前回の続きです。
例えば小泉政権の時に小泉改革を批判していた急先鋒として活躍していた植草一秀氏。彼は痴漢の容疑で逮捕され、それこそ推定有罪でボロクソに叩かれましたが、今はどちらかと言えば彼を擁護する人が増え、彼の掲げる問題点に同意する人も増えたと思う。自分も彼が小泉政権華やかなりし頃に言っていた小泉路線への攻撃は、あれだけ世論が一色に染まっている中で、中々タフな物言いをする人だと思って注目もしていたし、彼の言っている事は非常に筋が通っていた。
しかし例の事件で彼はそれこそ尊厳もクソも無い程叩かれて、多くの国民も彼を叩いていた。それが今では世論の風向きも変わって彼を擁護する人も増えた。多分その中にはあの当時批判していた人や、小泉改革万歳だった人も混じっていると思います。それは別に構わない。何かに気付いて考えを変えるという事は悪い事ではない。だけど自分にはそれが本質的に小泉改革に拳を振り上げていた構図や抵抗勢力を叩いていた構図と何も変わっていないのではないか?という風に見える。
自分は植草氏の経済に対する見識は非常に興味があったし、多くの気付きも与えてくれたので、そういう意味で彼の言っている事は聞くべしというスタンスでした。しかしそれは彼が痴漢をやっているとかやっていないとか、そういう問題とは関係ないし興味も無い。自分にはその事はわからない。仮に彼が痴漢であったとしても、彼の経済に対する考えは重要な論点を含んでいるという事は変わらない。プラス推定無罪原則という事を大切にすべしというのと、刑が確定して償った事に対しては、それ以上何も言うべきではないという事を重視すべしという意味で彼の論点は重要だと言って来た。
しかし最近の風向き、彼を支持する人々を見ていると、何となく危うい感じがする。痴漢をやったかどうか、冤罪かどうかにやたら注目し、なんたらかんたら陰謀説みたいな話を叫ぶ人がやたら増えている。そして植草氏自体の言説も、彼は痛い目に合わされたと主張する当事者であるわけですから(本当に彼が冤罪であるなら尚更)しょうがないとは思いますが、論理性の中に、過剰な怨み節が混じっていて、ちょっと感情論が前に出過ぎているような気もするし、
(これは天木直人氏なんかもそうで、言っている事自体は、ある程度聞くべき事はあるだろうとは思いますが、ちょっと感情論やきれい事ばかりに聞こえてしまう。一方的に善悪の線を引き、線の向こう側への暴力に無自覚です。いくら正しくてもそれでは意味がない。だから今イチ自分は支持出来ない。例を挙げると例えば村上春樹氏の例のイスラエルでの受賞の際のスピーチに噛み付いて否定する。「壁と卵があったとしたら、仮に卵の側が間違っているとしても自分は卵の側を擁護したい」という言葉が気に食わないと言う。要するにこの場合、卵をパレスチナ側に見立てたもの言いなわけで、パレスチナ側が仮に間違っているという事などあり得ないと言うわけです。イスラエルの暴力が仮にとは言え正しいなどという事はあり得ない許さんぞと。まあ言いたい事はわかるけれど、そのときその時で人を説得する為のプレゼンテーションというのがあるわけで、イスラエル人<ユダヤ人じゃないひともいますから>に、お前らは間違っているから辞退するというやり方が善悪で言えば正しいのかもしれないけれど、何もサブスタンスは無い。線の向こう側に語りかける言葉や説得する言葉を否定したら、争いは無くならない。彼らにだって伝わる言葉というのはあるはずで、それを日本人の立場として、出来るだけ効果的な言葉を選んで村上氏は言っている。それでも伝わらないかもしれないけれど、伝わらないから言うだけ無駄だと否定したら、こういう争いは絶対に無くならない。線の向こう側を断罪するだけでは、線の向こう側を益々硬直させるだけ、敵視を煽るだけになる。だからイスラエルの人たちに向かって、貴方達には貴方達にとっての善があるのかもしれないが、過剰な暴力はどんなに正しくてもそれは過ちを引き起こす事につながるという事を自覚して下さいという事を言っているわけで、お前らは間違っているから正せという言い方をするよりも効果はあると思う。彼の批判というのは「何々と言った」みたいなのばかり、批判というよりケガレているという言い方ばかりです。これは自分の暴力に無自覚であまりクレバーなやり方ではない、護憲論者の中では比較的希望の持てる言い方をする人が出てきたと思ったので、自分はどちらかと言えば改憲派ですが、彼の言説には注目している。護憲の中で言い争っている場合ではないと彼自身言っている。それはもの凄く正しいと思う。つまり線を引くよりサブスタンスを重視しろという事です。しかし護憲という括りの外側に対しては、サブスタンスより線を引けと言ってしまっている。言うのは別に構わないけれど、護憲の中での線の引き合いや争いを否定するようなまなざしを、線の外側に対してももう少し向けてほしい気がする。)
彼を支持している人達も、彼は冤罪だったかどうかはわきにおいて、事件の当事者であるという事を冷静に見えてないような気もする。
推定有罪一色の頃は、冤罪の可能性もあるわけだし、彼の言っている事と、その行為は関係ないのだから、痴漢が偉そうに言うなとか、犯罪者の分際でみたいな、今の小沢批判にも当てはまりますね、与党のクソ野郎共がほざいておりますが、そういう批判は的外れであると言って来たわけです。犯罪者であったって正しい事をいう可能性はあるわけで、犯罪者には何も言う資格は無いみたいな今の与党のバカ共のような言い方というのはナンセンスです。そもそも刑が確定するまでは犯罪者では無いですし。罪を償えばその事は済んでいる事でもあるわけで、被害者が言うならともかく、第三者が犯罪者扱いして話も聞かないというのでは、一度過ちを犯したらお終いと言っているのと変わらない。そんなものは論外以前の問題です。
しかし今の状態も結局彼が冤罪かどうか陰謀論を騒いでいるだけで、批判の方向性が逆になったとは言うものの、本質的には何も変わっていないように思える。彼が冤罪かどうかはわきにおいて、彼は当事者な訳だから、彼自身の冤罪を主張する意見というのは話半分で聞いて、彼の経済に対する知見をアブストラクトして聞く(彼自身の言説が感情論が混じっちゃっているので抽出出来難くなっておりますが)という行為態度は相変わらず無い。犯罪者扱いして叩くのも、冤罪だと言って擁護するのも、その事と彼自身の言説を切り離して考えるという事が出来ていないという意味で同じです。
鈴木宗男氏がボロクソに叩かれている時も、自分は同じように当時は彼を一方的に叩く事に対しては反論を言ってました。彼への批判が頂点に達していたとき、ペットだか、マスコットだか、何にだったかは忘れましたが、何かの名前をつける時に、ムネオちゃんと提案して批判された事を覚えています。何でそんな不吉な名前を付けるのさと言われた。何か仕事かなんかの割り振りのグループ名を考えている時に、ムネムネ会と提案した事もあった。それも不人気でしたが、ようは彼が悪者かどうかを誰かが言っているからと言って決めつけるのは間違っているから止めろという意味でそれを言った。まあ知りもしないのに頭から湯気を吹き上げている人には通じませんでしたけれど、だいたい論破して納得させる事も出来た。
だけど今の彼の検察批判というのを100%真に受けるわけにはいかない。彼は怨みがあるわけで、頭に来ているに決まっている。だから話を割り引いて聞かないと、彼を叩いていた連中と同じになる。そういう意味で言うと彼と一緒に血祭りに上げられた佐藤優氏なんかはそのへんのバランス感覚は素晴らしいと思う。検察批判もただの怨み節には陥らないような距離感や自分の怨みや怒りを相対化して論理を組み立てている。
当たり前ですが、植草氏にしろ鈴木宗男氏にしろ、彼らが当事者としての主観が混じっているから、必ずしも間違っているとか言いたいわけではないし、彼らは主観が混じるとか言ったって当事者なんだから当然混じるに決まっている。自分だったら逆上して暴れまくってお縄になっているかもしれず、それに比べればよくあんなに冷静にいられるもんだと逆に凄いとさえ思う。感情論が混じると言ったって、混じって当然だし、自分が同じ立場だったら、暴言や感情論を喚き散らしているかもしれず、あそこまで徹底的に四面楚歌で叩かれたら、もっと愚れていると思う。そう考えれば凡人からすれば随分と冷静に感情論を押さえているとは思う。だけど、そうだとしても当事者で痛い目に合わされたと主張している当の本人なわけで、彼らの意見が100%正しいと見てしまうわけにはいかない。話半分で聞く必要がある。それは正しくないと言っているのとは意味が違う。
これと同じ状況に立たされている構造が、竹中平蔵の中にも若干見えるような気がする。植草氏が最初に小泉竹中路線を否定した頃というのは、小泉竹中翼賛絶好調な時期であり、逆に言えば抵抗勢力の代名詞として叩かれていた亀井静香氏の経済ブレーンとして、元々植草氏というのは広く知られるようになったという事もあるので、まるで悪の権化みたいに言われていた亀井静香的な古い自民党の抵抗勢力の不人気と同様に、植草氏の指摘も、所詮古い抵抗勢力擁護の意見だという捉え方が多かったのではないかと思う。小泉竹中路線を否定する前に、それ以前の自民党的方向性というのはすでに、多くの誤りもあったし、国民的にも人気もなかったのでお前が言うなよ的な一般的な感覚もあったような気がする。
要するに中立的な見方で言うとすると、実際に小泉以前の自民党の頃の方がマシだったか?と言えば、そんな事も無いわけで、森内閣の時点で、加藤の乱の失敗なんかもあったし、自民党というのはもうどうにもならない所にまで追い込まれていた。実際に90年代の舵取り自体も、決して褒められたものではないし、日本の国益もボロクソにされていたのは確かに事実だったわけで、その頃を擁護するような連中に正統性なんかあるのか?見たいな感覚というのはあったでしょう。小泉竹中路線が大人気で、その90年代路線が全て間違い、構造改革路線こそ善という方向性に、みんな翼賛していたわけで、見え方としてはその善なるものに対して、古い既得権擁護をして来た連中の代弁者みたいな感じにも見えたでしょうし、何となく自分の正しさを否定された事に対するルサンチマンを爆発させてるだけなんじゃないの?みたいな感覚もあったでしょう。一般的には。だから彼が例の一件で捕まってしまった時には、一斉にバッシングが起こったのではないか?という気がする。
だけどこの姿というのは、構造改革悪と叩かれている今、自らの改革は正しかったのだと必死に吹き上がっている竹中、そしてそれに対するまなざしなんかと似ているような気がする。自分の正当性を主張して、今の政策の方向性を批判する。あの頃の植草氏と重なる所もあります。もちろん自分は竹中にしろ植草氏にしろ、彼らが本当は正しいかどうかというのはわかりませんし、この二人を同じくするのは不遜な話だと言いたい人の気持ちもわかる。だけど、ここは冷静に物事を見ないと、同じ事を繰り返す事になりかねない。
かんぽの宿の問題なんかで騒いでいるように、確かにそこには竹中とオリックスの恣意性が見える。法律的に有罪にする事は無理だと自分は思いますけれど、何でオリックスなのさ?という疑惑は残るし、竹中も一枚噛んでんじゃねえか?という一般的な感覚も理解出来ます。
が、例えば植草氏のような人というのは、こういう疑いのまなざしの暴力によって、徹底的に尊厳を傷つけられたという過去があるわけですから、本当だったら、政策的な誤り指摘するのはいいとしても、陰謀説を煽り、竹中は怪しいから推定有罪で叩けと煽る事に対してはどうなんだよという風に思ってしまう。否定する立場であるべきなんじゃないの?と。彼は当事者だから怒り心頭なのはわかりますが、まわりの人間も一方が法の恣意性や推定有罪で叩かれて傷ついた人を擁護するという方向性なのにも関わらず、敵視しているからといって、アイツは犯罪者に決まっているから推定有罪で叩くべしと吹き上がっている構図は褒められたものではない。
竹中は大っ嫌いだけれど、彼を推定有罪で叩く奴は許さないと表明する事こそ、真に公正中立な立ち位置なんじゃないのか?という気がする。その立ち位置を取るものだけが、あの当時植草氏を叩いていた暴力に対して文句が言えるのではないか?と。
それに、例えばかんぽの宿の問題で言うとすると、この問題は要するに旧郵政省の問題もあるし、郵政民営化以降の問題もある。利権Aから利権Bへと移行しただけだという風に見える。だから鳩山的動員の影に隠れているものと、小泉竹中的影に隠れているものの鍔迫り合いというのは、どっちの便所が汚いかって話をしているだけで、サブスタンシャルじゃないような気がする。このどっちの便所にも隠れている小汚さを白日の下にさらして徹底追求する事は重要だと思います。
しかし利権B側、要するに郵政民営化を実行した側がいま馬脚を表したという事で叩かれているわけですが、国民がずっと利権Aを支持して来たのは間違いなくて、利権B的改革も支持したのは間違いない。いずれも国民が無自覚無関心で、そして改革だと拳を振り上げて。
利権Aが腐っているという事はある時点で国民も共有したはずです。だけどこの時に利権Bの勢力を無自覚に翼賛した。しかし国民側のメンタリティというのは利権Aの時代から根本的に何も変わっていない。口を開けてお上に依存していれば良い事があるという発想だったのではないかと思う。腐敗堕落の再配分に口を開けて待っていればいいという行為態度から、改革を信じれば世の中が良くなるはずだと口を開けて待っている。クレクレ主義的精神は変わらず、何かに依存していれば誰かが変えてくれるという発想は変わらない。ちょっと自分にとって不都合があると簡単に文句を言い出し、自分に関係ない話であれば興味も無いという。
このメンタリティを多くの人間が抱えたままで、本当に事後チェック型に移行するなんて事が出来るのか?という問題があるわけです。それは我々自身がコストを負担する社会でもある。自分の頭で考えて、自分で決断を下さないとならない。そういう事までおそらく望んでいなかったのではないかと思える。なんだかわからないけれど、構造改革さえ行なえばみんなハッピーと勘違いをしていたような。事後チェックに変化するという事は、これからの方向性としては当たり前の前提に変わるという話でしか無く。そこから先は市民性が問われる事になる。土のついた言い方ですが自己責任にするしかない。政府に金が無いのだから。
それを受け入れる覚悟も、情報を吟味するリテラシーも無いのに、構造改革善と口を開けて待っている連中を動員してしまった小泉竹中改革というのは途中で相当行き詰まっていた。まあ自業自得だと言えばそれまでなんですが、事後チェック型に変化させると言ったって、市民性も無いし、国民にそれを負担する意識も無いのだから、コミットメントもバックアップも無い。何とかしてくれと待っている。ちょっと分け前が減りそうだとなれば、途端に手の平を翻す国民性な訳で、事前チェック型の腐敗堕落の再配分図式の頃から何も変わっていない。
そうなれば当然、打破すべく権益を打破する為のバックアップも無いし、国民は口を開けて待っているとなれば、打破する為には汚れた構造であっても、竹中を擁護して一緒に戦ってくれる人間に多少分け前を与えるからというインセンティブを与えて、権益構造を転換させる為に利用したとしても、竹中だけに問題があったのか?と思える。利権Bを批判している構図というのは、要するに利権Aを批判していた構図と同じ、いずれもサブスタンスはないように思える。
構造改革だと拳を振り上げた国民、しかし結局はただ口を開けて待っているだけ、しかも変わらないとなれば、批判を始めたり、自分の取り分が減るとなると、途端に目の色を変える始末。構造改革を進めようと思っても、バックアップもリソースも無いとしたら、味方をどこかからか連れて来て、何らかのインセンティブを与えて動員に利用するという事はしょうがないとは言いませんが、理解出来ない事も無い。
誤解されると嫌なので書いておきますが、自分は竹中を擁護したいんじゃなくて、彼を批判する批判の仕方が変わってないという事を危惧しているのです。竹中の動員に引っかかって抵抗勢力に拳を振り上げていた図式と変わっていない。
事前チェックか?事後チェックか?という二元論が今でも続いていますが、これはナンセンス極まりない話で、事後チェック型にする以外に選択肢は無いわけです。サッチャーやレーガン以降のリベラルの方向性というのは、事後チェック型の小さな政府というのは大前提です。今のオバマも小さな政府か大きな政府かという論点は無意味だと言ってましたが、それはもう小さな政府という言い方は語弊があるけれど、金が無いのだからそんな事を議論している時期ではないという話で、グローバル化の現在当たり前のコンセンサスであるから今更そんな下らない話をしている場合じゃないというわけです。
日本ではそんな20年以上も前にどこの国でもシフトした構造にまだシフト出来ない。というかバックフラッシュしているわけで、こういう国で事後チェック的転換を行なおうと思えば、竹中に薄汚い構造が見えたとしても、それは我々の民度と表裏一体の話ではないか?と思える。
よく北欧の話が出て、社会保障がしっかりした大きな政府であるという話になるわけですが、これは根本的な所を見落としている。そういう国というのは市場の透明化は日本よりも全然進んでいるし、海外からの投資もどんどん受け入れている。流動化も半端じゃない。バンバン解雇される。日本が必死で食い止めているものを全て受け入れている。その代わりに税金が半端じゃないくらい高い、給料の7割くらいは持って行かれる。しかしそれがキチンとリターンになってかえってくる。徹底的に透明化されている。だからセーフティネットもバッチリ整備してあるし、政府を信用出来るわけです。日本のように不透明だらけでネコババして誰も罰を受ける事さえ無いという国とは違う。全部役人の権益になって無駄遣いやりまくりとは違う。そして正規社員の年功序列システムなんかを護持している国とは根本的に違うわけです。徹底した能力実績主義を取り入れている。高コスト構造は徹底的に是正している。今の状態の日本で大きな政府なんかに舵を切ったって、この構造が是正されていないのだからどうにもなるわけないし、流動化に対する過剰な恐れがあって、既得権が権益を手放してなるものかと、末端を切り捨てているような国がそういう方向性に開いたって国際競争力なんて益々無くなるだけです。これは北欧だけの話じゃなくて、ヨーロッパは軒並みこの方向性へと程度の違いこそありますが進んでいます。
しかし東欧諸国というのは例外で、多くの国が徹底的に小さな政府路線です。それはなぜかと言えば、旧ソビエト時代に国家権力の腐敗堕落が半端じゃなかった。だから統治権力になんて金なんか渡せないとみんな思っている。どこかの国とそっくりですね。日本が社会主義とか共産主義国家と言われる所以はここにもある。つまり今の統治権力に金なんか渡したって、全部無駄にされるに決まっているとみんなで思っている。
という事は、北欧的な方向性に向かうとしたって、いったんは構造改革路線を徹底させないとどうにもならないわけで、そこを経由しないと社会保障を充実させるなんて事は出来るわけが無い。全部役人の権益となって政治家にキックバックが入って終わりです。まだそんな事をグズグズしているわけです。しかしその腐敗堕落の構造にぶら下がっている連中の抵抗というのは半端じゃないし、国民もこういう最低限のコンセンサスも無いわけで、いまだにこの前時代的二元論で綱引きが繰り返されている。小泉改革に騙されていたと吹き上がっている人達はこの辺を考えてほしいもんです。という事で、構造改革路線を悪と言う連中を疑えって話につながるわけでございます。
これは選択の問題じゃないのです。小泉竹中路線を否定するのはいいですが、事後チェック型へとシフトする事自体は不可避だし、やらないと何も話は進まない。国際競争力も無くなってしまう。そしてそこに移行するには、我々の市民性が必要になる。お任せで何とかしてもらえるような時代は終わったという事です。そういう時代に回帰したいのだとすると、戦争しか道は無くなる。インフラが根こそぎぶっ壊れて、人がいっぱい死ねば出来るでしょう。しかしそんなのはゴメンです。
もしくは一蓮托生で沈没して、徹底的に堕ちる所まで堕ちて、人口が半分くらいになってはじめて回復基調が始まるかもしれない。だけど今の世界の情勢から考えると、いったん堕ちる所まで堕ちたら、復活の経路は極めて難しいと言える。日本には売るものが無い。技術面も中国やインドに抜かれるのも時間の問題、走り続けるしか無い。歩みを止めるのならどんどん堕ちて行く。復活の経路があるうちに、日本というドロ舟が沈没しない為の方向性はすでに選択の問題じゃない。
事後チェック型の社会が問題になってしまう事の原因は、我々のメンタリティに隠れている。その事を自覚出来ないと先に進む事は出来ません。そういう意味で言うと、今の小沢に対する検察の取り締まりに対しての我々の反応、そして次の衆議院選挙というのは非常に重要な分岐点ではないかという気がする。民主党の政策は、容赦なく我々の市民性を試されるような方向性です。それを受け入れたくないというメンタリティのままであれば政権交代しても実現出来ないでしょう。
ちなみに補足ですが、民主党の政策がハッキリしないとか否定しているバカがいっぱいいますが、政策の骨格は結構出来ています。それを表沙汰にしない理由は、与党にパクられるからです。しかも役人の利権を潜り込ませて。今回の高速道路の話なんかも典型で、ちょっと前まで、環境破壊につながるとか言って、自民党は全否定していたにもかかわらず世論の空気を読んで、方向転換してしかも役人の権益塗れにして骨抜き、国民にツケを回すという図式に使われてしまう。今政策を事細かに言うと、何も理念もクソも無い自民党からすれば、利権さえ温存出来ればいいだけですので、全部骨抜きにしてパクられてしまいます。だから言わないだけの話。政権交代を選択するという事は不可欠ですが、それは口を開けてお任せ依存状態からは脱却しないとどうにもなりません。これを拒むのは自由ですが、世の中の流れ、世界の流れはそれを許してくれません。いい加減目覚める時なのではないかと思う次第です。
最後に、何で自分が竹中平蔵を擁護するかのような文章を書く事になるのか?世の中つくづく先の事はわからんもんです。誤解している人もいないと思いますが、彼を擁護したいのではくれぐれもありませんので、その事を誤解なされぬように。まあ誤解されても構いませんが。
それと同時に、自分は植草氏にしろ、天木直人氏にしろ、鈴木宗男氏にしろ、どちらかと言えば擁護して来ましたので、彼らを否定したいわけではありません。それも誤解の無きよう。ただ彼らを今支持している構造というのは、簡単にひっくり返るような気がする。その事が気がかりなのです。徹底的な暴力によって尊厳を奪われた人が、今度は暴力を加担する側に変じる、これはよくある話です。ナチスに虐げられたユダヤ人が、めぐりめぐってパレスチナに対して暴力を行使してしまう。傷ついた弱者や弱者を守りたいと思う心が力を手にしたとき、今度は暴力を行使する立場になり、かつての自分達が受けて来た痛みを与える側になってしまう。この事に敏感にならない限り、暴力の連鎖は無くならない。
それでは。
例えば小泉政権の時に小泉改革を批判していた急先鋒として活躍していた植草一秀氏。彼は痴漢の容疑で逮捕され、それこそ推定有罪でボロクソに叩かれましたが、今はどちらかと言えば彼を擁護する人が増え、彼の掲げる問題点に同意する人も増えたと思う。自分も彼が小泉政権華やかなりし頃に言っていた小泉路線への攻撃は、あれだけ世論が一色に染まっている中で、中々タフな物言いをする人だと思って注目もしていたし、彼の言っている事は非常に筋が通っていた。
しかし例の事件で彼はそれこそ尊厳もクソも無い程叩かれて、多くの国民も彼を叩いていた。それが今では世論の風向きも変わって彼を擁護する人も増えた。多分その中にはあの当時批判していた人や、小泉改革万歳だった人も混じっていると思います。それは別に構わない。何かに気付いて考えを変えるという事は悪い事ではない。だけど自分にはそれが本質的に小泉改革に拳を振り上げていた構図や抵抗勢力を叩いていた構図と何も変わっていないのではないか?という風に見える。
自分は植草氏の経済に対する見識は非常に興味があったし、多くの気付きも与えてくれたので、そういう意味で彼の言っている事は聞くべしというスタンスでした。しかしそれは彼が痴漢をやっているとかやっていないとか、そういう問題とは関係ないし興味も無い。自分にはその事はわからない。仮に彼が痴漢であったとしても、彼の経済に対する考えは重要な論点を含んでいるという事は変わらない。プラス推定無罪原則という事を大切にすべしというのと、刑が確定して償った事に対しては、それ以上何も言うべきではないという事を重視すべしという意味で彼の論点は重要だと言って来た。
しかし最近の風向き、彼を支持する人々を見ていると、何となく危うい感じがする。痴漢をやったかどうか、冤罪かどうかにやたら注目し、なんたらかんたら陰謀説みたいな話を叫ぶ人がやたら増えている。そして植草氏自体の言説も、彼は痛い目に合わされたと主張する当事者であるわけですから(本当に彼が冤罪であるなら尚更)しょうがないとは思いますが、論理性の中に、過剰な怨み節が混じっていて、ちょっと感情論が前に出過ぎているような気もするし、
(これは天木直人氏なんかもそうで、言っている事自体は、ある程度聞くべき事はあるだろうとは思いますが、ちょっと感情論やきれい事ばかりに聞こえてしまう。一方的に善悪の線を引き、線の向こう側への暴力に無自覚です。いくら正しくてもそれでは意味がない。だから今イチ自分は支持出来ない。例を挙げると例えば村上春樹氏の例のイスラエルでの受賞の際のスピーチに噛み付いて否定する。「壁と卵があったとしたら、仮に卵の側が間違っているとしても自分は卵の側を擁護したい」という言葉が気に食わないと言う。要するにこの場合、卵をパレスチナ側に見立てたもの言いなわけで、パレスチナ側が仮に間違っているという事などあり得ないと言うわけです。イスラエルの暴力が仮にとは言え正しいなどという事はあり得ない許さんぞと。まあ言いたい事はわかるけれど、そのときその時で人を説得する為のプレゼンテーションというのがあるわけで、イスラエル人<ユダヤ人じゃないひともいますから>に、お前らは間違っているから辞退するというやり方が善悪で言えば正しいのかもしれないけれど、何もサブスタンスは無い。線の向こう側に語りかける言葉や説得する言葉を否定したら、争いは無くならない。彼らにだって伝わる言葉というのはあるはずで、それを日本人の立場として、出来るだけ効果的な言葉を選んで村上氏は言っている。それでも伝わらないかもしれないけれど、伝わらないから言うだけ無駄だと否定したら、こういう争いは絶対に無くならない。線の向こう側を断罪するだけでは、線の向こう側を益々硬直させるだけ、敵視を煽るだけになる。だからイスラエルの人たちに向かって、貴方達には貴方達にとっての善があるのかもしれないが、過剰な暴力はどんなに正しくてもそれは過ちを引き起こす事につながるという事を自覚して下さいという事を言っているわけで、お前らは間違っているから正せという言い方をするよりも効果はあると思う。彼の批判というのは「何々と言った」みたいなのばかり、批判というよりケガレているという言い方ばかりです。これは自分の暴力に無自覚であまりクレバーなやり方ではない、護憲論者の中では比較的希望の持てる言い方をする人が出てきたと思ったので、自分はどちらかと言えば改憲派ですが、彼の言説には注目している。護憲の中で言い争っている場合ではないと彼自身言っている。それはもの凄く正しいと思う。つまり線を引くよりサブスタンスを重視しろという事です。しかし護憲という括りの外側に対しては、サブスタンスより線を引けと言ってしまっている。言うのは別に構わないけれど、護憲の中での線の引き合いや争いを否定するようなまなざしを、線の外側に対してももう少し向けてほしい気がする。)
彼を支持している人達も、彼は冤罪だったかどうかはわきにおいて、事件の当事者であるという事を冷静に見えてないような気もする。
推定有罪一色の頃は、冤罪の可能性もあるわけだし、彼の言っている事と、その行為は関係ないのだから、痴漢が偉そうに言うなとか、犯罪者の分際でみたいな、今の小沢批判にも当てはまりますね、与党のクソ野郎共がほざいておりますが、そういう批判は的外れであると言って来たわけです。犯罪者であったって正しい事をいう可能性はあるわけで、犯罪者には何も言う資格は無いみたいな今の与党のバカ共のような言い方というのはナンセンスです。そもそも刑が確定するまでは犯罪者では無いですし。罪を償えばその事は済んでいる事でもあるわけで、被害者が言うならともかく、第三者が犯罪者扱いして話も聞かないというのでは、一度過ちを犯したらお終いと言っているのと変わらない。そんなものは論外以前の問題です。
しかし今の状態も結局彼が冤罪かどうか陰謀論を騒いでいるだけで、批判の方向性が逆になったとは言うものの、本質的には何も変わっていないように思える。彼が冤罪かどうかはわきにおいて、彼は当事者な訳だから、彼自身の冤罪を主張する意見というのは話半分で聞いて、彼の経済に対する知見をアブストラクトして聞く(彼自身の言説が感情論が混じっちゃっているので抽出出来難くなっておりますが)という行為態度は相変わらず無い。犯罪者扱いして叩くのも、冤罪だと言って擁護するのも、その事と彼自身の言説を切り離して考えるという事が出来ていないという意味で同じです。
鈴木宗男氏がボロクソに叩かれている時も、自分は同じように当時は彼を一方的に叩く事に対しては反論を言ってました。彼への批判が頂点に達していたとき、ペットだか、マスコットだか、何にだったかは忘れましたが、何かの名前をつける時に、ムネオちゃんと提案して批判された事を覚えています。何でそんな不吉な名前を付けるのさと言われた。何か仕事かなんかの割り振りのグループ名を考えている時に、ムネムネ会と提案した事もあった。それも不人気でしたが、ようは彼が悪者かどうかを誰かが言っているからと言って決めつけるのは間違っているから止めろという意味でそれを言った。まあ知りもしないのに頭から湯気を吹き上げている人には通じませんでしたけれど、だいたい論破して納得させる事も出来た。
だけど今の彼の検察批判というのを100%真に受けるわけにはいかない。彼は怨みがあるわけで、頭に来ているに決まっている。だから話を割り引いて聞かないと、彼を叩いていた連中と同じになる。そういう意味で言うと彼と一緒に血祭りに上げられた佐藤優氏なんかはそのへんのバランス感覚は素晴らしいと思う。検察批判もただの怨み節には陥らないような距離感や自分の怨みや怒りを相対化して論理を組み立てている。
当たり前ですが、植草氏にしろ鈴木宗男氏にしろ、彼らが当事者としての主観が混じっているから、必ずしも間違っているとか言いたいわけではないし、彼らは主観が混じるとか言ったって当事者なんだから当然混じるに決まっている。自分だったら逆上して暴れまくってお縄になっているかもしれず、それに比べればよくあんなに冷静にいられるもんだと逆に凄いとさえ思う。感情論が混じると言ったって、混じって当然だし、自分が同じ立場だったら、暴言や感情論を喚き散らしているかもしれず、あそこまで徹底的に四面楚歌で叩かれたら、もっと愚れていると思う。そう考えれば凡人からすれば随分と冷静に感情論を押さえているとは思う。だけど、そうだとしても当事者で痛い目に合わされたと主張している当の本人なわけで、彼らの意見が100%正しいと見てしまうわけにはいかない。話半分で聞く必要がある。それは正しくないと言っているのとは意味が違う。
これと同じ状況に立たされている構造が、竹中平蔵の中にも若干見えるような気がする。植草氏が最初に小泉竹中路線を否定した頃というのは、小泉竹中翼賛絶好調な時期であり、逆に言えば抵抗勢力の代名詞として叩かれていた亀井静香氏の経済ブレーンとして、元々植草氏というのは広く知られるようになったという事もあるので、まるで悪の権化みたいに言われていた亀井静香的な古い自民党の抵抗勢力の不人気と同様に、植草氏の指摘も、所詮古い抵抗勢力擁護の意見だという捉え方が多かったのではないかと思う。小泉竹中路線を否定する前に、それ以前の自民党的方向性というのはすでに、多くの誤りもあったし、国民的にも人気もなかったのでお前が言うなよ的な一般的な感覚もあったような気がする。
要するに中立的な見方で言うとすると、実際に小泉以前の自民党の頃の方がマシだったか?と言えば、そんな事も無いわけで、森内閣の時点で、加藤の乱の失敗なんかもあったし、自民党というのはもうどうにもならない所にまで追い込まれていた。実際に90年代の舵取り自体も、決して褒められたものではないし、日本の国益もボロクソにされていたのは確かに事実だったわけで、その頃を擁護するような連中に正統性なんかあるのか?見たいな感覚というのはあったでしょう。小泉竹中路線が大人気で、その90年代路線が全て間違い、構造改革路線こそ善という方向性に、みんな翼賛していたわけで、見え方としてはその善なるものに対して、古い既得権擁護をして来た連中の代弁者みたいな感じにも見えたでしょうし、何となく自分の正しさを否定された事に対するルサンチマンを爆発させてるだけなんじゃないの?みたいな感覚もあったでしょう。一般的には。だから彼が例の一件で捕まってしまった時には、一斉にバッシングが起こったのではないか?という気がする。
だけどこの姿というのは、構造改革悪と叩かれている今、自らの改革は正しかったのだと必死に吹き上がっている竹中、そしてそれに対するまなざしなんかと似ているような気がする。自分の正当性を主張して、今の政策の方向性を批判する。あの頃の植草氏と重なる所もあります。もちろん自分は竹中にしろ植草氏にしろ、彼らが本当は正しいかどうかというのはわかりませんし、この二人を同じくするのは不遜な話だと言いたい人の気持ちもわかる。だけど、ここは冷静に物事を見ないと、同じ事を繰り返す事になりかねない。
かんぽの宿の問題なんかで騒いでいるように、確かにそこには竹中とオリックスの恣意性が見える。法律的に有罪にする事は無理だと自分は思いますけれど、何でオリックスなのさ?という疑惑は残るし、竹中も一枚噛んでんじゃねえか?という一般的な感覚も理解出来ます。
が、例えば植草氏のような人というのは、こういう疑いのまなざしの暴力によって、徹底的に尊厳を傷つけられたという過去があるわけですから、本当だったら、政策的な誤り指摘するのはいいとしても、陰謀説を煽り、竹中は怪しいから推定有罪で叩けと煽る事に対してはどうなんだよという風に思ってしまう。否定する立場であるべきなんじゃないの?と。彼は当事者だから怒り心頭なのはわかりますが、まわりの人間も一方が法の恣意性や推定有罪で叩かれて傷ついた人を擁護するという方向性なのにも関わらず、敵視しているからといって、アイツは犯罪者に決まっているから推定有罪で叩くべしと吹き上がっている構図は褒められたものではない。
竹中は大っ嫌いだけれど、彼を推定有罪で叩く奴は許さないと表明する事こそ、真に公正中立な立ち位置なんじゃないのか?という気がする。その立ち位置を取るものだけが、あの当時植草氏を叩いていた暴力に対して文句が言えるのではないか?と。
それに、例えばかんぽの宿の問題で言うとすると、この問題は要するに旧郵政省の問題もあるし、郵政民営化以降の問題もある。利権Aから利権Bへと移行しただけだという風に見える。だから鳩山的動員の影に隠れているものと、小泉竹中的影に隠れているものの鍔迫り合いというのは、どっちの便所が汚いかって話をしているだけで、サブスタンシャルじゃないような気がする。このどっちの便所にも隠れている小汚さを白日の下にさらして徹底追求する事は重要だと思います。
しかし利権B側、要するに郵政民営化を実行した側がいま馬脚を表したという事で叩かれているわけですが、国民がずっと利権Aを支持して来たのは間違いなくて、利権B的改革も支持したのは間違いない。いずれも国民が無自覚無関心で、そして改革だと拳を振り上げて。
利権Aが腐っているという事はある時点で国民も共有したはずです。だけどこの時に利権Bの勢力を無自覚に翼賛した。しかし国民側のメンタリティというのは利権Aの時代から根本的に何も変わっていない。口を開けてお上に依存していれば良い事があるという発想だったのではないかと思う。腐敗堕落の再配分に口を開けて待っていればいいという行為態度から、改革を信じれば世の中が良くなるはずだと口を開けて待っている。クレクレ主義的精神は変わらず、何かに依存していれば誰かが変えてくれるという発想は変わらない。ちょっと自分にとって不都合があると簡単に文句を言い出し、自分に関係ない話であれば興味も無いという。
このメンタリティを多くの人間が抱えたままで、本当に事後チェック型に移行するなんて事が出来るのか?という問題があるわけです。それは我々自身がコストを負担する社会でもある。自分の頭で考えて、自分で決断を下さないとならない。そういう事までおそらく望んでいなかったのではないかと思える。なんだかわからないけれど、構造改革さえ行なえばみんなハッピーと勘違いをしていたような。事後チェックに変化するという事は、これからの方向性としては当たり前の前提に変わるという話でしか無く。そこから先は市民性が問われる事になる。土のついた言い方ですが自己責任にするしかない。政府に金が無いのだから。
それを受け入れる覚悟も、情報を吟味するリテラシーも無いのに、構造改革善と口を開けて待っている連中を動員してしまった小泉竹中改革というのは途中で相当行き詰まっていた。まあ自業自得だと言えばそれまでなんですが、事後チェック型に変化させると言ったって、市民性も無いし、国民にそれを負担する意識も無いのだから、コミットメントもバックアップも無い。何とかしてくれと待っている。ちょっと分け前が減りそうだとなれば、途端に手の平を翻す国民性な訳で、事前チェック型の腐敗堕落の再配分図式の頃から何も変わっていない。
そうなれば当然、打破すべく権益を打破する為のバックアップも無いし、国民は口を開けて待っているとなれば、打破する為には汚れた構造であっても、竹中を擁護して一緒に戦ってくれる人間に多少分け前を与えるからというインセンティブを与えて、権益構造を転換させる為に利用したとしても、竹中だけに問題があったのか?と思える。利権Bを批判している構図というのは、要するに利権Aを批判していた構図と同じ、いずれもサブスタンスはないように思える。
構造改革だと拳を振り上げた国民、しかし結局はただ口を開けて待っているだけ、しかも変わらないとなれば、批判を始めたり、自分の取り分が減るとなると、途端に目の色を変える始末。構造改革を進めようと思っても、バックアップもリソースも無いとしたら、味方をどこかからか連れて来て、何らかのインセンティブを与えて動員に利用するという事はしょうがないとは言いませんが、理解出来ない事も無い。
誤解されると嫌なので書いておきますが、自分は竹中を擁護したいんじゃなくて、彼を批判する批判の仕方が変わってないという事を危惧しているのです。竹中の動員に引っかかって抵抗勢力に拳を振り上げていた図式と変わっていない。
事前チェックか?事後チェックか?という二元論が今でも続いていますが、これはナンセンス極まりない話で、事後チェック型にする以外に選択肢は無いわけです。サッチャーやレーガン以降のリベラルの方向性というのは、事後チェック型の小さな政府というのは大前提です。今のオバマも小さな政府か大きな政府かという論点は無意味だと言ってましたが、それはもう小さな政府という言い方は語弊があるけれど、金が無いのだからそんな事を議論している時期ではないという話で、グローバル化の現在当たり前のコンセンサスであるから今更そんな下らない話をしている場合じゃないというわけです。
日本ではそんな20年以上も前にどこの国でもシフトした構造にまだシフト出来ない。というかバックフラッシュしているわけで、こういう国で事後チェック的転換を行なおうと思えば、竹中に薄汚い構造が見えたとしても、それは我々の民度と表裏一体の話ではないか?と思える。
よく北欧の話が出て、社会保障がしっかりした大きな政府であるという話になるわけですが、これは根本的な所を見落としている。そういう国というのは市場の透明化は日本よりも全然進んでいるし、海外からの投資もどんどん受け入れている。流動化も半端じゃない。バンバン解雇される。日本が必死で食い止めているものを全て受け入れている。その代わりに税金が半端じゃないくらい高い、給料の7割くらいは持って行かれる。しかしそれがキチンとリターンになってかえってくる。徹底的に透明化されている。だからセーフティネットもバッチリ整備してあるし、政府を信用出来るわけです。日本のように不透明だらけでネコババして誰も罰を受ける事さえ無いという国とは違う。全部役人の権益になって無駄遣いやりまくりとは違う。そして正規社員の年功序列システムなんかを護持している国とは根本的に違うわけです。徹底した能力実績主義を取り入れている。高コスト構造は徹底的に是正している。今の状態の日本で大きな政府なんかに舵を切ったって、この構造が是正されていないのだからどうにもなるわけないし、流動化に対する過剰な恐れがあって、既得権が権益を手放してなるものかと、末端を切り捨てているような国がそういう方向性に開いたって国際競争力なんて益々無くなるだけです。これは北欧だけの話じゃなくて、ヨーロッパは軒並みこの方向性へと程度の違いこそありますが進んでいます。
しかし東欧諸国というのは例外で、多くの国が徹底的に小さな政府路線です。それはなぜかと言えば、旧ソビエト時代に国家権力の腐敗堕落が半端じゃなかった。だから統治権力になんて金なんか渡せないとみんな思っている。どこかの国とそっくりですね。日本が社会主義とか共産主義国家と言われる所以はここにもある。つまり今の統治権力に金なんか渡したって、全部無駄にされるに決まっているとみんなで思っている。
という事は、北欧的な方向性に向かうとしたって、いったんは構造改革路線を徹底させないとどうにもならないわけで、そこを経由しないと社会保障を充実させるなんて事は出来るわけが無い。全部役人の権益となって政治家にキックバックが入って終わりです。まだそんな事をグズグズしているわけです。しかしその腐敗堕落の構造にぶら下がっている連中の抵抗というのは半端じゃないし、国民もこういう最低限のコンセンサスも無いわけで、いまだにこの前時代的二元論で綱引きが繰り返されている。小泉改革に騙されていたと吹き上がっている人達はこの辺を考えてほしいもんです。という事で、構造改革路線を悪と言う連中を疑えって話につながるわけでございます。
これは選択の問題じゃないのです。小泉竹中路線を否定するのはいいですが、事後チェック型へとシフトする事自体は不可避だし、やらないと何も話は進まない。国際競争力も無くなってしまう。そしてそこに移行するには、我々の市民性が必要になる。お任せで何とかしてもらえるような時代は終わったという事です。そういう時代に回帰したいのだとすると、戦争しか道は無くなる。インフラが根こそぎぶっ壊れて、人がいっぱい死ねば出来るでしょう。しかしそんなのはゴメンです。
もしくは一蓮托生で沈没して、徹底的に堕ちる所まで堕ちて、人口が半分くらいになってはじめて回復基調が始まるかもしれない。だけど今の世界の情勢から考えると、いったん堕ちる所まで堕ちたら、復活の経路は極めて難しいと言える。日本には売るものが無い。技術面も中国やインドに抜かれるのも時間の問題、走り続けるしか無い。歩みを止めるのならどんどん堕ちて行く。復活の経路があるうちに、日本というドロ舟が沈没しない為の方向性はすでに選択の問題じゃない。
事後チェック型の社会が問題になってしまう事の原因は、我々のメンタリティに隠れている。その事を自覚出来ないと先に進む事は出来ません。そういう意味で言うと、今の小沢に対する検察の取り締まりに対しての我々の反応、そして次の衆議院選挙というのは非常に重要な分岐点ではないかという気がする。民主党の政策は、容赦なく我々の市民性を試されるような方向性です。それを受け入れたくないというメンタリティのままであれば政権交代しても実現出来ないでしょう。
ちなみに補足ですが、民主党の政策がハッキリしないとか否定しているバカがいっぱいいますが、政策の骨格は結構出来ています。それを表沙汰にしない理由は、与党にパクられるからです。しかも役人の利権を潜り込ませて。今回の高速道路の話なんかも典型で、ちょっと前まで、環境破壊につながるとか言って、自民党は全否定していたにもかかわらず世論の空気を読んで、方向転換してしかも役人の権益塗れにして骨抜き、国民にツケを回すという図式に使われてしまう。今政策を事細かに言うと、何も理念もクソも無い自民党からすれば、利権さえ温存出来ればいいだけですので、全部骨抜きにしてパクられてしまいます。だから言わないだけの話。政権交代を選択するという事は不可欠ですが、それは口を開けてお任せ依存状態からは脱却しないとどうにもなりません。これを拒むのは自由ですが、世の中の流れ、世界の流れはそれを許してくれません。いい加減目覚める時なのではないかと思う次第です。
最後に、何で自分が竹中平蔵を擁護するかのような文章を書く事になるのか?世の中つくづく先の事はわからんもんです。誤解している人もいないと思いますが、彼を擁護したいのではくれぐれもありませんので、その事を誤解なされぬように。まあ誤解されても構いませんが。
それと同時に、自分は植草氏にしろ、天木直人氏にしろ、鈴木宗男氏にしろ、どちらかと言えば擁護して来ましたので、彼らを否定したいわけではありません。それも誤解の無きよう。ただ彼らを今支持している構造というのは、簡単にひっくり返るような気がする。その事が気がかりなのです。徹底的な暴力によって尊厳を奪われた人が、今度は暴力を加担する側に変じる、これはよくある話です。ナチスに虐げられたユダヤ人が、めぐりめぐってパレスチナに対して暴力を行使してしまう。傷ついた弱者や弱者を守りたいと思う心が力を手にしたとき、今度は暴力を行使する立場になり、かつての自分達が受けて来た痛みを与える側になってしまう。この事に敏感にならない限り、暴力の連鎖は無くならない。
それでは。