新版の「資本論」を不破さんのテキストと同時並行で読む。 | 庄本けんじのノートブック

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 資本論の新版を読みはじめている。若い頃にも読んだことがある。初めて読んだ資本論は、最後まで、砂を噛むような感じ。とにかく、字を追い続けた。苦闘の連続だった。

 そのころ以来、随分年数が経ち、資本論研究は格段の発展を遂げてきた。その到達を持って読む資本論は、かつて読んだときの味わいとは全く違っている。しかも、新版の資本論は、研究の成果をあますところなく結集され、その味わいも加わる。

 やはり、資本論は難しい。どうしても助太刀が必要。私たちには、最強のテキストがある。不破さんの一連の「資本論を読む」という本。一つは、「『資本論全』三部を読む」。もう一つは、「資本論探求 全三部を歴史提起に読む」。

 新版資本論と同時並行で読めば、資本論の本体を読んでいるときにはスルーしてしまっているところが、実は、「そういう事が書いてあったのか」と気付かされることがたくさん出てくる。

 

 たとえば、第三篇、第八章、労働日の第五節のところ。不破さんの説明では、「ここの節は、2つの部分に分かれていて、前半部分は「歴史部分の序論として読むべき部分ではなく、むしろ、第一~第四節で見てきたことの総括として読むのが適切」と、資本論の読み手に指示を与えてくれる。そして、マルクスがおこなった「総括」の中心部分を引用しながら読み進み、解説が施される。

 マルクスは、その部分の総まとめとして、資本の本性をあの有名な言葉でしめくくる。

 「“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。それだから、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮を払わない…自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである」(新版P471)。

 

 第五節の前半はそこで終わり、第五節の後半は、「労働日の確立は、資本家と労働者とのあいだの数世紀にわたる闘争の成果である」(新版P473)という指摘から始まる。これも不破さんの解説による。

 マルクスは、続けて「闘争の歴史は二つの正反対の流れを示している」と指摘し、労働時間を強制的に延長しなければならなかった資本主義の成年期時代の法律と、労働時間を強制的に短縮しなければならなくなった現代(マルクスの時代)の法律との違いについて説明する。

 ところが、この部分を読んだとき、とにかく、ダラダラの感覚との闘争が続いていたため、そのような理解ができずに、字を目で追うだけになっていた。そこで不破さんの「『資本論』全三部を読む」の解説を読むと、ここは「そういうことだったのか」と気付かされ、もう一度読み返したら、不破さんの解説を読むまでもなく、マルクスはハッキリとわかりやすく書いているじゃないか、と思い、一人恥じてしまっていた。こういうことが随所にあるのかもしれない。

 

 こうして、新版資本論の第二分冊は読み終えた。まもなく、三分冊がやってくる。