高須藩上屋敷のお庭拝見 | 松風園文庫 「高須藩への招待」

松風園文庫 「高須藩への招待」

岐阜県海津市にかつて藩庁が置かれた尾張藩の支藩である高須藩について紹介するブログです。また、所蔵品も載せていきます。 
 

享保四年成「東都紀行」より。 

 

「是より伊賀町にかゝれば、尾州の松平攝津守殿の門前を過ぬ、三と世あとの春、故攝津守少將殿の庭を見し事の有し、和歌三神の社よりめぐりめぐりて、三重に落る瀧つぼに至りてみれば、此瀑布の流れは聊もみえず、傳へ聞養老の瀧にひと、道を隔て河程の泉水あり、池塘をつたひて蜂腰橋にのぞむ、淺塘の地景やうつされにけむ、池水屡々たるありさま、何となく深山幽谷の面影うつるやう成に、くろがねの井と名付たる名水を臨み見れば、蟠龍の影水底にうつるは、此非の水屋の天井に繪がける臥龍也けり、渡しの舟幾艘も、渚につなぎすてゝみゆるに乘て、中島の松陰に、櫻の散かゝるを盃にうけ留て、興ずるもおかし、是より向の岸に漕行ば、杜若の花菖蒲と影を竝べて、花をふくみたると、澤瀉のさかりにひらける、藤の巖かげに、覺束なく咲かゝれるなど、見所多し、聽雨堂に參りて見入るに、傳聞昔の時雨の亭の式露たがはず、小倉山の紅葉の頃、思ひやらるゝ大木の楓も有、寛元橋の南は圓通堂なり、殊更燈明赫然として、堂番は出家を置かれ、茶を給はりしなど、其時はさまでも思はざりし、貴賤老若思ひ思ひに、酒肴取散し盃盤狼藉なる、謠曲少しも禁止なかりし故に、春の日遲しといへども、此庭に日を暮せしは、實に近き程成に、人替り時改りぬれば、今はたれしも其事かゝらじと聞ば、何事も其時を延すは、天のたま物をとらざる也、されば我紀行も、かさねて又なすべき、日影はやく我足はおそし、今行末も猶伊賀町にして、四谷に出たり」

 

「東都紀行四卷 辻言之(雪洞)が「江戶馴ざる勤番者が諸侯旗下の邸宅に使するに、地理不案内の爲に道にの爲に道迷ふ者少からざるを歎き、其著第宅便覽を補訂せんとし、自ら江府を巡覽して第宅を搜るの傍、名勝舊蹟をたづね、各町の沿革を記したるもの」新燕石十種 第二所収