松風園文庫 「高須藩への招待」

松風園文庫 「高須藩への招待」

岐阜県海津市にかつて藩庁が置かれた尾張藩の支藩である高須藩について紹介するブログです。また、所蔵品も載せていきます。 
 

 

 

臥龍山焼と称する花瓶があり、側面に次のとおり文字が彫ってある。

 なお、現在水差しとして整えられ塗の蓋が拵えられている。

  

美濃州石津郡上埜

河戸邑臥龍山下而

始開新窯文化六年

己巳十一月創製陶

器此造花瓶以蔵臥

龍山

 

総裁 平沢清九郎一貞

奉行 荒木良吉季尹

 

     瀬戸

陶工 武右衛門

     赤津

     藤九郎

 

臥龍山焼とはこれまで全く知られておらず、情報としては陶器に刻まれた文字だけであるが、これによれば

文化六(1809)年に高須藩領である美濃石津郡上野河戸村(現在の海津市南濃町上野河戸)の臥龍山麓に開窯された。臥龍山とは、高須藩主の菩提寺行基寺がある御山と称される山である。

文化六年当時の高須藩主は九代松平義和である。高須藩御用達商人大坂屋の吉田耕平遺愛品の売立目録に「義和公手造黒茶碗 銘明鳥」とあり詳細は不明ながら義和も作陶をしていたと思われる。ただし、義和は高須に帰国していない。

 

 総裁と刻まれた平沢清九郎一貞とは、尾張藩士で九朗焼の作者として有名な人物である。当時は高須藩の御番頭兼御用人として附属されていた。

 名古屋市史には、「文化十一年、病に依りて退隠し、家を長男一胤に譲る。乃ち養老園を城東清水坂下に設けて茶事を娯とし、製陶を以て身を終ふ。天保十一年六月二十三日没す。享年七十。法号を一貞院貫誉九朗と曰ふ。九朗陶を以て世に知られ、其製する所頗る雅趣あり。茶友に小堀宗中・松尾宗五等ありて、茶室を今昔庵と号す。」とある。また瀬戸市史陶磁史編五には、「窯跡養老園は名古屋市東区清水二丁目にあり、陶土は瀬戸・赤津などから取り寄せ、赤津御窯屋唐三郎などに手伝わせた。」ともある。

 

奉行と刻まれている荒木良吉季尹とは、高須藩士で開窯当時勘定奉行を勤めていた。

寒窓寺墓地にある墓碑には、荒木一甫平季尹、明和二年四月三日生、嘉永三年十二月廿日卒とある。

 

 陶工の瀬戸の武右衛門、赤津の藤九郎とは、尾張藩が保護していた陶磁器の産地の瀬戸村、赤津村の陶工である。同地域の陶工の内、御窯屋と称された家は尾張藩から扶持を受け御用を務めていた。また、名古屋城下のお庭焼御深井焼での御用も務めていた。ただし、文化六年当時は御深井焼窯は中断されていた。

 武右衛門、藤九郎については、「公儀御役人瀬戸村江窯職御見物之事」という文書に享和二年三月美濃郡代辻甚太郎が「尾州瀬戸焼物竃御見物ニ付御越シ遊バサレ候」の際に案内された窯元にその名がある。

 

 ところで、臥龍山焼との関係が不明であるが、昭和五年の岐阜県大垣中学校校友会誌「麋城」五十七号に掲載の「郷土研究臥竜山行基寺縁起」に「又菩薩至る所瓶を陶り世に行基焼と云ふ。往々其破瓶を山中に得、現に傳ふて什器と為し保存せり」という記事があり、「行基寺全景図」の開山堂の上部に行基焼釜の記載がある。

 

 

 また、尾西市史所収の「吉田家歳代記」には、松平義建が嘉永元年申正月十三日に尾張中島郡小信中島村の吉田世良家に立ち寄った際の下賜の品が記載されているが、ここに河戸の文字がある。

 

  嘉永元年申正月十三日

高須摂津守様、私宅へ被爲成独礼名披露御目見得被仰付献上物唐紙一本

拝領の品

一 御染筆  蓬来作雪山

一 御自作御茶碗 御箱表書 河戸□□茶碗 

  裏御実名成 花押

 

 

 さて、新窯の開設については、総裁及び奉行が任命されていることから、藩主の意向があったと思われ、臥龍山焼とは、岐阜県では稀な藩窯であると考えられるが、資料としてはこの水差しのみであるため窯の位置、使用した土、作陶の種類、廃窯の時期など今後の研究が望まれる。

 

 

 

高須藩関係者の著作物2

 

□贅肬録・沒鼻筆語

 著者の日比野掬治は高須藩の儒者。文久二年四月幕府の上海使節団に幕臣金子兵吉の従者として加わった。「贅肬録・沒鼻筆語」はその時の見聞録である。昭和二十九年東方学術協会から孫の日比野丈夫により発行された。幕府遣清使節団には佐賀の中牟田倉之助、長州の高杉晋作、薩摩の五代友厚(才助)も一緒に行っている。

「贅肬録・沒鼻筆語」を使用して書かれたものとしては論文「文久二年幕府遣清使節団随行の尾州藩士日比野輝寛の見聞」(原口敬明)及び「高杉晋作の上海報告」(宮永孝新人物往来社発行)がある。

 

□髙木竹軒の著作

竹軒全集   明治四十四年

竹軒百律   明治四十四年

続竹軒百律  大正十年

続続竹軒百律 大正十一年

竹軒疊韻百律 大正十二年

竹軒百絶   大正十五年

竹軒獲麟集  昭和八年

髙木竹軒の著作は子息の髙木貞幹が三千首余りの家蔵の作品を門人らと共に編纂したもの。竹軒百絶は大沼枕山の評が入っている。

 髙木竹軒は、高須藩士で、諱を貞一、通称杢衛。雅号は竹山のち竹軒と号した。別に一如、古竹、無無道人、龍南樵夫の号がある。

 漢詩については、時期は不明ながら江戸に勤務中、大沼枕山の門に入り高須に帰郷後も手紙にて指導を受けた。
  明治二年会津藩士秋月悌次郎(韋軒)手代木直右衛門勝任が高須藩にお預けとなったがこの時、 黒川三畏、河原湟南とともに唱和応酬した。秋月悌次郎の『韋軒遺稿』に「四疊韶似竹軒」と題 した詩が載っている。
 委蛇々々吟社、江山吟社を主宰して後進を指導したが漢文学衰微の頃だっため長続きは しなかったという。

 

 

 


 

 

 

□花の宴

 佐藤與八郎は実名重賢といい文政十一年の生れ。安政四年高須藩士養父佐藤善次平の跡を継ぎ内組並、小納戸定仕埋等を勤めた。

獅子門(美濃派)の俳諧を嗜み酒中仙仏海また、酒仙と号した。

 明治三十一年古希の祝いに送られた詩歌と自作の俳句をまとめた「花の宴」を発行した。

 

 

 

 

□禁固日課集

 長谷川敬が高須に幽閉されているときに書き綴った漢詩集。長谷川敬は尾張藩主となった徳川慶勝に従い尾張藩士となったが、慶勝の失脚に伴い尾張藩寄合から高須藩に戻され中組に左遷、さらに、「御本家様御小納戸頭取勤役中、御為第一に心懸可相勤之処、彼是不束之始末有之、不埒之至に付 御宛行被召し上永く蟄居」を仰せ付けられた。名古屋市立鶴舞中央図書館に名古屋市史資料として写したものが所蔵されている。

 

□慶勝公履歴附録 

 徳川慶勝公の伝記。著者の長谷川敬は長く側近を勤めた。

 名古屋市立鶴舞中央図書館に名古屋市史資料として写したものが所蔵されている。

 

 

□兵要録講義 

 高須藩士棚橋嘉左衛門敬武編 尾張藩士近松彦之進矩の長沼流兵学の講義録。棚橋嘉左衛門は謙信流兵法を藩士小島又四郎宴東から学び免許を得ていたが、高須藩に長沼流を伝える者がいなくなっていたため高須藩主の命により尾張藩士近松彦之進茂矩が嘉左衛門に奥義を伝えた。宝暦九年九月免許皆伝となる。名古屋市蓬左文庫に所蔵されている。

 

□兵要録講義 

 長沼流兵学の講義録。編者の澤田庫之進も長谷川敬と共に徳川慶勝に従い高須藩士から尾張藩士となった。東京大学総合図書館所蔵

 

□高藩紀事、続高藩紀事 

 明治十年高須松平家を継いだ義生公の命により藩士黒川三畏により編纂された高須藩の藩史。海津町史史料編三に所収されている。

 

<この他>

 

□『沢田旭灣七宣閣詠史絶句抄序』の草稿が尾張藩明倫堂督学阿部松園の『松園詩稿』に載っているが、この沢田旭灣は澤田庫之進の父、沢田小十郎の号である。実名盛長、字は大齢、旭灣・一鶴と号する。小姓見習、奥御番、小納戸、勘定奉行を歴任する。詩を善くし、菊池五山、梁川星巌、森春濤と交わったという。

 

□日比野秋江の詩稿 国書総目録に日新堂教授の日比野秋江も詩稿があるとされているが、現在所在不明。名古屋城下の服部壺仙の蔵書であった日比野秋江の詩稿を尾張藩明倫堂督学の細野要斎が購入している。

 

美濃の文化 平成20年 No109

 

 

 

 

 

高須藩関係者の著作物

 

高須藩関係者の著作物について管見のものを紹介したい。

 

□東來焚餘

 藩医を勤めた松尾東來の漢詩集。松尾東來は、実名世良といい、尾張藩の儒者岡田新川に詩を学んだ。文化八年、火災に遭い詩稿の多くを失ったが、残った詩稿を菊池五山(高松藩の儒者)の勧めで出版した。文化十三年発行、十八丁、川内泰、川内修同校、大窪詩仏及び菊池五山が序を書いている。名古屋市蓬左文庫・大垣市立図書館・内閣文庫に所蔵されている。

 なお、松尾東來の漢詩は、稲毛屋山編纂の采風集にも二編掲載されている。

 

 

 

□初学詩材

 日新堂教授を勤めた川内甚左衛門が漢詩を学ぶ子供のために編集した漢詩の用語集。

 川内甚左衛門は當當と号し、私塾方壺館を開き藩士子弟のほか近郊の子供に教授した。『初学詩材』は、寛政四年五月、京都の書肆「植村藤右衛門」から上中下巻が発行された。

 尾張荘内隠者が題を、美濃の釈観妙至道が校をしている。

 名古屋市博物館、東京大学総合図書館に所蔵されている。

 

 

□大統歌註解

 日新堂教授の森川篤蔵の子息で自身も訓導を勤めた森川重明の著作。明治十六年、愛知県知多郡の野間学校から出版された。当時森川重明は、野間学校の校長を勤めており教科書として出版された。

 

 

□通語字解

 森川重明編輯、岡崎綱三閲。明治十六年に名古屋の慶雲堂から出版された。岡崎綱三も日新堂教授を勤めた。

 

 

 

□勢遊草

 紀州藩の儒者川合春川は、高須出身である。名を孝衡、通称丈平といい、高須の医師佐竹一鴎の子で京都の医師川合龐眉の養子となる。安永八年紀州藩の儒者となり文化二年松坂学問所の教授となる。

  著作は多く、「勢遊草」もその一つ。文化三年に京、大阪、江戸、津、和歌山、松坂の書林で発行されたが、今でも時々古書店の目録で見かけることがある。

 

 

 「美濃の文化」 平成14年 No88

 

高須藩主松平義建の書

 

 

松平義建公の書

 

霜月八日初子の日なれば、ついさや今宵は物の音調へ

夜更くる見て遊ばむ、其道に賢き者共召し出してふ、四五人駆り言ひ遣りたるに、吾への尋が許よりいともいとも飽くき取り分けたる

仰璽なれど、此日頃病きありて今宵はもう上り得ず、

たいだいしう残りたるよし畏まり、きこえ子等のみ上せ、後より経て斯くなん言ひ遣しける

子の日にも もれて憂き身は病きに吹きあへぬ笛の音の音をのみぞなく

万手楽しき笛の音の、光る聖の御代の事をひきつつ

げに好ましくするわざなれば、さてぞ口惜しく残り

たりめれ、殊さらに差し遣りしもの、生憎に出来ぬがさうざうしくて

かへし歌まで斯くなん言ひ遣りつ

 

来ぬ人を まつばかりかは 笛竹の 千世も一夜に かぎる初子は

契りおく まつに小松を 引き連れて 問へし今日の 後の子の日を

 

         義建

 

高須藩御用人高木甚右衛門有典の書

 

 

高家俊士護高須官舎寂

然何従縦軀炎暑好勤文

武業清風受敞酒詩娯

月晴宵静聞村鼓民會

暁涼催夏雩郷夢漸醒

多所思東峯一望瑞雲

 

右奉贈

 

高須侯参政文武兼官  高木有典

高木秀才

 

 

 

 

 

 

           南濃古刹臥龍山行基寺繪ハガキ

 

                 行基寺山門

 

行基寺本堂

 

行基寺本玄関

 

行基寺庭園ノ一

 

行基寺庭園ノニ

 

行基寺大檀那 松平家御廟

 

天平時代遺物大宝塔 開山行基菩薩御入定地

 

臥龍山行基寺全景

 

 

 

 

川合春川漢詩

 

 

 

當昔飲牛日汚流一許由

挙世今混濁無汶流飲牛

  題巣由図  春川 川衡

 

実名孝衡、(衡ともあり)、字は襄平、通称を丈平、春川と号する。高須の町医佐竹一鷗の子、 京都の町医川合龐眉の養子となる。寛延三年生まれ。妻は松平下総守の家中山田小左衛門の娘
  彦根藩の儒学者(古註学派)竜草蘆に学ぶ。また尾張藩士植松有信に和歌を学ぶ。
  春川詩草の竜草蘆の序に曰く。
  予綬を彦藩に解くの日二三子の我に従ふもの未だ甞て相與に湖中を辭するもあらざるなり
 唯三野源孝衡従ひて京に入り、吾黨を羽翼して尤も功あるなり。孝衡為人恭謙謹信篤学の志
 蛍雪の勤、旃に加ふるにその才亦敏捷日ならずして業成り、殊に詩深し、後紀藩南遊して将
 に伯楽なるものあって、之を知らんとす。孝衡乃ちその学を以て唱へば則ち国中継いて和す
 るもの日に益多く、従遊の士、履戸外に満ち千里遇まざるの勢是に於てか観るべきなりと。
  また、『続諸家人物志』に
 美濃人。草蘆ニ学フ。文章ヲ以テ称セラル。紀州ニ筮仕シ儒官トナル。後ニ専ラ三礼ヲ研究
 シ、コレヲ以テ一家ノ説ヲナス。
 とある。

 天明八年紀州藩の儒官となり、文化二年紀州藩領松阪学問所の教授になる。
  岡崎廬門、川内当々、松尾東來、千賀範卿、岡田新川、松平君山、、細井平洲、菊池衡岳、菊 池五山らと親しく交わる。

著書に詩学還丹・儀禮釈宮図解・五礼類算・二礼説統・周禮孝工記図解・春川詩集・勢遊艸、 友嶋記・周宮質疑・儀禮質疑・詩経正名編・帝王承統識図・親族母黨合成図・分應名解・施政録 ・作文図箋・文法図例・四等則字例・選詩材・国朝詩韻・梅花百絶・医学早合点・鶴一楼文集・ 三禮説統・読韓文法などがある。 ( 紀藩士著述目録による。 )
 周禮孝工記図解の序は尾張藩細井平洲が書いている。
  文政七年九月二十五日歿する。
 

 

高須藩士原田陶々の水指

 

    

 

肖鳳山窯

 刷毛目水指

 

箱書

天保十五甲辰冬 江戸、江戸詰之節

十二月九日於

四谷御舘御茶被下 相済而

御作之御茶碗 御銘萬年茸 幷ニ

此水指原田陶々作拝領之

      和楽軒

 

    

原田陶々

通称駒之進、実名種文、明和四年十一月七日生まれ。

寛政五年馬廻並に召出される。当時芸術修行のため江戸に居た。以後、大代官並、納戸、目付、小納戸、勘定奉行を歴任、文政八年五月九日高須藩士として始めて御用人見習となり二百石代を賜る。長沼流軍学を藩士に教授する。門下に長谷川敬、川内老泉等がいる。

著書に藩主義建の高須滞在中を記録した「十かえりの記」、「源語賀言解十二冊」がある。

天保十年五月九日隠居、駒野村に移る。

嘉永二年七月廿三日没する。

 

梁川星巌から座田維貞への手紙

 

 

旁箋捧謹候秋日者申訳候

栄福奉賀候十三日ニ参り

候而委細も話し置候其外入ニモ

種々話し有之候何分

大混雑ニ而国基も贈被

置候跡より御礼可申上候尚

実ニ六年之内積り候事共

皆々修理致候事ニ付繁劇

之事跡之御所司も

大抵者岡崎へ参候哉ニ

候得共分り兼候様

何分九十月頃ニハ引渡し

上京可致候

一郎之義先日之形ニ而

宜敷奉存候万方一

面忘言

 

七月十六日

 

座田様    梁川

 

幕末の高須藩家老中根忠富の和歌短冊

 

雨中新橋

ふる雨のおとせぬまてになりにけり 谷の楓のみとりなるころ