翼賛絶好調な時期であり、逆に言えば抵抗勢力の代名詞として叩かれていた亀井静香氏の経済ブレーンとして、元々植草氏というのは広く知られるようになったという事もあるので、まるで悪の権化みたいに言われていた亀井静香的な古い自民党の抵抗勢力の不人気と同様に、植草氏の指摘も、所詮古い抵抗勢力擁護の意見だという捉え方が多かったのではないかと思う。小泉竹中路線を否定する前に、それ以前の自民党的方向性というのはすでに、多くの誤りもあったし、国民的にも人気もなかったのでお前が言うなよ的な一般的な感覚もあったような気がする。

要するに中立的な見方で言うとすると、実際に小泉以前の自民党の頃の方がマシだったか?と言えば、そんな事も無いわけで、森内閣の時点で、加藤の乱の失敗なんかもあったし、自民党というのはもうどうにもならない所にまで追い込まれていた。実際に90年代の舵取り自体も、決して褒められたものではないし、日本の国益もボロクソにされていたのは確かに事実だったわけで、その頃を擁護するような連中に正統性なんかあるのか?見たいな感覚というのはあったでしょう。小泉竹中路線が大人気で、その90年代路線が全て間違い、構造改革路線こそ善という方向性に、みんな翼賛していたわけで、見え方としてはその善なるものに対して、古い既得権擁護をして来た連中の代弁者みたいな感じにも見えたでしょうし、何となく自分の正しさを否定された事に対するルサンチマンを爆発させてるだけなんじゃないの?みたいな感覚もあったでしょう。一般的には。だから彼が例の一件で捕まってしまった時には、一斉にバッシングが起こったのではないか?という気がする。

だけどこの姿というのは、構造改革悪と叩かれている今、自らの改革は正しかったのだと必死に吹き上がっている竹中、そしてそれに対するまなざしなんかと似ているような気がする。自分の正当性を主張して、今の政策の方向性を批判する。あの頃の植草氏と重なる所もあります。もちろん自分は竹中にしろ植草氏にしろ、彼らが本当は正しいかどうかというのはわかりませんし、この二人を同じくするのは不遜な話だと言いたい人の気持ちもわかる。だけど、ここは冷静に物事を見ないと、同じ事を繰り返す事になりかねない。

かんぽの宿の問題なんかで騒いでいるように、確かにそこには竹中とオリックスの恣意性が見える。法律的に有罪にする事は無理だと自分は思いますけれど、何でオリックスなのさ?という疑惑は残るし、竹中も一枚噛んでんじゃねえか?という一般的な感覚も理解出来ます。

が、例えば植草氏のような人というのは、こういう疑いのまなざしの暴力によって、徹底的に尊厳を傷つけられたという過去があるわけですから、本当だったら、政策的な誤り指摘するのはいいとしても、陰謀説を煽り、竹中は怪しいから推定有罪で叩けと煽る事に対してはどうなんだよという風に思ってしまう。否定する立場であるべきなんじゃないの?と。彼は当事者だから怒り心頭なのはわかりますが、まわりの人間も一方が法の恣意性や推定有罪で叩かれて傷ついた人を擁護するという方向性なのにも関わらず、敵視しているからといって、アイツは犯罪者に決まっているから推定有罪で叩くべしと吹き上がっている構図は褒められたものではない。

竹中は大っ嫌いだけれど、彼を推定有罪で叩く奴は許さないと表明する事こそ、真に公正中立な立ち位置なんじゃないのか?という気がする。その立ち位置を取るものだけが、あの当時植草氏を叩いていた暴力に対して文句が言えるのではないか?と。

それに、例えばかんぽの宿の問題で言うとすると、この問題は要するに旧郵政省の問題もあるし、郵政民営化以降の問題もある。利権Aから利権Bへと移行しただけだという風に見える。だから鳩山的動員の影に隠れているものと、小泉竹中的影に隠れているものの鍔迫り合いというのは、どっちの便所が汚いかって話をしているだけで、サブスタンシャルじゃないような気がする。このどっちの便所にも隠れている小汚さを白日の下にさらして徹底追求する事は重要だと思います。

しかし利権B側、要するに郵政民営化を実行した側がいま馬脚を表したという事で叩かれているわけですが、国民がずっと利権Aを支持して来たのは間違いなくて、利権B的改革も支持したのは間違いない。いずれも国民が無自覚無関心で、そして改革だと拳を振り上げて。

利権Aが腐っているという事はある時点で国民も共有したはずです。だけどこの時に利権Bの勢力を無自覚に翼賛した。しかし国民側のメンタリティというのは利権Aの時代から根本的に何も変わっていない。口を開けてお上に依存していれば良い事があるという発想だったのではないかと思う。腐敗堕落の再配分に口を開けて待っていればいいという行為態度から、改革を信じれば世の中が良くなるはずだと口を開けて待っている。クレクレ主義的精神は変わらず、何かに依存していれば誰かが変えてくれるという発想は変わらない。ちょっと自分にとって不都合があると簡単に文句を言い出し、自分に関係ない話であれば興味も無いという。

このメンタリティを多くの人間が抱えたままで、本当に事後チェック型に移行するなんて事が出来るのか?という問題があるわけです。それは我々自身がコストを負担する社会でもある。自分の頭で考えて、自分で決断を下さないとならない。そういう事までおそらく望んでいなかったのではないかと思える。なんだかわからないけれど、構造改革さえ行なえばみんなハッピーと勘違いをしていたような。事後チェックに変化するという事は、これからの方向性としては当たり前の前提に変わるという話でしか無く。そこから先は市民性が問われる事になる。土のついた言い方ですが自己責任にするしかない。政府に金が無いのだから。

それを受け入れる覚悟も、情報を吟味するリテラシーも無いのに、構造改革善と口を開けて待っている連中を動員してしまった小泉竹中改革というのは途中で相当行き詰まっていた。まあ自業自得だと言えばそれまでなんですが、事後チェック型に変化させると言ったって、市民性も無いし、国民にそれを負担する意識も無いのだから、コミットメントもバックアップも無い。何とかしてくれと待っている。ちょっと分け前が減りそうだとなれば、途端に手の平を翻す国民性な訳で、事前チェック型の腐敗堕落の再配分図式の頃から何も変わっていない。

そうなれば当然、打破すべく権益を打破する為のバックアップも無いし、国民は口を開けて待っているとなれば、打破する為には汚れた構造であっても、竹中を擁護して一緒に戦ってくれる人間に多少分け前を与えるからというインセンティブを与えて、権益構造を転換させる為に利用したとしても、竹中だけに問題があったのか?と思える。利権Bを批判している構図というのは、要するに利権Aを批判していた構図と同じ、いずれもサブスタンスはないように思える。

構造改革だと拳を振り上げた国民、しかし結局はただ口を開けて待っているだけ、しかも変わらないとなれば、批判を始めたり、自分の取り分が減るとなると、途端に目の色を変える始末。構造改革を進めようと思っても、バックアップもリソースも無いとしたら、味方をどこかからか連れて来て、何らかのインセンティブを与えて動員に利用するという事はしょうがないとは言いませんが、理解出来ない事も無い。

誤解されると嫌なので書いておきますが、自分は竹中を擁護したいんじゃなくて、彼を批判する批判の仕方が変わってないという事を危惧しているのです。竹中の動員に引っかかって抵抗勢力に拳を振り上げていた図式と変わっていない。

事前チェックか?事後チェックか?という二元論が今でも続いていますが、これはナンセンス極まりない話で、事後チェック型にする以外に選択肢は無いわけです。サッチャーやレーガン以降のリベラルの方向性というのは、事後チェック型の小さな政府というのは大前提です。今のオバマも小さな政府か大きな政府かという論点は無意味だと言ってましたが、それはもう小さな政府という言い方は語弊があるけれど、金が無いのだからそんな事を議論している時期ではないという話で、グローバル化の現在当たり前のコンセンサスであるから今更そんな下らない話をしている場合じゃないというわけです。

日本ではそんな20年以上も前にどこの国でもシフトした構造にまだシフト出来ない。というかバックフラッシュしているわけで、こういう国で事後チェック的転換を行なおうと思えば、竹中に薄汚い構造が見えたとしても、それは我々の民度と表裏一体の話ではないか?と思える。

よく北欧の話が出て、社会保障がしっかりした大きな政府であるという話になるわけですが、これは根本的な所を見落としている。そういう国というのは市場の透明化は日本よりも全然進んでいるし、海外からの投資もどんどん受け入れている。流動化も半端じゃない。バンバン解雇される。日本が必死で食い止めているものを全て受け入れている。その代わりに税金が半端じゃないくらい高い、給料の7割くらいは持って行かれる。しかしそれがキチンとリターンになってかえってくる。徹底的に透明化されている。だからセーフティネットもバッチリ整備してあるし、政府を信用出来るわけです。日本のように不透明だらけでネコババして誰も罰を受ける事さえ無いという国とは違う。全部役人の権益になって無駄遣いやりまくりとは違う。そして正規社員の年功序列システムなんかを護持している国とは根本的に違うわけです。徹底した能力実績主義を取り入れている。高コスト構造は徹底的に是正している。今の状態の日本で大きな政府なんかに舵を切ったって、この構造が是正されていないのだからどうにもなるわけないし、流動化に対する過剰な恐れがあって、既得権が権益を手放してなるものかと、末端を切り捨てているような国がそういう方向性に開いたって国際競争力なんて益々無くなるだけです。これは北欧だけの話じゃなくて、ヨーロッパは軒並みこの方向性へと程度の違いこそありますが進んでいます。

しかし東欧諸国というのは例外で、多くの国が徹底的に小さな政府路線です。それはなぜかと言えば、旧ソビエト時代に国家権力の腐敗堕落が半端じゃなかった。だから統治権力になんて金なんか渡せないとみんな思っている。どこかの国とそっくりですね。日本が社会主義とか共産主義国家と言われる所以はここにもある。つまり今の統治権力に金なんか渡したって、全部無駄にされるに決まっているとみんなで思っている。

という事は、北欧的な方向性に向かうとしたって、いったんは構造改革路線を徹底させないとどうにもならないわけで、そこを経由しないと社会保障を充実させるなんて事は出来るわけが無い。全部役人の権益となって政治家にキックバックが入って終わりです。まだそんな事をグズグズしているわけです。しかしその腐敗堕落の構造にぶら下がっている連中の抵抗というのは半端じゃないし、国民もこういう最低限のコンセンサスも無いわけで、いまだにこの前時代的二元論で綱引きが繰り返されている。小泉改革に騙されていたと吹き上がっている人達はこの辺を考えてほしいもんです。という事で、構造改革路線を悪と言う連中を疑えって話につながるわけでございます。

これは選択の問題じゃないのです。小泉竹中路線を否定するのはいいですが、事後チェック型へとシフトする事自体は不可避だし、やらないと何も話は進まない。国際競争力も無くなってしまう。そしてそこに移行するには、我々の市民性が必要になる。お任せで何とかしてもらえるような時代は終わったという事です。そういう時代に回帰したいのだとすると、戦争しか道は無くなる。インフラが根こそぎぶっ壊れて、人がいっぱい死ねば出来るでしょう。しかしそんなのはゴメンです。

もしくは一蓮托生で沈没して、徹底的に堕ちる所まで堕ちて、人口が半分くらいになってはじめて回復基調が始まるかもしれない。だけど今の世界の情勢から考えると、いったん堕ちる所まで堕ちたら、復活の経路は極めて難しいと言える。日本には売るものが無い。技術面も中国やインドに抜かれるのも時間の問題、走り続けるしか無い。歩みを止めるのならどんどん堕ちて行く。復活の経路があるうちに、日本というドロ舟が沈没しない為の方向性はすでに選択の問題じゃない。

事後チェック型の社会が問題になってしまう事の原因は、我々のメンタリティに隠れている。その事を自覚出来ないと先に進む事は出来ません。そういう意味で言うと、今の小沢に対する検察の取り締まりに対しての我々の反応、そして次の衆議院選挙というのは非常に重要な分岐点ではないかという気がする。民主党の政策は、容赦なく我々の市民性を試されるような方向性です。それを受け入れたくないというメンタリティのままであれば政権交代しても実現出来ないでしょう。

ちなみに補足ですが、民主党の政策がハッキリしないとか否定しているバカがいっぱいいますが、政策の骨格は結構出来ています。それを表沙汰にしない理由は、与党にパクられるからです。しかも役人の利権を潜り込ませて。今回の高速道路の話なんかも典型で、ちょっと前まで、環境破壊につながるとか言って、自民党は全否定していたにもかかわらず世論の空気を読んで、方向転換してしかも役人の権益塗れにして骨抜き、国民にツケを回すという図式に使われてしまう。今政策を事細かに言うと、何も理念もクソも無い自民党からすれば、利権さえ温存出来ればいいだけですので、全部骨抜きにしてパクられてしまいます。だから言わないだけの話。政権交代を選択するという事は不可欠ですが、それは口を開けてお任せ依存状態からは脱却しないとどうにもなりません。これを拒むのは自由ですが、世の中の流れ、世界の流れはそれを許してくれません。いい加減目覚める時なのではないかと思う次第です。

最後に、何で自分が竹中平蔵を擁護するかのような文章を書く事になるのか?世の中つくづく先の事はわからんもんです。誤解している人もいないと思いますが、彼を擁護したいのではくれぐれもありませんので、その事を誤解なされぬように。まあ誤解されても構いませんが。

それと同時に、自分は植草氏にしろ、天木直人氏にしろ、鈴木宗男氏にしろ、どちらかと言えば擁護して来ましたので、彼らを否定したいわけではありません。それも誤解の無きよう。ただ彼らを今支持している構造というのは、簡単にひっくり返るような気がする。その事が気がかりなのです。徹底的な暴力によって尊厳を奪われた人が、今度は暴力を加担する側に変じる、これはよくある話です。ナチスに虐げられたユダヤ人が、めぐりめぐってパレスチナに対して暴力を行使してしまう。傷ついた弱者や弱者を守りたいと思う心が力を手にしたとき、今度は暴力を行使する立場になり、かつての自分達が受けて来た痛みを与える側になってしまう。この事に敏感にならない限り、暴力の連鎖は無くならない。

それでは。
前回の続きです。

有罪率の問題で99.9%だという事をよく言いますが。その前に、日本の検察というのは全て起訴に持ち込むわけではありません。起訴猶予処分とか、不起訴と言ったような扱いが全体の割合で考えると非常に多い。どちらかと言えば温情的でもあると言える。そして絶対に間違いなく有罪に持ち込めると踏んでいる案件を起訴するという形を取る。逆に言えば有罪に持ち込めないような案件は逃してしまっている。だから有罪率が高いとも言える。

有罪に持ち込めるかどうか微妙だと思ってもバンバン怪しければ起訴して行けば、当然有罪率は下がる。だけどそういうやり方が日本に合っているのか?という問題もある。検察だけの問題ではない。推定有罪で捕まった瞬間に犯罪者扱いをしてしまう国民性があるので、有罪率が低い数値でもいいから、とりあえず起訴というのでは、信頼の前提が壊れてしまう。そういう我々側の問題もある。

もちろん自分はそうであっても、透明化は必要だと思うし、推定無罪を守れとも思う。もちろん罪刑法定主義は大切だとも思っています。起訴にするか起訴猶予にするかなんて事を勝手に決められる状態というのは、危険極まりない。チェックは絶対に必要です。検察と弁護人の意見を聞いて、近代裁判の原則である被告を裁くのではなく、検察側の言い分を吟味するという挙証責任がどちら側にあるのかという原理原則を重視して、デュープロセス・オブ・ロウを重視して、公正に判決を下して有罪率99.9%というのでは、どう考えてもおかしい。それじゃあ裁判なんてやる意味あんのかよと思える。明らかにこの制度では無罪にするわけにはいかない、この有罪率でそんな不名誉な事をすれば傷がつくという検察側のモチベーションにもなっているし、その事が強引な判決にもつながっているとも思う。が、それを検察だけを叩いていればいいのか?というと問題は我々の側にも多々あるのではないか?とも思える。

検察のチェック機関が無いと言っても、その検察をチェックするのが裁判官であり、マスメディアであるとも言える。有罪率99.9%というのは検察ではなく裁判所の問題であるわけで、そこでキチンとチェックしていればそういう風にはならないし、もしかするとチェックした上でそうなっているのかもしれない(とてもじゃありませんがそんな事は無いと断言しますけど)。

そして推定有罪報道というのも、検察のリーク垂れ流しというのも、その事で守秘義務違反が生じているという問題はあるにはありますが、有罪を目指す為に合理的選択を取る行動そのものは検察は検察としての仕事をしているだけで、それを報じなければ済む話で全部マスメディア側の問題であるとも言える。推定無罪原則に立った報じかたをすれば済む話で、少なくとも「関係者によると~である事が明らかになった」という報じかたというのは卑怯極まりない。取材して裏を取っているというのなら、ちゃんとそういう疑いがあるという事を、キチンとエビデンスを示して自らの責任を引き受けて報じるべき事です。便所の落書きみたいな翼賛報道でしかも責任を微妙に回避して叩くというのは最低です。バランスもクソも無い。

マスメディアは今回の報道を見る限り、完全に橋を渡ってますので、もうお終いでしょうね。復活の経路は無いでしょう。そうじゃなくとも新聞にしろテレビにしろ厳しい状況に立たされているのに、こんな事をやっているようじゃ自滅確実って感じがします。そもそも小沢の記者会見なんかを見ていると、談合記者どもは政治資金規正法がどういう法であるのか?という事を認識していないバカもいっぱいいるように思える。何が問題で何を取り締まっているのかもわかっていない。もう終わってます。

政治資金規正法というのは何を取り締まる事を目指した法なのか?という事を言えば、元々は企業からの政治献金による見返りの便宜供与を阻止する為のものとも言える。だから企業献金そのものを防止するという事を目指していたわけで、それを抜け穴をつくってああだこうだ変更し自民党がずっと利用して来た。なのでこれも包括規定という感覚で考えると、小沢の秘書への攻撃も一応筋は通っているかのように見える。

しかし政治献金を防止すると言っても、実質は迂回献金やりまくりな訳で、法的にも抜け穴がある。それをいきなり野党の党首に対して包括規定的適応で攻撃するというのは恣意性の行使の度を超えているような気もする。だから多くの人がおかしいと感じているのでしょう。

小沢は透明化によるディスクロージャーを徹底していたのは間違いなくて、だからみんな知っていたわけだし、黒い噂も絶えなかった。それは見えているからで、見えていれば彼を支持しないという選択肢も容易にとれる。だから人気も見事に二分していた。民主を応援したくても彼がいるというだけで、徹底的に嫌われていたわけです。

それに比べれば間に幾重にもそして複数ダミーを噛ませて献金受けている政治家なんて腐る程いる。情報公開を徹底したが故に墓穴を掘るという構図では、包括規定を適応するにしては厳し過ぎる。献金を受けている事が可視化されているわけだから、便宜供与をすればわかりやすいわけで、法の抜け穴を利用するというよりも、現行法に沿って誠実に振る舞っているようにも見える、仮に何らかの別件での便宜供与、収賄や斡旋利得のようなものがあるのであればしょうがないとは言えるかもしれないが、わかっている情報だけを精査すると政治資金規正法を包括規定的拡大解釈をして取り締まるほど、法の理念を無視しているとは言えない。

法は法だというのなら、包括規定など認めるわけにはいかないわけで、政治資金規正法の枠の中であくまでも取り締まるべき事であり、であれば有罪にはほぼ間違いなく出来ない。それが現行法でもある。明らかに法の理念を無視した何らかの抜け穴を利用した悪質な別件が明らかにならないと、今回の捜査の正統性はゼロという他ない。政治的に利用されたと言われても、特捜がなんであるのかも理解していない人から国策捜査だと指をさされても仕方がない。この恣意性は許すわけにはいかないでしょう。民主党が政権を取ったら、この件は断罪すべき事です。

小沢は東北地方では絶大な力があったので云々かんぬんという話が垂れ流されて、その事から秘書の口利きがあるのではないのか?という疑惑を連想させるわけですが、これは政治資金規正法とは何の関係もない話ですし、小沢は野党の党首ですので、仮にそういう事があっても決定権を握っているわけではないのだから、立証するのは極めて難しいような気がする。

それに少し視野を広げて、法の枠組みで違法行為があったのか?法の理念に反した振る舞いがあったのかどうか?という事をわきにおいて、その法が果たして国益になっているのか?という問題も考えないとマズい。もちろんその事を検察に頼るわけにはいかないし、たかが木っ端役人ごときがそんな事を考えるべき立場ではないのですが、何の為の法なのか?という事も大切ですが、国益という観点から、そもそもそういう倫理観が正しいのか?という問題もあるわけです。これも考えておかないと、法や法の理念や倫理観を守って国益無しじゃ意味がない。

それを考えれば政治献金という仕組みそのものは別に悪い事ではないわけで、企業献金自体が悪ではない。小沢の言うように徹底的にディスクローズすれば何の問題もないように思える(潔癖性の国民性と、迂回献金塗れの与党議員、自らは不公正塗れのマスメディアのプレッシャーによって、小沢は献金を廃止するとか言っちゃいましたが、あんまり賢い選択肢ではない。これを言わせてしまっているという事が後々どのような悪影響を及ぼすのか考えておかないとマズい、問題は透明化であって献金そのものではない、それに小沢が献金を禁止すべしと言ったという所ばかりが騒がれておりますが、会見を見ればわかる事なんですが、小沢の意見としては透明化をする事が一番重要だけれど、仮に今回の小沢秘書が起訴されて裁かれるような事があるのなら、事実上全面禁止にするしか無いだろうと言っているわけで、マスメディアもそのように叩いているわけだから、そうするしか無いでしょう?という話をしている、政治団体というのはほぼ例外無く企業がバックにいるわけで、企業がバックにいるイコールダミー団体からのトンネル献金であると裁くのであれば、事実上政治団体からの献金というのは殆ど犯罪になってしまう。だからそれが違法というのなら禁止するしか無いでしょ?という事を言っているわけで、彼の意見というより選択肢がそれしか無いだろうということを言っている)。そうすればあからさまな口利きがあれば、取り締まる事も出来るだろうし、選挙で選択するという事もやり易くなるはずです。不透明である事と、あからさまに国民益に反した便宜供与を取り締まればいい話であって、見えている分には問題は無いはずですし、仮に何らかの口利き的な事をしたとしても、金の動きが明確になっていれば、明らかに利権の為に言っているのかどうかもわかる。

企業献金を受けている政治家自体も反社会的な会社の肩を持つという事は、イコール不人気につながるわけですから、それを踏まえた上で金を貰って口利きをしているのなら、選挙で落とされれば済む話で、透明化するという事は会社自体の社会的貢献の意欲も見えやすくなるわけですし、国民益をないがしろにするような問題があればすぐにわかる。政治家に金を渡したって会社自体が社会的責任意識満々で、コミットメントの意欲満々であり国民益にもつながるとなれば、献金してロビイ活動をする事自体も国民益と合致するわけですから、献金をしてやる気を出すという事自体が悪いわけではない。口利きをする事さえ悪いとは言えなくなってくる。逆にそれが企業の宣伝やモチベーション(もちろん企業の業績向上の可能性にも)になっていいかもしれないわけです。少なくとも変な事は出来難くなる。

小沢が言うように不透明が全ての連鎖の始まりでもある。きれい事を叫んで、不透明な構造が延々と抜け穴をつくり続けて見えないままの方が問題です。隠蔽した人間に対して厳罰に処すという事をセットにして透明化をすれば合法とすれば、逆にこういう問題は減りそうな気もする。いつまでも、金を貰っている?けしからーん!!みたいな反応じゃ賢くなれません。

仮に特捜の今回の動きに正統性があるとすれば、事前チェック型に戻ろうとする力学に対しての牽制として、小沢型の旧経世会スキームは許さんぞという意味が込められているのなら、その行動も理解出来る。包括規定で取り締まれと思う。このまま与党の暴走と役人の権益の巻き返しを許せば、失われた30年に突入する事になるでしょう。少なくてもあと10年くらいは不況の出口はない。そうすれば超高齢化が重くのしかかってくる事になるし、この国も相当酷い状態になるでしょう。その為の牽制という意味であれば確かに正統性はある。

鈴木宗男事件にしろ、ライブドア事件にしろ、鈴木宗男氏が国民益を無茶苦茶にするような事をしているわけではないし、ホリエモンもそう。だけど日本全体の舵取りに対しての牽制の象徴として一罰百戒に取り締まったというわけで、彼らが悪いというよりも、彼らが象徴に見えていたから叩いた。当人達には気の毒ですが、特捜の捜査というのは元々そういうものでもある。今回の小沢の問題も背後にそういう意味が込められているのなら、正統性が無いわけでもない。

もちろん一行政機関の度を超えているとは思いますが、この国はその特捜に依存して来たのも事実です。法を守るという事を踏み越えて、法の理念を守るとか国益を守ると言ったような事を、たかが木っ端役人ごときに任せてしまうという事は危険だと思いますし、チェックが必要だろうとも思う。だけどそれを我々が果たして望んで来たのか?という問題もある。

政治資金規正法が抜け穴である事や、不透明な腐敗堕落の構造を許して来た最大の理由は、国民が一党独裁状態をずっと許して来たからでもある。役人の天下り、政治家へのキックバック、そしてお上にお任せ体質、上っ面の動員に引っかかる国民という鉄の三角形がそれを許して来たわけで、だからこそ特捜の余計なお世話的パターナリズムがある程度必要だったし、国民もそれに依存して来た。

法の問題と感情の問題の区別も出来ず、正義と法の区別も出来ず、推定無罪なんておかまいなしのメンタリティ、仮に法はあくまでも法である事とか、どんな凶悪な事件が起こっても結審するまでは推定無罪を前提にするとか、そういった事を国民自体が望んで来なかったわけで、その事も考えなきゃマズい。

政治資金規正法の抜け穴を無くすという事をするとして、それを引き受ける事の意味を我々はわかっているのか?金持ちばかりしか選挙に出られなくなるとか、そういう問題も重要ですが、その前に政治に金がかかるという問題が先ずあって、ネット選挙やネットでの選挙活動と言ったような政治のコストダウンという事に取り組んでいないという問題もある。このご時世に一体全体いつの時代の話をしてんだよって感じがしますが、金のかかる選挙システムそのものによって恩恵を受けている人がいるとかそういう問題はわきにおいても、ネット選挙を解禁するという事は、自分で情報を吟味して、自分で考えて投票するという当たり前の感覚、リテラシー能力が無いと選択出来ません。それを引き受ける用意が我々の側にあるのか?という問題が先ずあるわけです。

薬のネット販売を禁止すると、安心安全の立場から雄叫びを上げているバカの力学を利用して、厚労省がまんまと利権拡大を狙う。その厚労省が散々薬害だなんだと人々を虐殺して来たにもかかわらず、潔癖性のバカが吹き上がって安心安全を叫ぶと、何となく正統性を持ってしまう。

日本型ワークシェアリング促進なんて話が出てくれば、ハローワークの統廃合見送りなんて話が出る。派遣切り報道の最初から厚労省が利権拡大の為に利用しようとしているから気をつけようなんて書いて来ましたが、まんまと弱者救済という錦の御旗の下に、さりげなく利権を潜り込ませる。失業保険の適応枠の緩和なんて言う囮に引っかかって利権拡大を許してしまう。要するに絶望している切り捨てられた人々の救済というよりは、利権が減ってなるものかと役人の救済策、役人にワークシェアするという意味になっちゃう。笑えない話です。

役人のETC利権の為に高速道路を安くするなんてやってますが、政権交代すればどの道、高速道路は無料化するにもかかわらず、まんまと乗せられてしまっている人が結構いる。自分のまわりでも、給付金貰ったらETCだ!!なんて事を言っている人がいる。

かんぽの問題もこのブログで散々取り上げて、いろいろと書いて来たわけですが、結局あの鳩山のクズ野郎は、ハナっから総務省の利権で動いていただけで、あのバカがこの問題を政治利用したせいで、鳩山のアホらしさにみんな気付きだした途端にかんぽの問題も尻すぼみになっている。「誰だ!壊したのは!!」なんつって、中郵で、そんなの遠くから見てもわかるだろって突っ込みたくなるようなわざとらしさ、カメラが回っている事を確認しての行動なんかを見れば、まだ支持しているバカもいますが、あれを見れば普通の感覚を持つ人間なら胡散臭いと思うでしょう。あのバカのせいで問題の本質はどっかに消えちゃった。役人だけはまんまと天下りの座席を手に入れられそうな雰囲気です。

かんぽの問題というのは、そもそもずっと前から行なわれて来た腐敗堕落の問題もあるし、郵政民営化以降の問題もある。しかしこれはいずれも国民が選択して来たというのがベースにあるわけです。自民党の腐敗堕落の政治をずっと許して来て、政権交代も無かったし、小泉が構造改革を叫んだあとの郵政民営化もみんなで支持して来た。そして今、散々小泉改革に拳を振り上げていた連中が、インチキだったと拳を振り上げている。結局小泉が言っていた構造改革なる代物も、郵政民営化なる代物もなんだかわからずに支持していた人が殆どだったわけで、一般人どころか一国の首相を務め、当時総務大臣でもあったバカ麻生でさえよくわからなかったとか言っている。よくわからないものを支持するんだから頭が腐っている。この国民にしてこの総理大臣ありって感じです。

小泉の改革というのはハナっから財務省主導の緊縮財政路線、要するに役人をバックにつけて拳を振り上げていたわけです。景気を悪化させながらただ単に末端を切り捨てる構造改革で、順番が滅茶苦茶でした。役人の天下り自体は増えているにもかかわらず、例えば郵政にしろ道路公団にしろ、ある一部分だけを改革と拳を振り上げる。しかも出てくる中身は殆ど骨抜きばかり、それをやるんだったら、天下りを全面禁止にするとかすれば全部話は解決するのに、そういう所は全く手をつけずというか、何もしないというバーター取引で特定の悪者に拳を振り上げるという図式でした。末端を流動化するだけで既得権益層には殆ど切り込まなかった。そういう意味では従来の自民党路線と全く何も変わっていない。今の麻生政権で役人の天下りには実質上黙認すると、腐敗堕落の構造には全く手をつけないといいながら、鳩山のようなパーが総務省の権益拡大の為に郵政民営化という特定の悪者に拳を振り上げる図式と全く同じ。だから冷静になれと書いて来たわけです。要するに小泉構造改革というのは旧経世会や旧宏池会から非主流派であった旧清和会が権益を奪い取る、自民党内の鍔迫り合いに国民を巻き込んだという話でしかなかった。

しかも財務省主導の緊縮財政路線も途中で転換してしまう。りそなに2兆の公的資金を注入したあたりから構造改革路線というのは途中から中身が何にもないものに変じる。株価が政権発足時から約半分の7000円台にまで落ち込んで、国債発行枠30兆枠も放棄し、退出させるべき企業は退出させるというのが旗印だったのが、結局公的資金で助けるという事を打ち出す事によって景気が回復し始める。

そもそも財務省目線での緊縮財政をやりながら、つまり景気を悪化させながら構造を変えるという事はそもそも難しい。景気が悪い時に財政再建を叫んでも、今の与謝野じゃありませんが出来っこありません。手をつける順番が滅茶苦茶です。高コスト構造を是正するのは、別に国民全てを不況に叩き込まなくても出来るし、順番があるはずです。医療負担を増やしたり、タクシーの運ちゃんや、派遣の人達を流動化にさらす前に、やるべき事があったはず。

その順番も無茶苦茶だし、セーフティネットも無いまま、あげく途中で高コスト構造の是正や流動化は事実上中身が丸っきり無くなる。退出させるべき企業を助け、構造改革路線は放棄される。構造改革路線を放棄し、事実上無策だったから、退出させるべき構造を抱えた企業も救済されるという事で安心感が広がって株価が復活する。株価の復活に支えられて景気が回復したかのように見えたというか元に戻った。だから構造改革は中身が何も無い、全然足らない、威勢よく改革と拳を振り上げている割には何もやってない。もちろんだから小泉改革を否定するのはいいとしても、今の麻生政権みたいな、高コスト構造是正する気などさらさらない構造改革巻き戻しの方向性では論外です。構造は変えないとどうにもならない。

とまあ政策の中身はわきにおいて、いずれにせよなぜ自民党的支配が続いたのか、そして自民党を否定するかのように雄叫びを上げた小泉改革に進んだのかと言えば、国民が支持していたからに他なりません。今の麻生政権は国民の支持は受けていませんし選ばれたわけでもありませんが、小泉改革に怒っている人達に媚びるかのような方向性を打ち出して、キッチリ統治権力の権益増進を押し進めている。

何に賛成しているのか?何に反対しているのか?そういう事を多くの人がわかっていない状況があれば、事後チェックに開いたとしても、それが機能するのは難しい。民主主義の矛盾、民主主義であるが故に誤った方向へ突き進んでしまうという失敗の可能性が出てくる。失敗だったと自覚すればまだマシですが、失敗すら自覚する事無く、反省も無いまま同じ事を繰り返してしまう。これでは例えば検察のパターナリズム的余計なお世話も否定出来ない。それすら否定すれば、何の歯止めも無くなって何の学びも無いまま、延々と民主主義的動員に引っかかって下らない権益の鍔迫り合いに巻き込まれ続けるのみです。

続く!!
小沢の一件以来、与党のクソ野郎共が踊り始めております。特に麻生のクソを筆頭に鳩山などもそうですが、カメラが回っているという事を意識したわざとらしい振る舞いを見ていると、藁人形で呪いをかけたくなってくる。気持ち悪りいんだよって感じです。

役人もやりたい放題、マスメディアも完全に橋を渡っちゃっている。困ったもんですが、こういう時こそ燃える性格なので、この連中をまとめボロクソのケチョンケチョンにけなしてやろうかと思いましたが、まさか多くの国民もこんな茶番に騙されてしまう程アホじゃないでしょう。なので本日はそことは少し別の話を書こうと思います。

前回のエントリーでは小沢代表と鳩管及び民主党執行部を一新せよ、なあんて事を書いたわけですが、まあ起訴されるかどうかまでは、この問題は進みそうも無いですね。なもんで自分ごときが辞めた方がいいんじゃねえかと思った所で、それが実現されるわけも無く、ただ単に願望を書いているだけなんですが、そうは言っても与党の暴走ぶりには、頭を抱えたくなって来ます。

麻生が検察を使ったという事は無いと思いますが、間違いなく知ってはいたでしょう。だからその事を利用して明らかに対策を練っていたと思われるような攻勢に出ています。与党と野党の間に生じる情報の非対称性を上手い事利用されてしまっている。バレてんだから上手い事とは言えないかもしれませんが、明らかにそこにつけ込んでいる。

この期を逃してなるものかと、効果がありそうも無い、何考えてんだよあんたら!と叫びたくなるような方向性にどんどん突っ走っています。官僚の手の平で踊っていると言いますか、小泉竹中改革を批判するのはいいけれど、そっちに行っちゃうのかよ!という感じです。学習効果ゼロという他ありません。

政権交代しても拘束されるように、バンバン先の事まで決めちゃっている。これでは政権交代出来たとしても、全部民主党の責任に押し付けられてしまう。自民のケツを拭くだけで、この滅茶苦茶になった状態を把握するだけで、時間がかかってしまう。ただでさえ隠蔽されている滅茶苦茶な構造があるのに。

今この国が向かっている方向性というのは、明らかに外部環境を無視した方向性です。景気が悪いという事をいい事に、というかあえてそのままで押しとどめるような愚策を打ち続け、出口が無い状態にし、世界中から相手にされなくなるような方向性に突っ走る事によって、やりたい放題に出来るという感じでしょうか。役人はやりたい放題、政治家は短期的な選挙対策的効果の無い景気対策。こんなアホな話を繰り返していては、この国はもうお終いです。

これではマズい。小沢が辞めるかどうかは別にして、ここで戦わないとどんどん悪い方へ突き進んで行く。完全に麻生は予想通り任期満了作戦ですので、野党が弱体化している場合じゃない。本当は小沢及び現執行部をきれいサッパリ入れ替えて、ビシバシ攻撃してほしい所ですが、それをしないのだとしても、牽制出来ない状況というのはマズ過ぎる。チクチク天下りをいちいちチェックするとか、独法にこれこれの金が使われているとか、そういう中堅や若手の攻撃はあるにありますが、全体としてはどう見ても勢いを失っている。

辞めても辞めなくてもそれはそれとして、歯止めをかけるべく牽制はしてくんないと困ってしまいます。なので一刻も早く、牽制出来る体制を整えてほしい。辞任か徹底抗戦かというのは対検察の話としては意味があるかもしれませんが、政治として与党への牽制としては、辞任か徹底抗戦かという二元論は意味がない。辞任してもしなくても、徹底抗戦はやらないとどんどんやりたい放題を許してしまう事になる。それでは益々後始末が大変です。仮に政権交代をしても、後始末をしているだけで、時間がかかり不人気になり、支持率が下がって、何も話が進まないというパターンになりそうな気がする。

個人的には小沢が辞任した方が戦う体制作りという意味で言うとヴァルネラブルな部分を取り除く事が出来るので、従来であればその事と弱体化を測りにかければ、ヴァルネラビリティを抱えても小沢の腕力は必要だと思っていたのですが、推定有罪のこの国ではケガレているとスティグマがこうもハッキリ刻まれてしまうと、それが嘘だろうがなんだろうが、弱体化したとしてもヴァルネラビリティがハッキリと可視化してしまう事の方が更なる弱体化を招いてしまうと思い、辞めた方がいいんじゃねえかと思ったのですが、辞任しないのなら辞任しないでもいいから、とにかく戦えと思う次第です。一番マズいのがグズグズして牽制が甘くなるという事が最悪の事態です。起訴されたら辞めるというのなら、早いとこ辞めて、起訴されても辞めないのなら、辞めなくてもいいから、とにかく空洞化するなと切に願う。

小沢に対して風当たりは強くなったとは言え、麻生が人気が上がっているわけじゃありませんので、やりたい放題にさせていてはマズい。まあ放っとけばどうせ失言して自爆しそうな気もしますが、任期満了まで開き直ってやりたい放題状態に突っ走っていますので、なんとしてでも歯止めをかけてほしい。今の与党は完全に正気を失っている。というか正気を失っているようにしか見えないまともじゃない奴らがやりたい放題にやっている。民主党の支持者も小沢の問題はちょっとわきにおいて、与党のやりたい放題に目を向けないととんでもない方向に行ってしまう。

さて、本日はいい加減このネタはもう止めたい所なんですが、今は大事なときなので、このネタから膨らませて行って、事後チェック型社会の問題点というか、事後チェック型社会が問題になってしまう事の問題といいますか、少し構造を解体して、それから以前途中で止まっているネタへと移行しようと思います。それではおっぱじめます。

今回の検察の動きに対していろいろ書いて来ました。先ず小沢の秘書が疑惑として騒がれている問題というのは政治資金規正法であります。何度も書いていますし、これは多くの人の知る所でしょうから今更ですが、政治資金規正法という枠では、どう考えても有罪にするのは難しいだろうと思えます。そして何度も書いて来ましたが罪刑法定主義の観点から言って、ちょっとどうなんだ?という風に多くの人も思っているでしょう。

しかしこれは非常に難しい所があって、この国はすでに事後チェック型社会へと舵を切っています。まあ所謂構造改革とか、小さな政府とか人気はありませんが、そういう変化の一環として、小泉竹中のせいでというよりも、80年代後半にはすでにそのきっかけは始まっている。という事は何を意味するのかというと、法律も個別規定から包括規定へと変化しているという事がある。

つまり昔の事前チェック型の裁量行政、護送船団方式型行政というのは、個別規定を事細かく設けてチェックしていたというか、ズブズブだったのでそもそもチェック出来ていなかったという事もあり、アメリカなどからも叩かれ、バブル崩壊によって政府や企業の高コスト構造を是正するという方向性を渋々導入するわけですが、これはグローバル化対応でもあって、そこへの変化を既得権益者達が拒んでいた事によって、アメリカからは事後チェック型の権益を押し込まれて、なす術無く末端を流動化し、アメリカのおこぼれを既得権者達が鍔迫り合うという図式でした。利権の草狩り場として失われた10年を費やす。もうすぐ20年、このままで行けば30年です。

しかしこれが山一や拓銀なんかが破綻する頃から、事前チェック型を変えない事にはどうにもならないという事で、事後チェック型へと行政の仕組みも舵を切り替えます。なぜかと言えば、事後チェック型の仕組みをアメリカなんかから押し込まれて、腐敗堕落の事前チェック型構造ではいくらでも権益を丸裸にされてしまうという絶望的なヴァルネラビリティを抱えていたからでもあり、その対応を拒み利権の草狩り場として利用し続ける事がどうやら不可能であるという事が、やっと統治権力にも浸透しだした。これは選択の問題ではなくグローバル化対応、バブル崩壊以降のレジーム作りという意味では、絶対に避けられない方向性であったからです。もちろんその事が正しいかどうかはわきにおいて。

だからそれに対応した上でないと生き残れないと自覚したという事になります。これはあくまでも国民益というよりは統治権力の利権温存の為に構造が変化したという事なんですが、それをしないとどの道国民益もクソも無いのでしょうがないといえばしょうがない。

それで、この事後チェック型の変化、個別規定から包括規定への変化というのは、日本には事後チェック型のルールも仕組みも整っていない段階なので、その隙をつつかれて例えば外資にやりたい放題につつかれるとか、長銀のリップルウッド問題、クレスベール証券、CSFP(クレディ・スイス・ファイナンシャル・プロダクツ)の問題、と言ったように、ルールが整備されていない所が完全に無防備になってしまっていた所を、個別規定しているヒマがないし、時間がかかるという事で、法律の目指そうとしている所から考えると、明らかにその法律が整っていない事をいい事に法律の理念を無視して、本当だったら取り締まりたい脱法行為に対して無防備であっては、国益が損なわれるという事で、検察は事後チェック型の取り締まりを強化するわけです。つまり包括規定で、確かに事細かに違法性を立証する事は難しいかもしれないけれど、明らかに法の理念は無視していると思われるものに対しては、一罰百戒で取り締まるという方向性に切り替える。

ライブドアや村上ファンドなんかの取り締まりはまさにそういうシフトチェンジが生み出した問題だったわけです。しかしこれには当然検察の恣意性が強過ぎるので、非常に問題ありまくりなんですが、罪刑法定主義を無視しているというのは当たり前で、そうしないと法の網をかいくぐって不届きものが国益(国民益じゃないですよ)を滅茶苦茶にするというか、役人益(従来のステークホルダー達の既得権益)を無茶苦茶にする事が出て来たので、役人達もそれを受け入れざるを得なかった。

ちなみにこれが事後チェック型へのシフトの中身なので、実際に高コスト構造を是正するという事や、バブル崩壊以降のグローバル化対応の為の流動化、そしてセーフティネットの構築という事には殆ど手を付けていません。特に小泉政権というのは実質的に殆ど何もやってない。やったとしても決めるだけ決めて、たいした説明もせずに実施は先送りして責任はそのときの連中に任せてしらばっくれるという方向性でした。中身が何も無かった。

だから格差拡大の最大の原因はその構造へと対応していない事であって、事後チェック型社会そのものに問題があるわけではない。事後チェック型に変化しているのは国民益の為ではなくて、統治権力の利権防衛の為であったという事、そして事後チェック型の社会、流動化を増やして復活する事が容易なシステムの構築はしなかったというのが最大の問題なのです。だから事後チェック型社会に移行していないという事を問題にすべきであり、事前チェック型に戻れ、解雇規制しろ、非正規を正社員にしろという方向性というのは非常にマズい。みんな非正規でも解雇をバンバンされても、生きて行けるような社会へと変化させる事が重要で、それをやらない事にはこれからの世界の流れからは完全に取り残されて、益々格差は拡大するでしょう。そして逃げ切れると思っている人達にもやがてその火の粉は降り掛かる。殆どが逃げ切れません。一蓮托生で自滅の方向性です。まあこの話は、次のネタでもう少し掘り下げるとします。

これが90年台後半からの流れであって、実体は事後チェック型社会にシフトするというよりは、事後チェック型でないと利権温存が出来ないので事後チェック型にシフトするフリだけしていたというのが本当の所です。厄介なのはこの事後チェックのフリをした連中のインチキ改革を国民の多くが支持し、今またあたかも原因は事後チェック型にあるかのような(事後チェックになっていないのに)事前チェック型の利権システムを、日本的という言葉にたぶらかされてバックフラッシュを国民の多くが支持してしまっている。

小泉政権末期から、どんどん市場への介入、コンプライアンス利権の鍔迫り合いと、不況になるような方向性へと進んで行ったのは、いったん外からのプレッシャーを事後チェック型取り締まりを強化して、シャットアウトし(国民も外資を叩いたりハゲタカと騒いだりしていましたね)、日本経済を不況に叩き込み、事後チェックをいい事にルールを事後的に解釈して取り締まれば、外からのプレーヤーはそんな不公正な市場には入って来ませんので、その上で国内の利権争奪戦が始まってしまっているというのが実情です。だから旧経世会的構造を抱えた政治家達が事前チェック型裁量行政、腐敗堕落の利権システム復活を目論む官僚達と結託してやりたい放題になっている。鳩山なんかが正義の味方扱いされたり、野党も純粋まっすぐ君的ナイーブさで彼らの利権増大を手助けしてしまっている。小泉竹中を悪と叩いている連中を利用して、権益の巻き返しが行なわれている。

そこで、今回の小沢の秘書問題が浮上したので悩んでしまうわけです。事前チェック型に戻りたい役人の先兵にも見えるし、小泉竹中を批判するとしても、腐った事前チェック型では意味がないので、旧経世会的腐敗堕落構造に釘を刺しているようにも見える。両方にヘッジをかけているように見える。検察からすればどちらに転んでも合理的な一手に見える。まあ小沢が首相になれば報復されると思いますので、そこには何かしらの確信があるのでしょう。無ければ特捜も終わってます。

まあこの辺の問題も今はちょっとわきにおいて話を本筋に戻します。

この重罰化、事前規制から事後規制へ、個別規定から包括規定へ、という流れというのは、罪刑法定主義をないがしろにしてしまう部分があるので、非常に危険であるとも言えますが、社会の変化に伴って、すでにこの変化というのは止められません。昔は100人の罪人を逃すとも、一人の無辜の民を罰するなかれというのが近代裁判の常識であったわけです。これは統治権力がリヴァイアサンであるという事から来る、政府を勝手にさせるとロクな事が無いという欧米の歴史から来る前提だったわけですが(日本はそれほど悲劇が共有されていないので、お上依存が抜けきれない)、これが一人(少数)の罪人が例えば核の小型化や911などもそうですが、社会を滅茶苦茶にしてしまうという問題が起こってくる。

市場でもグローバル化、自由化を押し進めて行くと、たった一人(少数)の誰かが悪巧みをする事によって、それが連鎖して行き社会が滅茶苦茶になってしまうという事が出てくる。こういう人に対して、罪刑法定主義とか、疑わしきは被告人の利益になんて話を言っている場合じゃないじゃないかという社会からの要請もあり、100人の無辜の民を罰しても、一人の罪人も逃すなかれという方向性に変化した。もちろんその方向性に突っ走る事を支持するわけには行きませんが、社会の構造が変わっているというのは確かなので、昔のような言い方では対処出来なくなっている。

それが違法かどうかわからないからと言って放置しておけば、社会全体が滅茶苦茶になってしまうという可能性があれば、ウェーバーやシュミット的な政治学の常識から言っても統治権力としては無視するわけにはいかない。アフガンにしろイラクなんかはもっとですが、もの凄い報復どころか、イラクにいたっては怪しいというだけで、ボロクソに攻撃し、それをみんなで支持してしまうという方向性に変わる。

もちろんここにもの凄く問題を感じます。当時は頭に来て、何もそこまで徹底的にやる事ねえじゃねえかと思いましたし、ブッシュの野郎を頸り殺してやりたいとも思いました。思いましたが、ただ単に批判するだけというわけにもいかない。何てったって民意が支持してしまうという問題があるわけで、みんな賛成しちゃっている。やっちまえ!!と拳を振り上げているわけです。目が血走っている。

民主主義の矛盾、それが間違った方向性だとしても、民意が支持している場合、それを無視してしまえば民主主義をないがしろにしてしまうわけで、かと言って民意を汲み取っていれば、誤った方向性へと進んでしまう。統治権力が誤った方向性であるからと言って、多くの民意が支持していない方向性に勝手に突き進むという事を許してもいいのか?という問題も出てくるし、民意によって選ばれた人間が政治家になるわけだから、そもそもそれを無視出来ないという事があるわけで、一体全体どうするのさ?と悩ましい。現状の民意を無視して役人益みたいな話を当たり前ですが許すわけにはいかないわけで、民意を問えと言わねばならない。しかしある部分では統治権力が民意を無視しない事には間違った方向性へと突き進んでしまう可能性もある。

例えば憲法9条と13条がバッティングしているなんて話があるわけで、戦争を放棄するというのはいいとしても、相手がそれを無視している場合、国民の命を守って最低限の幸福な生活を守るのが統治権力の責務とも言えるわけで、攻撃されていっぱい人が死んでからでないと動けないというのは、ある意味国民の幸福を守る事を放棄しているので憲法違反であると言えるし、かと言ってやられる前に被害を最小化にする為に攻撃するという事も明らかに憲法違反でもある。そうするとこの矛盾をどう決断するのかというのは、統治権力、つまり政治家達に委ねられているわけです。そもそも恣意性をどうしても取り除くという事は出来ない。

それと同様に罪刑法定主義が大切なんだと言うのは正しいし自分も原理原則だと思う。市民の側でそう思うのは重要です。だけど、それを本当に統治権力側が守っていて国民益が滅茶苦茶というのでは統治権力、もしくは法の番人としての資格は無いとも言える。時によってはその恣意性を引き受けて、包括規定を適応して被害を最小限に食い止めるという事が必要になる。当然その事によって何らかの問題を引き起こしてしまえば、その非難までもを引き受けなければならない。国民全てが憲法にしろ法律にしろ、結局恣意的なインチキじゃねえかと思ってしまったら社会が回らなくなる。その事までもが統治権力の責務には含まれている。だから役人の上に大臣がいるわけで、政治家が責任を取る事になる。もちろん役人のトップも。その前にそんな政治家いるのかよって話ですが。

したがって事後チェック型の包括規定をただ単に叩くわけにもいかない(もちろんそれが明らかに国民益とは合致しない場合、まして役人や政治家の利権の為などという事であれば、メッタクソに叩いて血祭りに上げる必要はある)。叩くわけにもいかないけれど、現状のこの国の検察に対するチェックシステムというのが無い。だから最小化措置が必要だって話になる。取り調べの可視化とか、弁護士立ち会いとか、勾留期間の長さ、人権無視の捕まるイコール犯罪者扱い図式というのを、是正しないと検察をチェックする仕組みが無い。それが是非とも必要です。

これは常々自分も思っておる事なんですが、それと同時に、であるのなら、検察の捜査に対して盗聴や囮捜査、取り締まり過程での被告及び、証人や弁護人に対しても同様の偽証罪の適応、そして司法取引等々、欧米では許されている捜査方法が、日本では許されていないものも沢山ある。ただ単に欧米並の透明化をしろという所だけいいとこ取りして、その代わりに認められている権限を認めないというのでは、フェアではないし、ただクリーンで透明化だけを求めて、実質捜査能力が弱体化するだけでは意味がない。

じゃあ国民がその欧米並の強引な捜査手法を望むのか?と言えば、ちょっと反省しているそぶりを見せれば、若干同情してしまう国民性もあるし、そこまで徹底的に過激にやらなくてもいいんじゃないか?的な感覚もあると思う。この感覚自体は悪い事ではないと思う。それにその引き換えに手にする、透明化にしたって、透明化してもチェックするメディアが腐っているわけだから、当然国民一人一人の市民性が試される事となるわけで、透明化したはいいけれど、誰もチェックしてねえし、かえってコストがかかるから、別にいいんじゃない止めちゃえば、みたいな話になりかねないのは確かです。国民だって忙しいわけで、面倒くせえよ、みたいな感覚だってあるでしょう。俺はやりたくねえけれど誰かやってね的感覚が多くでしょうし、なんなら別に面倒くせえし、そんなのいいから俺達にバラまいてくれよ的メンタリティもある。どうせコストをかけるのなら、犯罪者にコストかけてどうすんだよみたいな。捕まっただけでは犯罪者ではないという理解も薄い。

これがお上依存の厄介なメンタリティだとも言えますが、それが日本的美風と堕落の表裏でもあるとも言える。難しい事は頭のいい人達にお任せしますから上手くやって下さいみたいな。それと同時にチェックしないと国民を大虐殺するとか、推定有罪でバシバシ無罪の人間を引っ括るとか、そういう事までは検察もやりそうも無い。つまりお任せでもそれほど腐敗はしない。それも日本的良さだとも言える。もちろん右肩上がりの前提が崩れているので、そういうメンタリティでは回らない状態に変化しているのは確かなんですが、こう言った美風を全て捨て去って新たな日本的マインドを構築するという事は出来ないし、欧米をただ真似すればいいというわけでもない。つくるには伝統が必要となるわけで、一朝一夕には行かない。何百年か必要になる。だから従来の感覚を上手く生かさないと制度は機能しない。

という事は、ただ単に透明化しろと言っても、人権を守れと言っても、その引き換えに我々がコストを払い時間を割く意志があるのか?検察権限の増大を許す事が出来るのか?そういう我々側の問題も隠れている。裁判員制度も散々批判しましたが、この問題はある種透明化を引き受けるかどうかという問題にも直結する。コストを負担する気があるのかどうか?当然制度自体には自分も問題点はあると思うし、大丈夫か?と思っているので散々ああだこうだ書きましたが、一方で透明化を面倒くさがり、一方で検察権限への透明化を叫んでいる事にもなるわけで、ある意味矛盾した要求を突き付けているとも言える。

つづく!!