自分を知るということは、自分を考えることではないということ。これは「たしかに」と言えることです。もうひとつ「日本という国に住んでいる」ということを抜いてはならないですね。いつの間にか身に染みついているものはありますから。そのことを教えてくれる契機はあるので、ことしのNHKはとてもだいじな番組がたくさんでした。そのひとつ「戦慄の記録 インパ-ル」は何度も見返しました。73年前インドと当時のタイの間チンドウィン川を越えてインド領インパ-ルの英軍基地を攻撃するため470Kmを行軍するという作戦がおこなわれ、誰一人インパ-ルにたどり着くことなく3万人の兵士が命を落とした。

これはイギリスケンブリッジの帝国戦争博物館に保管されていた10時間を越えるフィルムや調書などの資料に基づくものだという。

当時作戦司令官の牟田口廉也中将付きの斉藤博圀少尉の克明な日記が、当時の状況を生々しく伝えている。

太平洋15軍参謀 小幡伝良参謀長は兵站(食料や武器の補給)の視点から作戦は実施すべきではないと進言し、即座に左遷された。また経理部長も「補給は全く不可能」と明言したけれども、司令部の全員が大声で「卑怯者、大和魂はあるのか」と怒鳴りつけ従うしかない状態だった。そこには冷静な判断よりも人間関係が優先され、毎朝牟田口司令官の戦勝祈願の祝詞「インパ-ルを落とさせ給え」という神がかりしかない状態だったという。

ビルマ方面軍の河辺正三指令は戦後の取り調べで「(牟田口と)お互いに作戦の遂行は難しいと思いながらその場しのぎの話題に終始し、私は作戦が成功するかどうか疑わしいと包み隠さず報告したいという突然の衝動を覚えたが、私の良識が、そのような重大な報告をしようとする私を制止した」と証言している。

その結果、ある生き残った兵士が証言する惨状が生まれる。「日本人同士でね、殺して食う。一人でいると肉を切って食われてしまう」

捕虜となって生き残った斉藤博圀少尉はいま96才。戦後、戦争について語ることがなかったという。そしてこの資料を手渡され「あんまり見たくないなぁ」といいながら、司令部での会話を語り始められた。

「どのくらいの損害が出るかとの質問があり、ハイ、5000人殺せば取れると思いますと返事があった。最初は的を5000人殺すのかと思った。それは味方の師団で5000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する」

「日本の軍隊の上層部が、悔しいけれども兵隊に対する考えは、そんなもんです。その内実を知っちゃたらつらいです」と慟哭される姿。

将校・下士官はほとんど死んでいない。さっさと帰国して、戦後自分は悪くないとの弁解を繰り返す。

こうして今読んでいると、日本人の姿が、責任を取ろうとしない姿が浮かび上がってくる。責任を取ろうとしない姿勢は言葉に表れてくる。

吉本興業で活躍して、今は刑務所の「満期釈放前教育」の講師を務める竹中功氏の著作にこんなふうに書いておられる。

 「僕は普段からつぎの三つの言葉を軽々しく使わないようにしている。

  普通.誰でも.みんな

  簡単にいうと、この三つを使ってコミュニケーションをとっていると、大変なことになる

  からだ。ひと言でいえば、「あなたの普通は僕の普通とは限らないということだ。」

この言葉を本にインパ-ルの司令部の面々、また今日、大和魂とかいう言葉で結びつきたがる人々を考えてみると、重なって感じませんか。