精神分析学者でもあるフランスの作家ミシェル・シュネデールが1989年に執筆した「シューマン論」。日本では1993年に初版が筑摩書房から出版された。フリードリヒの絵画の表紙が美しく、「黄昏時」の輝きと後に控える暗闇を予感させる。帯に記されている「音楽に秘められた悲劇」という言葉は、誇張ではない。それは読み進めていくうちにじわじわと感じられてくるものでもなく、突如「現実」として有無を言わせず立ちはだかる。シューマンの音楽に通じれば通じるほど、まるで「痛み」のように無視することができないものとなるだろう―。
シュネーデルは以前、「グレン・グールド 孤独のアリア」(日本での初版は1991年)を執筆し、そこではグールドの録音の代表作であるバッハ/ゴルドベルク変奏曲BWV.988の「アリアと30の変奏」の楽曲形式に準じた構成で展開していってたが、この度はフリードリヒ・ヘルダーリン (1770-1843) の詩「記憶の女神」の一節に注目し、プロットを分解、それぞれを1つずつ扱って、シューマンその人とその音楽にアプローチしてゆくのだ。
試し弾きするグールド。当然ボツになったテイクだ。音楽が解体され、崩壊
すれすれで進む感覚がある。「破壊と創造」は表裏一体なのだ、と思う。
「ドイツの詩人」というと、すぐに思い浮かぶのはゲーテだ。ご当地ドイツでもその評価は変わらないらしい。「ファウスト」が超有名だからといって、隅々まで精通している方々は多くはないと思うが(僕の周りにいないだけだろうか)、ドイツにおいてはもはや古典扱いのようだ。一方ヘルダーリンはというと、「孤高」という便利で魅力的に見える言葉で片付けられてしまう傾向もあるらしい。でもそれゆえか、特殊な評価を受けるらしく、たとえばゲーテとの比較で、彼の詩が及びがたい高さ,広さを感じさせるのに対し、ヘルダーリンの詩は小さく、狭いが、比類のない内的な充溢の存在、いわば「貧しさの富」の栄光があり、その側から見ればゲーテは「最も豊かな者の貧しさ」が見て取れる、という識者の意見があるほどだ。哲学者カール・ヤスパースは、ゲーテの詩は他の詩人の作品と比較することができるが、ヘルダーリンの詩は,他のいかなる作品とも比較することができないとも述べている。これらの評価はシューマンとその音楽にそのまま当てはまる、と感じるのは僕だけだろうか。
以前紹介したブログ記事の中で、ハインツ・ホリガーの自作自演盤があった。シューマンに格別の想いを抱いている彼は、晩年のピアノ曲「暁の歌」Op.133に基づくオーケストラ作品を1987年作曲したのだが、その際に引用されているテクストの1つがヘルダーリンの詩だったのだ。そもそもオリジナルの「暁の歌」のスコアには「ディオティマに」と記されていたという―それはヘルダーリンにとっての「運命の人」の名であった―。精神に異常をきたしたため、代表作「ヒュペーリオン」の熱心な読者の家に引き取られ、現在「ヘルダーリン塔」として知られる半円状の塔のカタチをした部分が印象的な家の一室で、半生を過ごすことになったヘルダーリン。その「結末」はシューマンのそれと酷似する。両者を扱ったのはホリガーの見識かもしれないが、シュネデールのそれとも酷似する―。
シュネデールが注目した「記憶の女神」の一節はこうだ―。
「わたしたちはひとつの徴(しるし)だ /もはや意味はなく /
苦痛もなく / わたしたちは在る /
そしてほとんど失ってしまった /言語を /異国において 」
この7つのフレーズをきっかけにしてシューマンの「本質」にメスを切り込んでゆく。
シューマンがライン川に身を投じた1854年2月27日の出来事から「序文」が始まる。
(「2月」はシューマンの精神にとって「核」となる月だったとシュネデールは分析する。彼の抑鬱状態の発端となったとされる姉エミーリエの自殺は1826年2月のことであった)
彼は船の渡し守にまるで「渡し賃」のように「絹のハンカチ」を差し出し、川の手摺に向かって駆け出し、飛び越えてしまう―。幸い彼は救助されたが、そこには本来「ある」べきものがなかった―クララとの結婚指輪である。彼の没後クララは手紙でこのような文面を見つける―。
「愛するクララ、指輪はライン河に捨てに行きます。お願いだから、君もそうしてください。そうすれば指輪どおしでまた結ばれるでしょう 」
シュネデールはシューマンのピアノ音楽はその「絹のハンカチ」のようだ、と述べる。僕ならその「指輪」たちのようだ、と述べることだろう。どちらもさほど意味は変わらない。
シューマンの音楽にはそんな決して自分のものにはならないような領域、僕たちの手が離れたところで結びつくような、不思議な感覚が備わっているのだ。決して手中に収めることができないものを得るために、僕たちは「ハンカチ」を差し出す。「それ」は僕たちにとって何を意味するのだろうか―?
第1章「わたしたちはひとつの徴だ」―。
ここで特に注目できるのは晩年のシューマンが友人のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに書き送った手紙である。1854年2月7日付の手紙だ(またしても「2月」。そして僕の誕生月であり、2月7日は僕の誕生日の翌日だ)。そこでシューマンはこう語る。
「…ずっと君には何の連絡をしませんでしたが、想像のなかでは何度も君の元を訪ねてみました。この手紙の行間には目に見えない文字が書いてあって、もっと後になれば君にも見えるようになるでしょう…暗闇が近づいてきます。…音楽は今やすっかり沈黙してしまいます。少なくとも外側の世界ではそうなのです 」
もはや生きている世界が違う―。そして見えるものはもはや意味を持たず、隠され、秘められたところに真実がようやく見える、といった印象だ。「目に見えない文字」という言葉はシューマン/「謝肉祭」の「スフィンクス」や「フモレスケ」のスコア中段に記載された「演奏されない音符」たちを思い起こす―。「もっと後になれば」とはいつのことだろうか?「暗闇が近づいて」くることと関わりがあるのだろうか?その「暗闇」とは一体何なのだろうか―?
1854年2月26日、シューマンは「天使」が口添えしたという「天使の主題による変奏曲」を書き上げる。そして自ら入院したいと告げるである。まだ「正気」を保っているうちに―。
この遺作の作品にシュネデールは「狂気」を見出す。作曲家自らが「記号」(すなわち「徴」)と化した狂気である。あらゆる音楽言語の修辞法の彼方を超え、世界の外側に突き抜け、音楽の彼方へ行ってしまったような語り口の作品、と評する。
ソコロフはソット・ヴォ―チェで「内面的に」(Inning)に奏でている。
最初のシューマン伝記を記したヴァジエレフスキは1855年、精神病院に収容されたシューマンが即興でピアノを鳴らしている姿を目撃する。
「…魂が引き裂かれるような光景だった。…それはまるで傷ついて壊れてしまった精神からやってくるようだった。ばねは壊れてしまったのに、痙攣にひきつりながらも絶えず動き続けようとする機械のようなものだった 」
音楽の要素が解体されてしまい、メロディとリズムの結合が不完全なものとなる。ただ「その在りか」を示すだけの「記号」となってしまったのだ、と思う―。
第2章「もはや意味はなく」&第3章「苦痛もなく」―。
ここでは興味深いことに「苦しみ」と「痛み」の言語的特徴とその相違から、シューマンの音楽に迫っている。精神分析医らしい切り口ではある。内容的には、続く第3章「苦痛もなく」と強い関連を感じるので、ここでは両章を扱ってみたい。ちなみにこのチャプターでは前章の倍の20ページほどが用いられている。フランス語の「苦しみ」(souffrance)と「痛み」(douleur)は精神科医の間ではさほど違いのないものとして扱われているらしい。しかしシュネデールはここで、精神分析学の権威であるJ.B.ポンタリスの考えを受け、独自に深めた見解を示しているのだという。「苦しみ」や「苦悩」には大抵「対象」が存在するという。別な言い方をすれば「存在理由」があるともいえるかもしれない。ときに「苦しみ」は当人の成長を促すことすらある。成功や目標達成のために避けられない要素であることも少なくない。だからあえて人は「苦しみ」を担おうとし、「苦悩」を受容するのだ。
では「痛み」はどうか―「痛み」には「対象」が存在しないのだ、という。「理由」がないのだ。なるほど、原因はあるだろう。しかし「苦しみ」の場合のような意味は存在しないのである。「痛み」はただ実在する。「石」や「石像」のように―。そして第3者に受け渡すことができない類いのものである。苦しみは他者と共有できる。痛みはそうではない。そして「痛み」を最も体現しているのがシューマンの音楽である。彼の音楽においては「苦悩」は「ペルソナ」であり、「痛み」へ通じる入口のようなものかもしれない。
「痛み」というと思いだすことがある―「ラジオ・パーソナリティ」であり、真の「芸人」である日高晤郎(1944- 2018)のことだ。以前よく聞いていたSTVラジオの「日高晤郎ショー」。毎週土曜日、9時間にわたってオンエアされていた長寿番組だった。偶然耳にして、その人柄と巧みな話術を楽しんだ。いつの番組のことだったか、体調不良で「痛み」を感じていたときに、彼はその「痛み」を安易に取り除くことをせず、「痛み」と(あえて)向き合っていた、と言っていたのを覚えている。「痛みの所在に意識を向け、そこに思考を集中させる」―この「痛み」の分析に僕はえらく共感した(その感覚は「普通」ではないかもしれないが、そんなことはどうでもよい)。精神の強靭さを感じたし、どこまでそんなことができるのだろう、と興味を持ったのだ。まさかこのタイミングで思い出すとは思わなかった―。
いつも番組の最後に歌う「街の灯り」。図らずもこの回が最後になり、3月
24日のラジオ収録が事実上最期となった。何年かぶりに拝聴した。
懐かしさ、そして切なさで胸がいっぱいになる―。
このように痛みに立ち向かう者もいれば、「痛み」に飲み込まれ、もはや何も感じなくなってしまう者もいる。臨終の床にあって、苦悶のうちにいたフロイトの言葉が引用される―。
「いまは拷問以外の何物でもなくなっており、もはや意味を失っている 」
シューマンの「痛み」は「虚無」と結びつき、それは音楽を彩ってしまう。ある種の取っつきにくさや晦渋な雰囲気に「それ」は示されているかもしれない。
シュネデールはシューマンの素晴らしい演奏家は「解釈をしない」人々であると述べる。シューマンに「解釈されるままになる」人、ともいえるだろう。まるで別の国に行ったときのような「ぎこちなさ」を感じながら演奏することになる。
「苦痛もなく」という言葉は一見良さそうに思える。昔読んだ新約聖書巻末の「黙示録」にもそんな言葉があったのを思い出す(黙示録21:4)。それは「天国」での状態だ、と一般には解釈されるようだ。音楽には「苦痛」をなくすまでいかなくとも、和らげる作用があるだろうか―?モルヒネのような、脳内麻薬が放出されているようにも感じる。音楽から感じるエクスタシーの根源はそれかもしれない。しかしシューマンにとってはそうではなかったようだ―。
「ここしばらく音楽を聞くと我慢できなくなる。まるで神経がナイフによって切断されるような気がする 」
日本語において「苦しみ」と「痛み」を合わせた言葉である「苦痛」は、やがてシューマンの精神を打ち負かしてしまう―。
「白状するならば、もう祈ることなどできない。苦悩に打ち負かされてしまった。そのせいで無感覚になってしまった 」
ヘルダーリンは1795年、シラーへの手紙でこう述べる。
「わたしは凍え、わたしを取り巻く冬と固く一体になる。
わが空は鉄であり、わたしは石にひとしい」
シュネデールは両者の共通した状態について「苦しみの不在」という言葉を当てている。狂気は、どうやら人を無感覚に陥れるらしい。「苦しみ」や「痛み」が自覚できている、というのは身体的には(場合によっては精神的にも)「正常」なことなのだ、という当然のことを改めて覚えさせられる。
第4章は「わたしたちは在る」―。
さきほどの発言を受けるなら、「苦しみ」や「痛み」こそ「自分」が生きていることを確認させるものなのかもしれない。例えば、僕は具体的に「リストカット」する人々の心境はわからないが、ある種の「快感」や自らへの「罰」に加えて、上記のような感覚もあるのではないか、と想像している。
ここでもシュネデールは「苦しむ」(souffriri)と「痛み」(douleur)とを比較している。フランス語の「苦しむ」は、痛いと思うと同時に苦痛を受け止める、耐え忍ぶ意味合いも含まれるという。それに対し、「痛み」はまったく異なる。冒頭のフランス語の由来となっている言葉「dal」(「dar」)は、砕く、引き裂くという意味があり、単純に「打撃」「傷」を意味するようだ。「苦しみ」が総体的であるのに対して、「痛み」は局所的で肉体的ですらあるのだ(もちろん心的にも)。
シューマンも「痛み」に向き合ったらしい文面が手紙の中に見いだせる―。
「もし自分の痛みがどのようなものか聞かれたとしても、明確に答えは自分にはできない。痛みそのものだと思うのだが、それ以上に詳しく語ることなどはできない 」
この言葉はシューマンの音楽そのものにも当てはまる。口ごもるような音楽。もしかすると「苦しみ」の方が音楽にしやすいのかもしれない。シュネデールはショパンやシューベルトの苦しみを例に挙げている。そしてシューマンの音楽については、近づき、眠り込み、自分を探し、自分を避け、自分に夢中になり、悲しい気分に陥り、飛び立ち、離れて行き、打ち明け、思い悩み、身を委ね、興奮状態に陥り、退屈し、回想に浸り、死んでゆく―と述べている。
第5章「そしてほとんど失ってしまった」―。
再び20ページ以上割いているチャプターだが、大部分がシューマンのピアノ曲の分析となっている。具体的にここでは述べないが、シュネデールは主に3つの特徴に注目している―。
1つ目は「かき消される」ということ。
消えてゆく音を偏愛したシューマン。例えば、初期の作品「蝶々(パピヨン)」の初版には、ジャン・パウル/「生意気盛り」の末尾の言葉が引用されていた。
「聞いてごらんよ。遠くでヴルトは、逃れ去る音を捕まえようと夢中になって耳を傾けている。」
「謝肉祭」についてもシューマンはクララにこう書き送っている。
「謝肉祭では、後からやってくる曲が次々と前の曲を消してしまいます。誰もがすぐにこんな状態に馴れるだろうとは到底思われません 」
2つ目は「音楽的時間」に関すること。
右手と左手のリズムの「ずれ」や子供のような「極端」なテンポ設定や指示などが挙げられている。特に「フモール」についての指示を「時間的観点」から分析を進めている(この分析は後のピアノ曲をブログで取り上げるときに改めて扱いたいと思う)。
3つ目の特徴は「和声」に関すること。
シューマン作品における調性や転調の「極意」のようなものが少し取り上げられている。
最後の4つ目は作品形式そのものに関係する要素である。
特に特徴的なのは、「長い前奏」や「後奏」である(特に後者は現代作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの数多くの作品を僕に思い起こさせる)。
パンゼラ&コルトーによる「詩人の恋」。1935年盤。極めてロマンティック
な演奏だ。この作品では特にピアノが伴奏を超えてその存在感が際立ち、
随所にピアノによる長い後奏も聞かれる。
シルヴェストロフ/「ポストリュード」第2番~ヴァイオリン・ソロのための。
以前ブログで扱ったことがある楽曲。追憶の響きがメインとなっている。
ヘルダーリンは「ほとんど」失ってしまった、と記した。では、シューマンにとって「残されたもの」とは一体何だったのであろうか―?それは彼の内部で響く「音」であったに違いない。その「幻聴」は晩年のシューマンが聞いていた音、ドイツ語表記では「C音」、すなわち、かけがえのない存在だったはずの愛する人のモノグラムであった。
第6章は「言語を」―。
もはや意味もなく、苦しみもない、ほとんど失われてしまった状態にさらに加わる要素がある。それは「言語」だ。だからという訳ではないだろうが、「30ページ」というこの本最大のヴォリュームが与えられている。ここでは、第5章でも触れられた「フモール」について再び述べられている。その語の意味やその指示がなされた音楽、また作品そのものの名前となった「フモレスケ」などについてだ。ドイツ語「フモール」、英語の「ユーモア」は単に「愉快な」意味合いがあるわけではなく、もっと複雑で矛盾した感情が関係している、とだけ、ここでは述べるに留めておきたいと思う。シュネデールは「クライスレリアーナ」、「ダヴィッド同盟舞曲集」、「フモレスケ」の3作品に注目し、「アイロニー」「ユーモア」「謎」の観点で分析している。
シューマンの音楽にはつねに「行間」に秘密のメッセージが隠されている、とシュネデールは述べる。第1章で引用されたヨアヒムへの手紙の内容が思い出される。「もっと後になれば明らかになるだろう」というあの言葉である。
1838年、シューマンはクララにこう書き送る―。
「愛するクララ、ぼくの秘密のことでいたずらに苦しんだりはしないでほしい。ここにはぼくにとっての苦悩のひそやかな歴史が見つかるのです。」
精神状態がひどくなった晩年においてはもはやシューマンは言葉すら明瞭に語れなくなっていた。ほとんどコミュニケーションが取れない状態だったという。きっと誰が誰かも識別できていなかったかもしれない。言語が封じられ、謎が残る―。僕たちには「音楽」が残っている。
シューマンの音楽は僕たちに何を「語って」くれるのだろうかー?
僕たちは何を「キャッチ」できるのだろう―。
最後の章第7章は「異国において」―。
シューマンの作品にピアノ曲が多い、あるいはピアノと関わる作品が多いのには理由があると思う。時期的なものもあるだろうが、「ピアノ」が持つ性質が関係していると筆者は述べる。
つまり「孤独」の楽器であるということだ。「孤独」であることは「主体性」(主観性)と結びつき、「密やかさ」とも繋がる。そしてピアノで使用される音域は「中音域」、すなわち「語る声」に属する音域であるという指摘がきわめて興味深い―。そしてその音域は「中性的」な声、つまり「子供」の声という見方も可能だ。密やかに、小声で自分自身に語りかける性質の音楽―。
そういえば、シューマンの音楽は一人で聞くとより良く心に染みわたってくる。
シューマンは若い頃、「ロベール・ド・ラ・ミュルド」というペンネームで「郷愁」という詩を書いた。
その一部にはこうある―。
「ずっと遠くの場所に行きたいと思っている。愛する娘がぼくを待っていてくれる場所だ。物言わぬ星々よ、遠くでぼくのために合図をしておくれ。そしてぼくに代わって愛する娘によろしく挨拶をしておくれ。」
姉の自殺からしばらくして書いた詩。「ずっと遠く」「娘」「待っている場所」「遠くで」etc…。
「遠いところ」(「Ferne」)はシューマン作品のキーワードの1つであることは、今までのブログで述べてきたことだ。以前のブログでは「ダヴィッド同盟舞曲集」の中でも登場していた。ちなみにこの曲集には「内面的に」(「Innig」)という実に意味深い指示も見られる。「場所」とは「異国」のことだろうか―。「異郷」ともいえるだろう。「子供の情景」や「リーダークライス」の数曲にその言葉を含んだタイトルが示されているのにも注目できる。
シューマンはどこかへ行ってしまった―。ただ、もはや早い段階から既に「旅立っていた」と言ってもいいのかも知れない。もう「遠く」へ行ってしまっていた。「シューマン」という名前も自分に似たもうひとりの音楽家に過ぎなかったのだ。
彼は「絹のハンカチ」を渡すことができたのであろうか―。
最晩年、バッハのコラールに和声を施すことで「救い主」の手に、その魂は引き渡されたのであろうか―。
僕がシューマンの音楽を演奏することが今後あるのかどうかはわからない。もし僕の命が余命1か月と宣告されれば、テクニックの有無は関係なく、「暁の歌」をたどたどしく弾くようになるかもしれない。そこまでいかなくとも、シューマンの音楽にこれからも接してゆくとき、この「シューマン論」を僕の心の糧としてゆくことだろう。
アンドレアス・シュタイアーによる「暁の歌」。1837年製エラートによる。
「わが息子ヴィーラントへ」と、本の冒頭には示されている。
PS:ブログを挙げた本日7月29日はシューマンの165回目の命日であったことに先ほど気づかされた―。とても偶然とは思えなかった。「不思議な一致」と、とても驚いている。