手ぶらで通える書道教室 佐久間しょうげつです
今日は、3月11日ですね。そう、あれから3年です。
3年前の3月11日は、息子を出産して退院したばかりで、水戸の実家に里帰りしていました。
実家のリビングは、2階の一番奥にあります。
ふだんから、地震のときには、念のため1階に移動するかどうか考えているうちにおさまる・・・というかんじで、その時も、どうするか一瞬考えました。
すると、ソファーに座った私の目の前にある仏壇が激しく揺れて、なんだか避難したほうが良いような気がして、避難することにしました。
生まれたばかりの息子をおくるみにくるんで抱え、2歳の娘を抱っこして、2人を抱っこした状態で階段を下りました。
階段を下りながら、だんだん激しい揺れになりました。
階段を下りてすぐに玄関があるのですが、玄関に到着した直後に、後ろにある本棚から大きな壺が落ちて粉々に割れました。
玄関では、靴箱が倒れてきて、途中でもう一つの備え付けの靴箱にひっかかって止まりましたが、玄関ドアは、腰から上を靴箱にふさがれてしまいました。
子供2人を抱えて立っている私のその場所だけがかろうじて安全な場所で、それは奇跡のようでした。
後から知ったことですが、2階のリビングと階段の間にある廊下は、大きな姿見が倒れて割れてしまって、裸足では通れなくなっていたそうです。
まだまだ緩やかなあの揺れのときに避難を始めなければ、けがをしていたところでした。
1階の奥の部屋には、歩行器を使わないと歩けない祖母がいたのですが、粉々に割れた壺の廊下を通れなかったので、外からまわって助けることにしました。
子供2人を抱えながら、なんとか玄関ドアをこじあけ、外に出ました。
そこでまた大きな揺れ。
しばらく座りこんで、揺れがおさまるのを待ちました。
外をまわって、祖母の玄関にまわると、祖母は、階段下まで歩行器で移動して、私の名前を呼んでいました。
生まれたばかりの息子を抱っこしながら、数十キロはあると思われる歩行器を片手でかついで外におろしました。
ふだんの私には、とてもとても持てないくらいの重さです。
重さに耐えきれず、息子をコンクリートに落としてしまっても大変なので、用心しながら一気に持ち上げました。
そして、祖母も外におろしました。息子を抱っこしながら。
祖母は、歩行器につかまって、なんとか立っていられる状態です。
車も出払っていて、息子を寝かせる場所もないので、私はずっと抱っこしたまま。
なかなか私から離れず、最初は2人抱っこしていた娘は、なんとか離れてくれて、隣のおばさんに抱っこしてもらっていました。
それから、1時間くらいみんなで不安な気持ちで立っていました。
その間、大きな揺れは何度もきました。
東北を震源とする大地震のあと、茨城南部を震源地とする震度6の余震があり、茨城は、同じ日に震度6の地震が2回ありました。
1時間後、父が職場から戻ってきました。
母も戻ってきました。
母は、職場が病院なので、私たちの安否を確認するとすぐに職場に戻りました。
私と子供たちと祖母は、父の車の中で休みました。
父は、暗くならないうちに、玄関を片付けたり、トイレまでの道を作ったりしていました。
夜になって、母と夫が戻ってきました。
道路は渋滞して動けなかったそうです。信号も止まってしまいました。
実家には、調理をすれば食べられるものはあったのですが、水もなく、その日に食べられるものは何もありませんでした。
娘用に買ってあったお菓子で過ごしました。
その夜は、とてもとても怖くて家の中には入れず、車の中で過ごしました。
余震は30分とあかずにあるし、寒いし、子供を抱っこして、全く眠れなかったです。
次の日の朝、ひたちなかの自宅にある災害用の水を取りに行きました。
実家は、ガスだけなんとか使えましたが、電気も水道もストップ、たくわえの水もほとんどなかったのです。
自宅は、実家ほど物も多くないし、新しいし、きっと被害は少ないことだろうと思いながら向かいました。
ところが着いてみて愕然としました。
駐車場に屋根瓦がどっさり落ちているのです。
我が家は、大正浪漫風に建てた家なので、屋根は和瓦です。
家の中もめちゃくちゃ。
家具は移動したり倒れたり、壁はシャープの形に裂けていました。
我が家も、リビングは2階なので、2階に物が多く、家電もすべて落ちていました。
洗濯機、電子レンジ、炊飯器、デジカメが壊れました。
食器はすべて落ちてしまい、ほとんどの食器が割れたりかけたりしました。
2カ所ある玄関のタイルもすべて割れました。
カーテンレールが落ちたり、窓が開かなくなったり、玄関ドアが閉まらなくなったり、洗面化粧台の鏡が落ちて割れ、大理石の洗面化粧台にひびがはいったり・・・その他いろいろ・・・被害はひどいものでした。
すっかり落胆して実家に戻りましたが、それから数日の方が、本当にきつい毎日でした。
震災からまる一日たってから、震源地はどこだったのか、津波があったこと、などを知りました。
電気も水道もストップしていたので、情報源がなかったのです。
震災の翌日の午後から、父も母も夫も職場に戻りました。
私は、産後間もない体で、2歳の娘と生まれたばかりの息子と歩けない祖母を抱え、余震が続く中、とても不安な時間を過ごしていました。
まもなく、妹家族も実家に移り住みました。
妹の家も、電気水道がストップしてしまい、3月末まで復旧しなかったからです。
実家は、比較的早く電気が復旧しました。
妹は、昼間は食料の買い出しやオムツ探しに奔走してくれました。
交代で車を預かり、ガソリンスタンドに並んでくれました。
その間、私は、子供2人と歩けない祖母に加え、妹の子供2人を預かり、とても不安な思いをしていました。
余震が続く中、また大地震があったら、私1人で子供4人と歩けない祖母を避難させることができるか心配だったからです。
ずっと、玄関に座っていました。
子供たちも玄関で遊んでいました。
まだまだ帯明けしていないなんて言ってられず、11人家族の家事をしていました。
地震・・・を思い出すときに思い出すのが、この不安でたまらなかった日々です。
また大きな地震があったら、避難できるか、子供たちの命を守ることができるのか、今度こそ家がつぶれるのではないか・・・という不安です。
今日もまた、この不安な気持ちを思い出していました。
3年たった今も、この不安な思いは忘れることができないし、家の復旧工事も完了していません。
でも、ただただ、命があることに感謝です。
息子は、予定日よりも1ヶ月早く子宮口が開いてしまい、いつ生まれてもおかしくない状況でした。
そんな中、2週間以上ふんばり生まれてきませんでした。
おそらく、1ヶ月早く出産していたら、里帰りを済ませて自宅に戻り、震災の日を迎えていたと思います。
実家より被害の大きかった自宅では、どのようなことになっていたかわからないし、避難しようとして頭に瓦が落ちていたかもしれません。
そう思うと、息子は、一番良いタイミングで生まれてきてくれました。
周りの人々からも、「もうあと数十分遅かったら、下校していたからどうなっていたか・・・」、「その日はたまたま誰もいなかったけれど天井が崩落した」などなど、奇跡的な話をいくつも聞きました。
こんなに大きな災害があって、今こうして生きていられるのは、やはり奇跡です。
たくさんの命が失われた中、こうして今生きていられる命を大事にして、一日一日すごしていきたいと思います。
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日本書作院同人・書魁社師範 佐久間 しょうげつ
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