「発信する!尚禮舘空手を沖縄から」


師 渡口政吉先生の沖縄本来の文化としての「尚禮舘空手」を約束の地「沖縄」に還す為に道場を設立し発信する活動しています。



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こんにちは、尚禮舘事務局 伊覇@ryoumikuniです。

今日は渡口先生の新聞記事を紹介です。

古い新聞記事には渡口先生の想いがたくさん詰まっていました。

どうぞご覧ください。



沖縄ごころ

郷土の武術を日本文化に



以下新聞記事を書き出しています。

渡口政吉先生の物語


剛柔流空手の大家・渡口政吉さん(79才)は、冬の間は沖縄で暮らし、4月には東京へ戻ってくる。
寄る年齢には勝てず、寒さがこたえるからだ。


帰京の日、「先生が帰ってきた」と聞いて中野区弥生町の道場に黒帯の若者十数人が集まってきた。小柄な老人の気合一つで白い空手着が一斉に波打つ。


女性や外国人もいた5千人を超える弟子が、世界のどこかで同じように剛柔流の型を演じていることだろう。





剛柔流を広めたい。気持ちだけで上京 



ここまで並大抵の道ではなかった。

東京に来て間もないころ、冬でも露天道場に教えていたのだから。

「金もなく、頼る人もいない。東京は本当に厳しいもんだと思いました」

単身で上京したのは37年前。

「剛柔流の正しい型を東京で広めたい」と思い立った。

コザ市にあった道場をお弟子に託し、代々木の空手道場の雇われ師範になった。妻と長男を呼び寄せたものの、一年ほど飛び出した。


「金儲け主義がいやになった」からだ。


しかし道場を借りる資金はない。


43歳 露天道場からの始まり 


仕方なく目黒不動の境内に学生を集め、空手を教え始めた。

まさしく露天道場だった。

雨の日は休み。冬は地面の霜が素足を突き刺した。霜も踏むうち、ぬかるみになり、けるたびにに泥しぶきが飛ぶ。

寒さを嫌って弟子も練習を犬猿するようになった。収入は弟子の月謝だけ。妻も長男もアルバイトをしたが、月2万の家賃のやりくりにも苦しんだ。

中野区内の借家から、目黒不動境内まで片道の電車賃しかない日もあった。級や段の審査を予定していたので、とにかく行って、審査料を帰りの電車賃に充てるつもりでした。


ところが目黒駅に着くと大雨。

審査は中止せざるをえず、無一文で帰ることもできない。


「顔見知りが来ないか」と駅で二時間ほど立ちつくした。たまたま駅にやって来た弟子に帰りの電車賃を借りた覚えがある。


50歳 崖っぷちの挑戦からの… 


50歳間近な師匠の情けない現実だった。

「沖縄に帰ろう」と何度思った事か。踏みとどまったのは、沖縄空手を日本文化に高めたいという使命感があったからだ。


明治以前、空手は「手てぃー」という沖縄の武術だった。剛柔流は、那覇で発展した「那覇手(なーふぁーでぃー)」の流れを組む。

呼吸と型が完全に一つになった無駄のない型。

長い年月をかけ、故郷の先人たちが作り上げたのである。

「帰ろうと思えばいつでも帰れる。先人の苦労をしのんで、やるしかないと思いまして」。

気を取り直し、隅田、新宿、中野区などあちこちの神社の境内に「道場」を開設していった。


現在の「屋根付き道場」を開いたのは52歳の時だ。

露店で教え始めて8年が過ぎていた。


苦節の末 世界に広がる尚禮舘 



教え子は今、海外に散っている。フランス、カナダ、ニューヨーク、オクラホマ。次々と支部が結成され、国籍を超えた多くの空手家が「剛柔流の渡口先生の弟子」と誇るようになった。


「海外では、沖縄を知らなくても、空手はみんなしっている。沖縄武術が日本文化、いや世界に通用する文化になったんですよ」。


渡口さんの人生に、そして空手の型に凝縮された沖縄の心が、世界に羽ばたいている。


あとがき 


渡口先生の東京移住後、次第に沖縄県内の尚禮舘の道場が減少してきました。

1998年渡口先生の死後、それは顕著になります。

私達はその失われかけた功績を渡口先生の功績を正しく伝える為に活動していきます。