「尾張藩江戸御小納戸日記」の寛政十二年三月の条に内組以上の高須藩士の役替について尾張藩主の承認が必要との記事があった。
「四谷御家ニ而内組以上之輩御役替等之儀
源戴様御代ゟ
御前江奉伺候様ニ令之御事ニ付節々奉伺
候上御役替被仰付候処寛政四年向後者
跡言上ニ仕候様被仰出候旨然處今般
御代替ニ付而ハ何相心得可申哉及内談
候間四谷御家老山崎重左衛門神谷数馬ゟ
申聞候付御側御用人相談之上ニ而隼人正殿江
相伺候處
御先代様之節寛政四年被仰出候通
無差別言上有之候様可申遣旨隼人正殿
被申聞候付其後四谷御家老江申遣候」
これによると、源戴(徳川宗勝)の代より内組以上(御目見以上)の高須藩士の役替については事前に尾張藩主へ伺い奉るよう指示されていたところ、寛政四年(1792)に今後は事後報告で良いとされた。今般尾張藩主宗睦が亡くなり斉朝に代替となったため四谷御家老の山崎重左衛門と神谷数馬から、今後どうすべきか尾張藩御側御用人に相談の上年寄の成瀬隼人正に伺ったところ、先代(宗睦)の時と同じでよいとの回答であったとする。
役替を伺うよう指示を出した徳川宗勝とは、第七代尾張藩主徳川宗春が蟄居謹慎を命じられ、高須藩三代藩主であった松平義淳が尾張藩主を継ぎ宗勝と称したものであり、義淳の跡は第二子秀之助(義敏)が継いだ。
秀之助(義敏)が高須藩主を相続した時、わずか六歳であり、幼少のため尾張藩市ヶ谷上屋敷に同居していた。つまり、高須藩家臣団の統制について藩主が幼少が故に勝手知ったる宗勝の承認を得るように指示したものだろう。
寛政四年当時の高須藩主は義裕であり、高須藩主を継いで十五年目、三十一歳であった。この年初めて高須への帰国をしている。