先日、二か月ほどかけて、村上春樹さんの新作「騎士団殺し」を読み終えた。仕事が思いのほか忙しくなり、帰宅してからは受験勉強をしたり仕事の続きをしたりで、読みかけたまま放置してしまっていたので二か月もの時間がかかってしまったのだった。たまの休みに手にしても、読んだところまでのあらすじや伏線について失念してしまっており、遅々として進まない。おまけにここ数年ほどで老眼が進んでしまい、読書をすることがだんだんと苦痛になってきている。
思えば近年、小説をちっとも読まなくなってしまった。昨年読んだものといえば、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」とミシェル・レリスの「幻のアフリカ」ぐらいなものだ。村上春樹さんの「ノルウェイの森」を再読したり、カフカの「審判」を途中まで読み返したりといったことはしたものの、小説に対する僕の興味や関心といったものが、失われてしまっているのかもしれない。一方で、世間では、お笑い芸人が芥川賞を受賞したり有名な歌手がノーベル文学賞を受賞したりと、文学に関する関心がとても高まっているにもかかわらず。
僕が小説作品に対して関心を失っている理由として、世間で文学がえらく取りざたされていることがある。天邪鬼と思われるかもしれないけれども。
僕は大学生の頃から書店に行くことが好きで、大仰でなく、一年三百六十五日のうち少なくとも三百六十五日は書店を訪れていた。なにしろ書店に勤務していたことさえあるのだから。それが、三年前に郷里に戻ってからというもの、ほとんど書店に行くことがなくなった(四国の片田舎ではあるが、数軒ほど書店がある)。時に店頭をのぞくことがある。新刊書が所狭しと陳列されている光景を目にしても、手にしたいと思う作品がちっともない。
まず、小説作品について。いわゆる「ネタバレ」という言葉がネット上で飛び交っていることからもわかるように、現在における小説の価値とは、作品に仕込まれたネタの巧拙のことであり、人間を描くといった表現の巧拙とはかけ離れたところにある。僕は常々思うのだが、ネタバレした程度で手に取る気が失せてしまう程度の小説作品など、そもそも読む価値などないのだ。読み返すたびに、感動が深まる。そういった作品こそ、小説作品に求められる価値だろう。(続く)