現代作曲家ハインツ・ホリガーによる畢生の大作「スカルダネッリ・ツィクルス」の全曲盤。自作品の多くをレコーディングしているECMレーベルからのリリース。1991年録音。ホリガー自らアンサンブル・モデルンを指揮、作品の要となる合唱団にはロンドン・ヴォイシズ (合唱指揮はテリー・エドワーズ) 、またフルート独奏にオーレル・ニコレを起用している。CD2枚組 (全22曲) となっているので、この度はCD1 (12曲) を扱う。7年ほど前に日本初演がなされただけあって、ネット情報も豊富であり、当記事ではそれらを参考に執筆を試みたい―なお、CD2を扱う次回記事においては、ライナーノーツの情報を基に記事を組み立てたいと思う―。

 

 

 

 

 

 

スカルダネッリ・ツィクルス」(1975-1991)~フリードリヒ・ヘルダーリン (1770-1843) の詩による、独奏フルート、小管弦楽、混声合唱のための。

 

「ツィクルス」(連作) を構成する素材となった作品は以下の通りである―。

無伴奏混声合唱のための「四季」(1975/77/78)
小管弦楽のための「スカルダネッリのための練習曲集」(1975-85)

独奏フルート、小管弦楽、テープのための「塔の音楽」(1984)
小管弦楽のための「葬送のオスティナート」(1991)

フルート独奏のための「(t)air(e) 」(1978-83)


 

晩年のヘルダーリンが用いていたペンネーム「スカルダネッリ」―その意味は未だに不明である―。彼は精神に異常をきたしていた37歳の頃から73歳で没するまで、熱心な支持者だったE.F.ツィンマー家の塔に籠っていたという。その時期に書き綴られた詩をテキストにした合唱曲と、インスピレーションを受けて書かれた作品たちが独自に組み合わされ、2時間半もの大作としてまとめられている。このように既存の作品が進化してゆく「Work in progress」の書法は、明らかに作曲家ホリガーの師の1人、ピエール・ブーレーズのそれを彷彿とさせる (因みにもう1人の師はシャーンドル・ヴェレシュである) 。それでも2014年のルツェルン音楽祭で演奏された改訂版が現在まで決定稿となっているようである―日本初演もそのヴァージョンであろう。当録音盤とどう異なるのか興味が湧くというものだ。

 

 

楽曲構成はこちら―。

 

第1部
1.「春 II 」  2.「夏のカノン Ⅳ 」  3.「夏 Ⅱ 」  4.「断片」  5.「秋 Ⅲ 」(8声部のコラール) 

6.「アルファベットの鐘」 7.「冬 III 」
 

第2部
8.「パドルホイール」  9.「夏 III 」 10.「秋 II 」(4声部のコラール)  11.「氷の花」 

12.「冬 I 」  13.「迫奏(ストレッタ)」  14.「春 I 」

 

第3部
15.「葬送のオスティナート」 16.「春 III 」 17.「夏 I 」  18.「遠くの音」  

19.「テイル」(フルート・ソロ)  20.「余白に」  21.「秋 I 」 22.「冬 II 」

 

* CD1では前半12曲が収録
 

 

このように区分されている正確な理由は不明だが、「季節」が3巡しているのは見てとれる。それぞれの「四季」はⅠ~Ⅲまであるが、同じ歌詞が用いられているナンバーもあったり(「夏 Ⅱ&Ⅲ」「冬 Ⅱ&Ⅲ」「秋 Ⅰ&Ⅱ」)、3つの詩が含まれているものもある(「夏 Ⅰ」)。それらは挿入されている器楽パートとともに一連の音楽的流れを生み出しているように感じられるが、同時にランダムにも聴こえる。特殊奏法や非楽器の音をふんだんに盛り込み、人声を用いながら非人間的なアプローチが要求された謎の多い音楽。未知の作品に向き合った時、どうしても既知の音楽から共通項を探りたくなるのが人の常だが、サスペンスな状況にあまり警戒することなく、ホリガーが用意した音楽の流れに身も心も委ね、刻々と変化するサウンドを楽しむのが良さそうである―実際、僕にとっては最高のバック・グラウンド・ミュージックともなった―。ホリガーの作曲した音楽は (どれも) 聴く人を選ぶ作品かもしれない。でもそのような音楽が存在していても構わないはずである。

 

 

 

 

ホリガー/「暁の歌」より。ヘルダーリンとシューマンとを結びつけている。

シューマニアーナの彼らしいアイディアだ。

 

ホリガーの師ブーレーズ/「プリ・スロン・プリ」~マラルメによる即興曲Ⅰ。

こちらもまたWork in progressの作品。スタンスに共通性を感じる。

 

2014年ルツェルン音楽祭での様子。ブーレーズが「明」であれば、

明らかにホリガーは「暗」「静」である。

 

 

 

 
 

2017年5月25日、日本初演となった「スカルダネッリ・ツィクルス」。難解な現代音楽ながら、当時大変話題になったという。そのおかげか、ネットでは実に多くの関連記事やツイート等が溢れ、僕もその恩恵を受けることができた。

 

 

このコンサートのプログラムは日本の現代作曲家である野平一郎氏が用意し、自身で寄稿もされ、インタビューにも応えられている(ホリガーによる作品解説がプログラムノートに記されていたそうであるが、当盤のライナーノーツに記載されたものと同じかもしれない)。

 

 

音楽の極限をもとめて

 

私は彼のあらゆるCDと関連物を集めるホリガーフリークで、この作品は作曲家ホリガーの軌跡を考えた時、非常に重要な位置にあり、同時に戦後の現代音楽においても特に重要な音楽のひとつだと思っています。 ヘルダーリンの詩は四季をうたっているけれど、その世界は抑揚もなければ自然を諦観しているかのようで、以前パリで「まだ人間も存在しないエデンの園のような」という解説を読んで、私も同じ印象を持ちました。いわば虚無の音楽、絶対に音楽的にはクライマックスに至ることはないけれども、表現を限界まで引き出す、「極限の音楽」がそこにはあります。ホリガーは何より、詩と音楽の連携を、詩人の伝記というか生活全体を取り込んで作曲しているのです。だからこそ一つの全体像が聞こえてくるし、その中で音色的に違う、表現が違うものが並んでいる。人間が諦観し、精神を病んで37年間もテュービンゲンの塔に籠り生きた感じも全体から受けとれます。しかも同時に美しい。澄んだ、透明な響きがするのです。20曲近いそれぞれの曲が多彩で、その多面性がとても魅力的だし、持てる作曲のパレットをつぎ込んだ、一つ一つの響きがホリガーの総決算のように感じられるのです。

 

―野平一郎(作曲家)

 

 

 

また、音楽評論家の片山杜秀氏のコメントも詩的で素晴らしい―。

 

いつまでも続く四季の巡りを、しかもちっとも劇的でなく極めて淡々と、どこかの無名の人が平凡な言葉を連ねて歌うようなものばかり。これほど落ち着いた自然に包まれ続け、大気のゆらぎ、風や息の強弱、光や闇の濃淡、そのうつろいを感じ続けていられるような音楽が他にあろうか。

 

 

僕たちが知っている(普段耳にしている)「四季」とは幾分違うようである―そこに四季折々の風情や味わいを感じ取ることはできない。でも(後に評述するが)仏具の「りん」が用いられていたり、フルートの特殊奏法がまるで尺八を思わせたりと、僕たちが自然に感じる「わびさび」に通じる音色が聞かれるのは興味深いと思う。「あたたかさ」とは隔絶した音世界は自然が持つ厳しさを思わせ、同時に狂気の無感覚さ、殺伐とし荒廃した心象世界を思わせる。この音楽から僕が思い当たったのは、森博嗣氏の著作に登場する人物「マガタ・シキ(真賀田四季)」であった―彼女のような「天才」であれば、この音楽を隅々まで理解できるのかもしれない。神の領域まで高みに達した「孤独」を表しているのはこのような音楽なのかもしれない、と夢想するのである。

 

 

 

「実演ならではの楽しみ」というのは確実に存在するもので、合唱団が分散して歌ったり、声を出さず口の動きだけで歌ったり、多種多様な楽器を(普通ではない)特殊な仕方で演奏する姿を観ることができたり、グラスに水を注いでふちを指で擦って音を出す、ホースを振り回す、紙をクシャクシャにして破るなどの光景を目にすることもできる。これらはCD音源だけでは十分に聞き取れないので、まさにライヴ・パフォーマンスの特典といえる。多くのネット記事を通じて知ることができ、感謝に堪えない。

 

アンサンブル・アンテルコンタンポランとの演奏会より。音叉を耳に当てて音程を

確認しながら歌う合唱団の姿を確認できる。微分音が求められているからだ。

 

 

 

 

第1部~1曲目の「春 II 」ではア・カペラでテキストが歌われる。原詩にあるタイトルや結尾にある日付も語られる―日本初演ではホリガー自身が朗読したという。当CDでもそうなのだろうか―。ホリガーの解説によればシンメトリックな構成になっているという。「春の訪れ」を喜んでいる歌詞なのに、一向にその感情が感じられない音楽である。

 

ホリガー/「四季」~「春 Ⅱ」。心象風景は厳冬のままであるかのようだ。

 

 

2曲目の「夏のカノン Ⅳ 」は器楽曲だが、元々は声楽曲の設定だったという。3部構成のカノンが全音、半音、4分音で三重に表現されてゆく。3曲目への導入のようにも感じられる。

 

その3曲目 「夏 Ⅱ 」 で今度は合唱が半音、4分音、8分音によるトリプルカノンを歌う。ホリガーの解説にある「詩人ツェランのいう意味で、同じ音楽は『狭い道へと導かれる』」という言葉をどのように解するべきなのだろうか―福音書が関係しているのであれば、狭き門の向こう側にある狭い道は「生命」に繋がることになるが、果たして…。

 

4曲目「断片」と6曲目「アルファベットの鐘」では「独奏フルート、小管弦楽、テープのための『塔の音楽』」からの抜粋が用いられている。どちらもフルートの存在が印象的で、ようやくメロディめいたフレーズを聴くことができる。特に興味深いのは第6曲。ここで前述の「りん」が登場し―3種類用意されているそうだ―、17のピッチとディレーションでテキスト上のアルファベットを鳴らす、いわば「朗読」する。そのテキストとは、ヘルダーリンが引用したクロプシュトック(マーラーが「復活」で用いたテキストの詩人)の言葉である。

 

Es erschrekt unser Retter, der Todt, leis kömmt er im Gewölke des Schlafs.」

 

(わたしたちを恐怖せしめる救い主なる死は、眠りの雲の中から静かにやって来ます)

 

おりんが慎ましく鳴り響く中、奏でられるフルートには異様な美しさが感じられ、グラスハーモニカと思しきサウンドで閉じられるコーダも実に美しい。その響きを保ったまま、7曲目の「冬」を迎えるのである。

 

独奏フルート、小管弦楽、テープのための「塔の音楽」。ホリガーは

実際にヘルダーリン塔を訪れたのだという。

 

クロプシュトックの詩に基づくマーラー/交響曲第2番「復活」のフィナーレ。

「復活するために私は死ぬのだ」という歌詞だけマーラーが独自に追加。

ホリガーの音楽とは対極に位置する。だが不覚にも涙しそうになった。

 

 

5曲目の「秋 Ⅲ 」は12のパートから成り、4つの楽器と8声部のコラールが組み合わされる。ここでも半音~4分音~8分音が駆使され、D音を中心に声楽が回転するかのようなムーヴメントを聞かせる。解説にはB.A.ツィンマーマンとの関連が示されていたが、残念ながら僕には理解できなかった。だが、中心となった「D」はヘルダーリンがペンネームで用いていたサインの1つであり、(やはり彼が用いていた)「ディオティマ」の頭文字でもある―ちなみに、歌詞の各節はほぼ全てがDのスペルで始まっている―。

 

ホリガー/無伴奏混声合唱曲「四季」~「秋 Ⅲ」。

 

シューマン/「暁の歌」Op.133。記念すべき世界初録音の音源である。

「ディオティマに」と楽譜には記されている―。

 

 

第1部の最後7曲目は「冬 III 」である(ここまで曲は途切れることなく続く)。前曲「アルファベットの鐘」でのグラスハープのサウンドを背景に、薄明を感じさせるような淡くも美しい合唱が4声の鏡像カノンとともに聞かれる―公演では合唱が2階席に移動し、4つにグループ分けして歌ったそうだ(サラウンド効果か)。実際に聴いたらさぞかし美しかったであろう―。これまでになく、どこか透明な美しさと仄かな明るさを感じるのは、Cのメジャーコードに依るところが大きいだろう。この楽曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンが第18曲「遠くの音」で再び現れ、ホリガーがツィクルス全体の構成を精緻に設計していることが伺える。

 

初演時の音源より「冬 Ⅲ」とアナリーズ動画を―。大変ためになる。

 

 

 

 

第2部は8曲目「パドルホイール」から始まる。6音のコード2つが重層的に鳴り響き、深刻で更なる深みへと誘うような楽曲。器楽に4人の女声が加わっているが、注意深く聞かないと気づけないほどのレベルまで存在が薄められている。

 

9曲目は(「春」を飛ばして何故か)「夏 III 」である。7人の女声によるカノンであり、半音のスタッカート、4分音のノン・スタッカート、8分音のテヌートの3種の表現が駆使される。最も興味深いのはテンポで、それぞれの歌い手は自分の心臓の鼓動のテンポで(!)歌うのである。

 

ホリガー/無伴奏混声合唱曲「四季」~「夏 Ⅲ」。

 

 

10曲目は「秋 II 」。12のコードに基づく音がD音をベースに旋回するムーヴメントを持つナンバー。まるで螺旋階段を上る(下る)かのようである。4声部のコラールで器楽とともに歌われるが、テンポ設定が37と73なのはヘルダーリンの晩年と深く関わっている数字だからであることは自明の理である。

 

11曲目は美しいタイトルの「氷の花」 。僕がCD1で(6~7曲とともに)気に入ったナンバーである。氷の中に閉じ込められた一凛の凍結した花のような、冷たい美しさ。7台の弦楽器だけで奏でられた先に見える音楽的光景は実に素晴らしい。しかもこの曲には、意外にもバッハのコラール「来たれ、おお死よ、眠りの兄弟よ」(Komm, o Tod, du Schlafes Bruder)からの引用が聞かれるのである。前述のクロプシュトックの詩とともに、ホリガーが如何にヘルダーリンの精神に接近しているかをまざまざと感じさせる。穏和な印象の彼が、これほど容赦なく精神の暗部に迫るような音楽を作曲しているとは、今更ながら信じがたいことである。

 

カンタータ第56番~第5曲コラール「来たれ、おお死よ、眠りの兄弟よ」。

オルガン独奏で―。

 

2006年ヴァージョンの「氷の花」。冒頭でバッハのコラールが歌われ、

ホリガー作品との関連性が示されている。

 

ツィクルスに収められたヴァージョン。まさかここでバッハに出会えるとは。

まるで「冬の旅」におけるライアーマンのようだ。

 

シューベルト/「冬の旅」~「辻音楽師」。ハーディ・ガーディを伴奏に

ソプラノ歌手が歌っている(それもまた語りに近い)―。

 

 

CD1最後の12曲目は「冬 I 」。原曲の無伴奏合唱に器楽が加わっており、前曲の雰囲気を継承していそうなのに、解説によればバッハのコラールへの「否定」の意味合いで置かれているそうである。それが何を意味しているのかは、やはり謎である。

 

ホリガー/無伴奏混声合唱曲「四季」~「冬 Ⅰ」。

 

このテキストの最終節にはこうある―。

 

Und geistiger das weit gedehnte Leben.

 

(そして生命は遠くに広がり霊性を増してくる)

 

 

 

ホリガーによる、ヘルダーリンを巡る精神の旅は、さらに続く―。

 

 

To be continued 。。。。