能舞台


大学時代に観世流能楽師の関根祥六さんの楽屋にお邪魔する機会があったんやけどね、そん時に関根さんに訊いた。


「舞台に立っている時に、お客さんの事はどれくらい意識するもんなんですか?」

「全然、意識しない。」

「え?全然ですか。」

「そう。鏡板の松のカミにお見せしているだけだね。お客は、たまたまそれを覗き見しているだけ。」


唱玄さん『祝詞』 を唄っているとその時の会話を思い出す。


ウタってもともと「人間」に聴かせるためにあるんじゃない気がする。言葉が届かないところにいる「何か」に語りかけるから、話し言葉よりも大きな音と旋律が必要になるんじゃないんかな。よっぽど遠いか、よっぽど近い「何か」に。



過チト知ラズ 垣間見シ 我ガ身ヲ 祓ヒ賜へ 清メ賜へ


この部分から急に「人間 武田唱玄 」が顔を出してくるんよね、この、『祝詞』 って曲は。それまでの部分は循環する生命の鎖みたいなことをテーマにしとるんじゃと思う。日本神話のイザナギとイザナミのイメージと重なるところがあるんかな。


しかしなぁ・・・・


過ちと知らないで、覗き見した私の穢れを 

                祓ってください 清めてください 


って言いいよるのは、やっぱり唱玄さんと考えた方が、無理のない解釈やろうしね。何を見たんですか、あなたは?



・・・・まさか!?



武田唱玄


手間のかかる作業やけれども、続きを解読するのが楽しみになってきた。










うちのばあさんは、(・・・いっつも、ばあさんの話題やね。すんません、俺、かなりのおばあちゃん子だったんです。)「唱玄 さんは、偉いひとじゃ。」って言いよったけど、この唱玄要妄集 をぱらぱら~っとめくってみた印象では、そうでも無い気がする。随筆部分の最後の方のページは、『懊悩の章』とかって書いてて、散々自問自答してる。「水浴びをせねば臭くなるが、寒い。寒いが臭くては自分が集中できないから、やはり水浴びせねばならぬ。」とかいうのもある。あんまり大した悩みじゃない気もするけど、もしかすると、深い意味があるのかも知らん。まあ、偉いか偉くないかはどうでもええことやね。とにかく、俺は、唱玄さんの作品に興味がある。ほんで、いつの日か唱独創 を再現したい。それだけの事やね。


唱玄さんになったつもりで、『祝詞』を謳ってみた。