僕の誕生日(2月6日)プレゼントCDの2枚目。アントニオ・メネセス&マリア・ジョアン・ピレシュによる、イギリスはウィグモア・ホールでのライヴ・アルバムである (拍手は収録されていない) 。2012年1月録音。シューベルトやブラームスなどの魅力的なプログラム。ほとんどがチェロ&ピアノの演奏だが、ピレシュによるピアノ・ソロも聴ける。実は先月投稿する予定だったが、BOOK・OFFで偶然見つけたプーランクCDの楽しさに惹かれ、そちらの方を先に投稿してしまったのだった。今回満を持しての記事となる―。

 

 

 

 

 

 

 

プログラムは以下の通り―。

 

・シューベルト/アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D821
・ブラームス/3つの間奏曲 Op.117
・メンデルスゾーン/無言歌 ニ長調 Op.109
・ブラームス/チェロ・ソナタ第1番ホ短調 Op.38
・バッハ/パストラーレ ヘ長調 BWV590~第3曲「アリア」
 

 

 

ご覧いただいてお分かりのように、何といっても選曲が良すぎる―しかも、ピレシュによる貴重なブラームスのソロ・ピアノ作品の演奏が聴けるのだ(現時点でこの録音が唯一)。デュオ・コンサートでソロが披露されるのはよくある趣向で、当アルバムの3年後に2人で来日した時もソロの作品がプログラムされていた。

 

マリア・ジョアン・ピリス &アントニオ・メネセス デュオ ...

 

コンサートの再現を試みる―。

 

 

 コレクション中、ピレシュのアルバムは今回で3種目だが、共演の場合とは異なり、ソロでは意外なほど大胆な解釈を聞かせるのが興味深い。ブラームス作品は彼女にとって (いや、どんなピアニストにとっても) 決して弾きやすいはずはないが、Op.117では冒頭からピアニッシモで優しさを込めて弾き始め、個性を刻印する―あまりに静かに始まったので冒頭の数音を何度か聞き逃したほどだ―。重厚な和音も柔らかさを失わない。唯一、第3番嬰ハ短調のみが、彼女にしては力のこもったデモーニッシュな演奏となっている。

 

 ピレシュはヤマハのピアノを好んでいるそうで、当アルバムでも「Yamaha CFX Concert Grand」を弾いている。それでも彼女はホールの特性により (音量が大きく華やかな) スタインウェイと弾き分けているそうだ―室内楽向けの規模のウィグモア・ホールにはヤマハがちょうど良かったのだろう―。木製のあたたかで軽やかなヤマハのサウンドはピレシュと相性が良さそうだし、世界的にも日本人の調律師は最高レヴェルの仕事をされるとの評判である (当アルバムではKazuto Osato氏が調律を担当)。そのかいもあってか、全編でとても細やかなピアニズムを拝聴できる―それも、真心から生じた極めてナチュラルな奏楽である。

 

 

 

 

そんなピレシュと音楽を分かち合っているこの度のパートナーが、「ボザール・トリオ」のチェリスト、アントニオ・メネセスである。この世界最長の活動記録を持ったピアノ三重奏団の演奏には幾度となく親しんできたが、メネセス自身の演奏を聴くのは今回が初めてであった―調べたら、ムター&カラヤン/BPOとブラームスの「ドッペル」を録音していた―。落ち着きをはらったノーブルな音色。朗々と楽器を鳴らすのではなく、軽めの響きながら「音楽そのものが語る」イメージで、洞察力のある演奏を聞かせてくれる。ピレシュとも音楽性のベクトルが無理なく一致しているように思われる (共演の多いデュメイよりも) 。室内楽の豊かな経験が生かされているからだろう、お互いの間には親密さと信頼が音楽とともに感じられる。冒頭シューベルトのソナタでは、ギター的要素を含む「アルペジョーネ」の特性を盛り込んだスコアを見事に音化していて、新鮮な発見だった―特に第2楽章が最高の名演であることは聴く前から保証されていたようなものだが、まさに「音楽を聴く喜びここに極まる」素晴らしいものだった―。劇性の強いブラームスのソナタでは意外にもピレシュのピアノの方に充実感を覚えた―ソロの時よりも。メネセスは過剰なドラマ性を表出することなく、全体のバランスを心がけていたように聞こえた。

 

メネセスと同郷の作曲家ヴィラ=ロボス/ブラジル風バッハ第5番~アリアと

シューベルト/アルペジョーネ・ソナタ~第1楽章をギター伴奏で―。

 

 

 

コンサート会場となったロンドンの「ウィグモア・ホール」についても触れておかなくてはなるまい。ライナーノーツにはワーグナーが「ドイツの家庭生活の中心から生まれた器楽音楽」と定義付けた「ハウスムジーク」のことが述べられているが、552席規模のウィグモア・ホールはまさにその音楽に相応しい空間だといえる。1901年に (ピアノ・メーカーの) ベヒシュタインによって建造されて以来、ソロ、室内楽、声楽の各ジャンルのコンサートが頻繁に行われてきた。ウィグモア・ホールでのコンサートに特化したシリーズのCDやYouTubeチャンネルもあり、ホール内の落ち着いた佇まいと世界有数の優れた音響を楽しめる。ビレシュは1988年に伴奏者としてこのホールでのデビューを飾り、ソロでは1993年からリサイタルを開いていた。当アルバムは2012年1月のデュオ・リサイタル。コンサートは満席のなか行われたという。テレグラフ紙では「(メネセスの)温かく雄弁な控えめな表現はピレスのものと一致しており、私たちに完璧に近いものを与えてくれました」と絶賛されていた。

 

 

 

 

スティーブン・イッサーリスの60歳バースデイ・コンサートより。今は亡き

ルプーとの共演でシューマン/3つのロマンスOp.94を―。

 

ボストリッジ&ドレイクのコンビでシューベルトの歌曲を―。歌われたのは

「さすらい人が月に寄せて」D870。

 

常連(?)のサー・アンドラーシュ・シフによるマスタークラスも行われる。

この度は「シューマン/幻想曲ハ長調Op.17」を―。

 

 

 

 

アルバム1曲目は「シューベルト/アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D821」。彼の室内楽作品の中でも屈指の名作とされるのは、歌心溢れる優美な音楽だからに他ならない―ただ出版された時には既に、作曲家自身も「アルペジョーネ」なる楽器もこの世には存在していなかったというのだから何ともはやである。でもシューベルトによって、そして彼のお陰で「アルペジョーネ」の名は永久に歴史に残ることとなったのだ。

 

ウィーンの著名なギター製作者、ヨハン・ゲオルク・シュタウファーによって発明された「ギターチェロ」ともいうべき、フレット付き6弦のアルペジョーネ。発明された直後の1824年に作曲されたというのだから、シューベルトが流行に飛びついたということなのだろうか(アルペジョーネの演奏に通じていた知人からの依頼という説もある。1824年は「ロザムンデ」や「死と乙女」の弦楽四重奏曲などが作曲され、充実した時期だった)。それとも「guitarre d'amour」(愛のギター)という別名に惹かれたのだろうか―シューベルトはよくギターを演奏していたといわれる。弓弾きできるギターに興味をそそられたのかもしれない。19世紀初めにおける当時の家庭では、ピアノよりもギターの方がはるかに普及していたそうである―。この新しい楽器の将来性を願ったゆえの作曲だったかもしれないが、願いもむなしく当のアルペジョーネは50年と持たなかった。作品だけが生き残ったのは、音楽が魅力的だっただけでなく、初版とともにチェロパートが1871年に出版されたことによる。シューベルト作品で唯一の「チェロ・ソナタ」が演奏可能になったわけだ―きっとブラームスも注目したに違いない―。現代ではチェロやヴィオラによるヴァージョンがメジャーだが、フルートなど他の楽器での演奏も活発だ。また復元されたアルペジョーネによるオリジナル版も存在する(CD化もされている)。

 

こちらはB. Labriqueが2001年に復元したアルペジョーネによる演奏。

ピアノは1827年製のConrad Graf が用いられている―。

 

ヴィオラ&弦楽合奏版による第2楽章。バシュメット/モスクワ・ソロイスツ盤。

 

パユ&ルサージュによるフルート版でフィナーレを―。実に軽やか。

 

 

 

第1楽章「Allegro moderato」冒頭のピアノによる出だしから、立ちどころに心を鷲掴みにされる。「イ短調」という調性が同時期の「ロザムンデ」四重奏曲を思わせる。その優美でメランコリックなメロディはアルペジョーネに受け継がれ、終始穏やかに音楽が進んでゆく。提示部の終わりにはギターを思わせるピツィカートの指示があるが、結構強めに弦をかき鳴らすメネセスとピレシュの強い打鍵で初めて意識できたのが新鮮だった。本来は(アルペジョーネの)6弦全部をピツィカートするわけだが、4弦のみのチェロ&ピアノの演奏で迫力を出すための工夫だったのかもしれない。展開部ではセレナーデの伴奏を思わせるアルペジョが頻出し(アルペジョーネの語源でもある)、楽器の特徴が音楽に刻印されている。

第2楽章のメロディは讃美歌のような素朴な美しさに溢れ、シューベルトの全緩徐楽章の中でも最高の「Adagio」楽章となっている。もちろん安らかさだけではなく、中間部にはふと悲しみが差し込まれる―それもまたシューベルトを聴く(愛する)醍醐味であるのだ。短いカデンツを経て、アタッカでロンド形式のフィナーレ「Allegretto」に接続、穏やかながら動きのあるテーマが聞こえてくる。短調によるハンガリー風の素早いパッセージでは白熱する弦が聴きもの。速弾きはアルペジョーネにはやや不利だが、チェロやヴィオラには適していそうだ。ピツィカートに乗せてメランコリックな旋律がひょっこり顔を出すのもまたシューベルトらしい。「自分の性格の暗い側面を抑えることができなかった」というのはライナーノーツにあった観察だが、作品に明暗のコントラストをつけるという作曲技術以上のものを―即ち、作曲家の偽らざる心情を感じさせてくれる。最後にテーマが絶妙な転調とともにハイポジションで歌われるとき、僕たちの心は慰撫され、満たされるのである。コーダでは弦がつま弾かれて、心地よい余韻とともに終わる―。

 

当盤とは異なるライヴ音源で全曲を―。聴衆ノイズや拍手も聞こえる。

 

 

 

 

アルバム2曲目には、前述のようにピレシュのソロで「ブラームス/3つの間奏曲Op.117」が奏でられる。現コレクションとしては、ポゴレリチ盤に続く2種目―Op.117-2のみソコロフ盤 (2種)―となる。

 

 

事あるごとに挙げている演奏の一つ。つまりは大のお気に入りである。

 

 

もしこの曲集が弾けたなら命は惜しくない―と思えるほど、僕が溺愛している作品だが、演奏技術もピアノもないおかげで無事に命を取り留めている。この度は改めて調査してわかった興味深い点と、いつもの?妄想を列挙したい。

 

Op.117は対位法的な書法が目立ち、とても複雑で、パイの生地のように幾重にも様々な想いが重ねられているような音楽である。「子守歌」に例えられる第1曲からしてもそうだ。ピレシュの演奏はとても優しく、まさに我が子を慈しむかのようである。ただ、中間部になると一気に苦悩の色が濃厚になる―まるで予感のように。ナンバーが進む (第2曲変ロ短調→第3曲嬰ハ短調) につれ、悲哀の度は増し、奈落の底へと降りてゆく。ブラームスが遺書をしたためていた時期と重なる、というのも納得である。伝記作家の1人は「完全に個人的かつ主観的」な作品であり「物思いにふけり、優美でありながら諦観に満ちた哀歌のような響き」を醸し出していると評している。

 

この曲に関連して「わが苦悩の子守歌」というブラームスの言葉がよく知られているが、僕は変ホ長調の第1曲にのみ当てはまる、と誤解していた―ブラームスはOp.117全3曲に対して述べていたのだった。また第1曲にはスコットランドの詩が掲げられているが、ある情報筋によると、主旋律に合わせて詩を歌うことが可能なのだそうだ。この作品にはリート的な一面がある、というわけだ (この指摘が次の曲への伏線となっているとは!) 。そうなってくると、タイトルにも注目したくなる。Op.116からOp.119までブラームスは連続してピアノ曲を残しているが、それぞれは「幻想曲集」「間奏曲」「ピアノ小品」(×2) となっている。なぜOp.117だけインテルメッツォなのか―。そう考えるととても興味深い。「幻想曲集」と「ピアノ小品」に挟まれているからかもしれないし、何かブラームスが込めた想いや満たされない願いの表れなのかもしれない―シューマンは若い頃「6つの間奏曲集Op.4」を作曲しているが、モティーフの中に初恋の女性アグネスの音名を含めていた。しかも彼女は既婚者だったのである―。もっともインテルメッツォは他の曲集にも単体で見られる。クララに捧げられたOp.118の中の第2曲イ長調もまた「間奏曲」であった―。

 

リヒテルの弟子エリソ・ヴィルサラーゼによるシューマンOp.4。

 

グールドによるブラームス/間奏曲イ長調Op.118-2。よく知られている録音

ではなく、別テイク音源オルタナティヴ・ヴァージョンによる。

 

クララの弟子アデリーナ・デ・ララ (1872–1961)によるブラームス演奏。

クララ・シューマンのピアニズムを想像したくなる―。

 

 

当盤音源より―。ブラームスは自作品のベースラインが脆弱な演奏に

激しい怒りを表したそうだが、ピレシュの演奏には傾聴したに違いない。

 

 

 

 

アルバム3曲目は「メンデルスゾーン/無言歌 ニ長調 Op.109」、これは有名なピアノのための作品ではなくチェロ&ピアノの作品で、再びメネセスとのデュオとなっている。Opusナンバーが大きいことからも察せられるように、メンデルスゾーンの晩年に書かれたもので、何と発見されたのが1960年代なのだそうだ。この「無言歌」のタイトルは出版社による。

 

メンデルスゾーンの専売特許ともいうべき、ピアノのための「無言歌」は全8巻48曲に及び、メンデルスゾーンの生涯のほとんどの期間にわたって作曲されているライフワークのようなものだ―彼には日記のようなものだったかもしれない―。このタイトルは姉ファニーのアイディアだったともいわれている(グノー談による)。

 

ファニー・メンデルスゾーンのピアノ曲はどれも美しいものばかりだ―。

 

 

「無言歌」(Lieder ohne Worte)は文字通り「言葉のない歌」(Song Without Words)である―「言葉のある歌」である歌曲(リート)のようなスタンスとメロディを持つ楽曲といえるだろう。ちなみにフランス語では「Romance sans paroles」となる。「ロマンス」も範疇に入るのは興味深い―「ブラームス/6つのピアノ小品Op.118」にもロマンスがあったことを思い出そう。そして「間奏曲」とも近しい関係にあるかもしれないことも―。また「ハウスムジーク」の観点で見るなら、19世紀中頃以降からは家庭においてもピアノの需要が増してきたことを伺わせる作品集ともいえるかもしれない―「シューマン/ユーゲントアルバム」もそうだろう。

 

「言葉で表現できなくなったとき音楽が始まる」と語ったのはドビュッシーであったが、言語のイントネーションが音楽に潜在的に作用しているのは明白のような気がする。歌詞がなくとも、ピアノやヴァイオリン(チェロ)が「歌う」と表現されるのは面白い。それでも、もし「歌」の起源を辿った先に「鳥の声」があったとしたら、やはり「歌」はコミュニケーション言語に由来することになるのかもしれない。そして命あるものはそこに「美しさ」も感じるのである。

 

メンデルスゾーンOp.109に話を戻そう―ピアノのバルカローレ風のリズムに乗って、チェロが「歌い出す」メロディはとても爽やかなもので、アルバムの中では一種の清涼剤のようだ。こんな親しみやすい曲が120年以上眠っていたとは信じ難いほどだ。5分に満たない小品だが、その価値は計り知れない。甘いカンティレーナのようなチェロの音色に暫し酔いしれるとしよう。

 

ブラームス/ロマンスOp.118-5。ソコロフ盤で―。

 

当盤音源より―。

 

Op.109と同じく発見されたメンデルスゾーンの秘曲。確かにイッサーリスが

飛びつきそうな魅力的な雰囲気を持った作品である―。

 

ハインツ・ホリガーの作品にも「無言歌」があるが、極北の世界のようだ。

 

 

 

 

当アルバムのクライマックスというべき曲がこの「ブラームス/チェロ・ソナタ第1番ホ短調 Op.38」である。全3楽章が短調という、短調偏愛主義の僕としては堪らない逸品だ。完成された年が「母親の死去」というショッキングな出来事があったことと関連して (作曲中だった「ドイツ・レクイエム」とともに) よく解説されるが、暗い底からたぎってくるような曲想はそのことだけではなく、元々ブラームスの内に宿っていた「何か」が関係しているのであろう。そして「それ」は明らかに創作の原動力となっていたはずである。

 

Op.38のために作曲された緩徐楽章を組み込むかどうか、ブラームスはかなり頭を悩ませたようだ。他の作品と同様、その楽章は後の2番目となるチェロ・ソナタの素材に活用されたそうである。結果的に緩徐楽章無しのベートーヴェンの同曲を思わせる仕上がりとなったが、楽聖の傑作を意識しなかったはずはないだろう。

 

ブラームス/チェロ・ソナタ第2番~第2楽章。以前所有していたフルニエ&

バックハウス盤から。破棄されなくて良かったと思える美しい音楽だ―。

 

 

しかし実際に聴いて気づくのは、ベートーヴェンよりバッハ、それも「フーガの技法」のテーマとの類似である。第1楽章の暗いテーマや、情熱の塊のようなフィナーレの主題は「コントラプンクトゥス3」や「コントラプンクトゥス13」を彷彿とさせるのだ。そして優しい憂鬱の雨のような第2楽章にはスケルツォの代わりにメヌエットが置かれる―この楽章が完成したのはまさに母が他界した1865年2月であった―。これらはブラームスのバロック趣味の表れといえよう。後のラヴェルは、古い皮袋に新しいワインを注ぐかのように古い形式を「ペルソナ」として用いたが (自然の摂理とは異なり、その「皮袋」は破れることはなかった) 、ブラームスにとっては批判されるほど露骨なまでに、彼の本質に深く関わっていた要素である。

 

メネセス&ピレシュの演奏は、暗い情熱にさらされつつも踏み止まるような抑制を感じるものだ。鬱積した感情が噴出するようなフレーズでも、メネセスはしなやかに美しさを失わない。面白いのはピレシュのピアノが当アルバム一番充実しているように聴こえることである。ブラームスはOp.38のピアノパートについて「いかなる状況であっても、純粋に付随的な役割を引き受けるべきではありません」と述べ、パートナーであると同時にリーダーシップを取るべき存在でもあることを示しているのだ。実際にプライベート試演の時も、ブラームスの弾くピアノの音量がチェロを圧倒するほどであったため、チェリストからクレームが出たほどであったという逸話が伝えられている―それでもブラームスは意に介さなかったそうだ。特にフィナーレにおけるピアノパートの充実はチェロにエネルギーを注ぐかのようで、とりわけ白熱した演奏となっている。

 

当盤音源より―。

 

バッハ/フーガの技法~コントラプンクトゥス3&13。

 

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第3番ハ長調Op.2-3。その第1楽章にOp.38

のフィナーレに似たフレーズが登場するというのだが…。

 

 

 

 

アンコールには「バッハ/パストラーレ ヘ長調BWV590~アリア」が、チェロ&ピアノによる編曲版で演奏される。映画「ルパン三世 カリオストロの城」の中での(伯爵との)結婚式のシーンに流れたハ短調の、美しくも悲しいアリアで―クラリスの心情を物語っているかのようだ―、最初バッハの曲だとは全く知らず、偶然ラジオか何かで聴いて初めて知ったのだった。編曲者のMarie Roemaet-Rosanoff (1896-1967) はチェリストで、ミュージカル・アートSQにも在籍していた。1927年に録音されたハイドン/弦楽四重奏曲第42番は世界初録音といわれている。アレンジャーとしてもチェロのための編曲をいくらか残してくれているようだ。当曲では原曲のオルガンの響きがチェロに置き換えられ、悲しくも優しい表情がすこぶる印象的。実に、最後の最後まで心満たしてくれる、深い余韻を残すアルバムであった。

 

その世界初録音のハイドンから、第2楽章アダージョを―。

 

ロサノフ編曲によるバッハ/オルガン協奏曲第3番~レチタティーヴォ。

 

サントラ盤より。原曲通りオルガンで演奏されている。

 

ライヴ映像より―。このアンコールも周到な選曲の一環なのであろう。