前回の記事に引き続き、「スカルダリネッリ・ツィクルス」について扱う。CD2では残りの10曲が収録されている。5月21日に85歳(!)の誕生日を迎えた現代作曲家ハインツ・ホリガー指揮アンサンブル・モデルン、ニコレのフルート独奏、ロンドン・ヴォイセズによる超絶的なコーラスによる演奏である。

 

 

 

 

 

 

ヘルダーリンその人や彼の詩に触発された音楽や映画は後を絶たない―それだけアーティストたちを魅了する力があるのだろう (下記リンクには関連する作品が列挙されている) 。とりわけシューマンとの類似は大変興味深い―「暁の歌」については前回のブログでも触れた―。特に晩年~死に至る精神的に深い領域において、彼らは兄弟のように結び付いている。シューマンやシューベルトを私淑するホリガーがヘルダーリンに注目するのは「自然の摂理」の如き必然性を帯びてくる。

 

 

 

ブラームス/「運命の歌」Op.54。アバド/BPOによるライヴ盤より。

「ヘルダーリン・ツィクルス」の1曲で「ヒュペーリオン」に基づく。

 

ディーペンブロック/「夜に」~ソプラノと管弦楽のための。

ハイティンク指揮のライヴ音源のようだ。独唱はベイカー。

 

ノーノ/弦楽四重奏のための「断片-静寂、ディオティーマへ」。

アルディッティSQの演奏で―。

 

カイヤ・サーリアホ/「Tag des Jahrs(その年のその日)」。混声合唱と

ライヴ・エレクトロニクスによる。ホリガー作品と同じテキストで

冷たい質感も共通している。

 

ルジツカ/「ヘルダーリン交響曲」~第1楽章。トリスタン風の音響。

 

 

 

僕がシューマンと彼の音楽に関心を持ったのは、彼が精神に異常をきたし、狂気に苛まれた中で生まれた音楽と解されていたからである。病理的側面から作品にアプローチする著書もあり、貪るように読んだ覚えがある。 現在では病気と作品を安易に結び付ける解釈は控えられる傾向になったが、単調な旋律や多用される反復、ギクシャクしたリズム、奇妙な明るさなどが当時は特徴として挙げられていたように思う。それらを含め、シューマンの生涯そのものが彼以外歩むことができなかった彼独自の個性で、他では味わえない音楽の源泉となっていたのは間違いないと感じる。ホリガーが演奏したシューマンも直接的に「狂気」を指し示すものではなく、あくまでもスコアに忠実で、忖度も誇張もない等身大のシューマンを僕たちに開示してくれた。以前ホリガーが来日してシューマンの交響曲第1番「春」の見事な演奏を聞かせたあとの、音楽関係者とホリガーとのやり取りがネット情報に残されていた。ホリガーの指揮が素晴らしかったので「次はベートーヴェンはどうですか?」と尋ねたら、「なぜ皆ベートーヴェンって言うんだ!? 君は今シューマンを聴いただろう? シューマンがどれほど素晴らしい作曲家か分からなかったのか? もっとシューマンを評価すべきだ!」と説教されたのだという。ホリガーの「狂気(狂愛)」が感じられる微笑ましい(?)エピソードである。

 

一方、ホリガーが音楽によって描く「スカルダリネッリ」ことヘルダーリンは、作品に取り込まれた現代音楽の技法や奏法もあってか、シューマン以上に狂気の様相を呈した音楽に聞こえる。人肌のあたたかさが失われた音楽、触ると冷たい石像のようだ。ヘルダーリンは四季を詠んでいるのに、聴こえてくるサウンドは常に冬のようにヒンヤリとしている。エランの躍動が奪われ、辛うじて音楽を音楽たらしめる形式と物理的な音の美しさだけが残っている。37~73歳の亡くなる時まで、塔の中で生活していたヘルダーリン。訪ねてきた人々は彼の奇行に戸惑ったといわれている。彼が見ていた風景、彼にしか見えていなかった風景。ホリガーは (僕も、そしておそらくこの音楽を聴く他の誰もが) 今まで見たことがなかったスカルダリネッリの世界を、見事なまでに音楽に変換したのだと思う。そう思わせる「何か」がこの音楽にはあるのだ―僕の贔屓を抜きにしても。そしてつい問いたくなる。どうしてホリガーはこんな音楽が書けるのだろうか。僕はなぜこの音楽に親近感を覚えるのだろうか、と…。

 

シューマン/交響曲第1番「春」~第2楽章。ホリガー盤から。

 

 

 

 

ホリガー/バーゼル室内管弦楽団によるシューベルト「未完成」第1楽章。

これほど恐ろしい演奏はムラヴィンスキー以来だと思う。

 

 

 

 

スカルダネッリ・ツィクルス」(1975-1991)


<本作を構成する素材となる作品>

無伴奏混声合唱のための「四季」(1975/77/78)
小管弦楽のための「スカルダネッリのための練習曲集」(1975-85)

独奏フルート、小管弦楽、テープのための「塔の音楽」(1984)
小管弦楽のための「葬送のオスティナート」(1991)

フルート独奏のための「(t)air(e)」(1978-83)

 

 

第1部
1.「春 II 」  2.「夏のカノン Ⅳ 」  3.「夏 Ⅱ 」  4.「断片」  

5. 「秋 Ⅲ 」(8声部のコラール) 6.「アルファベットの鐘」 7.「冬 III 」
 

第2部
8.「パドルホイール」  9.「夏 III 」  10.「秋 II 」(4声部のコラール)  ]

11.「氷の花」  12.「冬 I 」 13.「迫奏(ストレッタ)」 14.「春 I 」

 

第3部
15.「葬送のオスティナート」 16.「春 III 」 17.「夏 I 」  18.「遠くの音」

19.「テイル」(フルート・ソロ) 20.「余白に」 21.「秋 I 」22.「冬 II 」

 

*CD2では13-22曲が収録

 

 

 

ライナーノーツは多くのホリガー・アルバムと同様、Roman Brotbeckが8ページにわたり執筆している (最近ではシューベルト/交響曲全集にも寄稿していた)。日本語訳がなく、Googleレンズで翻訳し内容を確認した程度なので、正確に読み取ることができたとは限らないが、彼はこのツィクルスが「知識のある音楽愛好家は、この作曲家(ホリガー)が独自の解釈をとったのではないかと疑うかもしれない」ほど非常に明快かつ単純に作曲されているという。形式においてシンプルなカノンを多用しているのは、スカルダネッリ時代の後期ヘルダーリンの素朴なテキストに沿った結果なのだろうか。さらに「セクション全体が、絶え間なく繰り返される少数のコードまたは一連の音符で構成され」「セクション間の変更は非常にわずかであるため、同じ音楽を聞いているように思えるほどだ」とも述べる―その感覚はわからないでもない。実際に聴いても、ツィクルス全体に同じ雰囲気が保たれ、静謐感が(現代音楽にありがちな)突如のトゥッティやフォルティシモによって遮られることはないのである。そして興味深いことにBrotbeck氏も(僕と同じように)「この作品が2時間半も夢中で聴かせる理由は何でしょうか?」と問いかけ、彼なりの意見を述べている。それはこのツィクルス内で起きている「現象」のようなものであり、「音楽構造からエネルギーを奪うために最大限の努力が払われる一方で、ほとんど暴力的な執拗さで最小限のエネルギーが絞り出されている」という。氏は物理学者の二コラ・ステラを取り上げ、治療器などで用いられる「超短波エネルギー」を例えに出す。なるほど表面の皮膚温度は冷たくとも、身体の深部から温めることができる。これらを僕なりにまとめてみるなら―「スカルダネッリ・ツィクルス」での音楽は全体的に冷気を漂わせ、凍結した印象すら与えるが、それは意図して音楽から熱量、つまりエネルギーが取り除かれているからであり、過去の音楽様式(CD1ではカノンの採用やバッハのコラールの引用があった。CD2では引き続きカノンの使用に加え、フルート・ソロによる楽曲やモーツァルト!からの引用が見られる)を用いることにより、僅かに残された熱量が捻出され、音楽に最小限の闊達さが聞かれる―ということだろうか。限りなく無表情に近い音楽なのに、心の底から魅了する音楽が存在しているというのは驚きである。さらに言うなら、「静」のCD1に比べ、CD2で聞かれる音楽は「動」とはいかないまでも、サウンドの表情が少し豊かな感じがするのが興味深い。特殊な技法による音色が関係しているのかもしれない。

 

また、合唱パートやフルートソロでの非生理的な演奏 (肺の空気を空にして歌ったり、口を閉じたまま歌う、発声せず口の動きだけで歌うなど) を要求しているこの作品にBrotbeck氏は「深刻な社会批判」を読み取っている―つまり「声にならない声を発する人々に注目させている」と、僕は受け止めた―。通常とは異なる言語能力を持つ人々―ヘルダーリンもそうであろうか。晩年のシューマンも。そして、彼らの持つ「自閉症的」性質が「コミュニケーションが窒息するまで増大した社会において、おそらく言語を発達させ、正当化する唯一の手段」なのだという。正直そこまでの意味を僕は音楽に見出ださないが、1つの見識として受け止めたいと思う。

 

 

 

 

CD2は第13曲目「迫奏(ストレッタ)」から始まる。小オーケストラと6人の女声のための音楽だが、ヴォリュームを上げないと細部が聞き取れないほどのか細い音量で音の綾が示される―よって声楽パートも気付かないほどの存在に抑えられている。解説によれば、CD1の3曲目に登場した「夏 Ⅱ 」と構成の面で関連があるようだが、そこまで判別できなかった。大まかに見て3部構成になっているようである。

 

14曲目は「春 I 」。ここではしっかり合唱が登場するが、前述の通り、肺の中の空気をほとんど空にして発声したり、口を閉じて歌ったり、「歌ったもの(もう歌えなくなったもの)を自分の中に吸い戻すかのように息を吸いながら歌うよう指示される」のである。歌詞は新たな春の喜びを謳歌し、未来の日々への幸せな兆しを歌っているのに、である―歌詞の最後ではそっと悲しみに言及される―。面白いのは日付で「1648年3月3日」とある。 ヘルダーリンは1770年生まれ。ここで彼は前世紀の日付を記したり、未来の世紀の日付を用いたりして時空を超えているのである。

 

 

 


第15曲目からツィクルス第3部となる。「葬送のオスティナート」は2部構成のパッサカリアで、解説によれば「モーツァルト/フリーメーソンのための葬送音楽 K.477」からの素材が用いられているそうだが、時折登場する金管楽器の和音からおぼろげに確認できる。だが何よりも冒頭から紙をくしゃくしゃさせるノイズや、水が滴る音など、次々と繰り出される正体不明の奇怪なサウンドに耳が持っていかれてしまう―まるでミュージック・コンクレートのようで、おそらく実演の方がより楽しめるだろう。日本初演を観た人にいわせれば、紙を破りクシャクシャにする、紐の先に重りをつけて振り回す、チューブを振り回す、銅鑼の表面を擦る、水に浸けては引き出すといった「演奏」が行われていたそうである。

 

モーツァルトの秘曲?をハーディング/マーラー室内管弦楽団のライヴで。

 

こちらが「葬送のオスティナート」。当盤と同音源と思われる。



16曲目の.「春 III 」は当ツィクルス最初の曲「春 Ⅱ 」と同じコンセプトを持つ。ホモフォニックでわりと普通に聞ける無伴奏合唱曲である。次の曲と対照性を狙ったのかもしれない。

 

その曲は第17曲の「夏 I 」。これまでのナンバーより一層手の込んだものになっている。6~8人の歌手によるカノンだが、複数ある「夏」の詩からそれぞれが1つ選び、自らの心臓の鼓動の速さで歌うのである。ここでの詩たちもヘルダーリンが生まれる前の日付だったり、なんと約100年後の「1941年5月9日」という未来の日付すらある。中ほどで突然叫ばれるテキストにない言葉は「Pallaksh!」で、1841年にヘルダーリンが発した奇妙で理解できない単語だといわれている。エンディングは唇の動きだけとなるので、もちろん音源では確認できない。

 

18曲目の「遠くの音」(Der ferne Klang)は小オーケストラとテープのための作品で、「冬 Ⅲ 」(CD1収録)のインストゥルメンタル・ヴァージョンとされる。とても素敵なタイトルだ―「はるかなる響き」でもよい―。どこかシューマンを思わせるが、同名のオペラをシュレーカーが書いている。僕なんかはどうしてもロマンティックなイメージを抱きそうになるが、ホリガーが用いた「ferne」は音楽の定位しない性質を表している。ここではテープ音源が演奏で用いられるが、日本初演時にはオーケストラ&合唱に置き換えられたそうだ。解説にはヘルダーリンがシラーに当てた手紙の言葉が引用されている (ヘルダーリンからシラーへ :1795年9月4日)。

 

Ich friere und starre in der Winter, der mich umgiebt. So eisern mein Himmel ist, so steinern bin ich.


私は凍りつきながら、自分を取り囲む冬を見つめています。

空が鉄であるように、私は石である。

 

シュレーカー/歌劇「はるかなる響き」~第3幕間奏曲。

 

シューマン/ダヴィット同盟舞曲集~「Wie aus der ferne」。

シューマンも自分のことを「石像」のようだと語っていた。

 

参考までに、CD1で取り上げた「冬 Ⅲ 」を―。

 

 

19曲目はフルート・ソロによる「テイル」(t)air(e)」である。スペルからして合成語だとわかるが、ホリガーによる解説によれば「Taire」は秘密にし、話さないことを指す。スペルの真ん中に位置する「air」はすぐにお分かりのように空気、息であり、歌、アリアでもある。()で括られた「te」はあなたを指すそうだ。ホリガーはフルートを「ヘルダーリンの楽器」と重要な位置付けをしていることからしても、ソロ曲としてツィクルスに取り込まれているのには深い意味がありそうである。1978~83年にかけて作曲されたこの曲は、以前のホリガー作品「Atembogen」やツェランの詩による「Psalm」、ベケットを題材にした室内オペラ「Come and Go」と深い関わりがあるという。特に葬送の意味合いが強い「Atembogen」は「スカルダネッリ・ツィクルス」の基盤となったと考えられている。

 

「四季」における合唱に要求されていたのと同レベルの高い技巧と特殊奏法が「テイル」にも見られるのは、一聴すれば直ぐに認識できる。長い間封じ込められていた呼吸を一気に吐き出すような奏法、語るように吹いたりと、様々である。興味深く感じるのは非人間性に徹したコーラスより、よほど人間的にそして自由を獲得したかのように聞こえることだ。フルートの本来の音色ゆえなのか。スカルダネッリの凍結した音世界で感じられた唯一の「élan vital」(生命の躍動と飛翔)であった。

 

フルート・ソロのための(t)air(e)。演奏の様子にも注目―。

 

ホリガー/「詩編」(Psalm)。「喉を切った賛美歌」と評される。

 

ホリガー/「Atembogen」(1974-75)。ザッハーに献呈。自作品のほか

オネゲルやバルトーク、ストラヴィンスキーの引用が聞かれるという。

 

ホリガー/室内オペラ「Come and Go」(1976-77)より。

 

 

 

20曲目は「余白に」(Ad Marginem)。小オーケストラとテープのための作品でタイトルはパウル・クレーの同名の絵画から採られているという。テープでは可聴領域限界の最高音と最低音が流れているとのこと。その間を弦楽器たちを中心に奇妙なポリフォニーを奏でつつ、最高音と最低音を目指す。誰かが「粘着質的」と評していたが、確かにその通りかもしれない。最後、キリキリ響く電子音がついに限界を超えて消えてゆく。

 

当盤と同音源と思われる。この絵画がクレー作「Ad Marginem」である。

 

 


「スカルダネッリの旅」もあと2曲で終わりである―。

 

第21曲目は「四季」シリーズに戻り、「秋 I 」 となる。テキストはCD1の10曲目の「秋 Ⅱ 」と同じだが、コンセプトは異なり、ソプラノ、アルト、テナー、バスによる混声合唱の4つのグループが歌うが、解説によれば「subharmonics」という拡張発声テクニックが用いられているという。今までで一番「声が出ている」ナンバーである。やはりここでも過去の日付が読まれているが、ホリガーが「制御不能になった話す時計」と表現しているのが面白い。


最後のナンバーは「冬 II 」。前曲と対照的に、うめき声に近い歌となる。テキストは「冬 Ⅲ 」と同じだが、もはや聞き取れるレベルではない。4パートに分かれてコラール・カノンをユニゾンで歌っているそうだが、そう解説されているからそうなのかという他ない。声にならない声、「声」と認識できる限界の声で、喉を押しつぶされたように歌われるこの曲をどう受け止めればよいのだろう―もはや別世界から、シューマン風にいえば「異国」(彼岸) から届いた歌なのだろうか。改めてヘッドホンで聞き直したが、まるで亡霊のようなコーラスと低音域で蠢くドローンに戦慄を感じた。最後の最後、日付を語る声でようやく現実に引き戻された気がする―その日付はいつのものだろう。


全てを聴き終えて、言葉にできない不思議な感覚を味わっている。

この聴後感はクラシック音楽を30年以上聴いてきて初めてかもしれない。
安易にお勧めはできないが、興味あるリスナーはいつか聴いていただきたいと思う。