先日亡くなった小澤征爾/ボストン交響楽団によるプーランク作品集。ソプラノ歌手、キャスリーン・バトルを起用した「グローリア」をはじめ、「オルガン協奏曲」や実質上のチェンバロ協奏曲である「田園のコンセール」を収録。協奏曲では当時のドイツ・グラモフォンの看板アーティスト、サイモン・プレストンとトレヴァー・ピノックがソリストとして参加している―実はこのピノックとの共演がCD購入の理由となった―。本当は別の記事を投稿するつもりだったが、心浮き立つこれらの演奏を聴いて、先に記事にしたいと思ったのである。

 

 

 

 

 

 

当盤は「ドイツ・グラモフォン・マスターズ」というシリーズで、過去のアルバムからの編集盤が多く、以前はポゴレリチの「バッハ/イギリス組曲集」を所有していた(カップリングはスカルラッティのソナタ集)。

 

  

 

そして僕の興味を惹いたのは、ピノックによる「田園のコンセール」の音源である。どうやら未発表録音で、当盤が初出らしい(1995年リリース)―僕もこのレコーディングの存在を知らなかった―。録音データを確認すると、「オルガン協奏曲」の録音の1ヶ月前のライヴ・レコーディングとのこと。小澤氏との共演も珍しい。演奏は素晴らしいの一言に尽きる。今まで聞いた演奏の中で一番ヴィヴィットで陰影の深い、プーランクが持つ「二面性」がリアルに表出した名演といっていいと思う。

 

かねてから、小澤氏とフランス音楽との相性の良さには定評があった。僕も「フォーレ/管弦楽曲集」が長年の愛聴盤だった(ラベック姉妹とのプーランクもそうだった)。ボストン交響楽団のサウンドがフランスのオケと異なるのは当然だが、シルキーな質感のある、重心の低い(カラヤン譲りか)弦の響きは特に印象的。そこに透明感と機動性が加わり、華やかでありながら同時に奥ゆかしさもあるという独特のサウンドを感じる。とかく巨匠が示しがちの圧倒的な個性に依らない、バランスのいい、ニュートラルな表現は作品を分かりやすいものとする。彼らの演奏に親しみを覚えるのには、そういった理由があるからかもしれない。

 

フォーレ/劇音楽「ペレアスとメリザンド」Op.80~「メリザンドの歌」

ここでは珍しくソプラノ歌唱を伴う―。

 

ラベック姉妹との共演で、プーランク/2台のピアノのための協奏曲から。

好きでよく聞いた音源である―。

 

プーランク/「スターバト・マーテル」より。当初レクイエムとして作曲された

だけに、深刻でドラマティックな音楽が聞かれる―。

 

 

 

 

プーランクの作品&アルバムは現在のコレクション初登場だが、昔初めて聞いたのはランパルによる「フルート・ソナタ」だった。実はカップリングのプロコフィエフが目当てだったのだが、この曲を聴いた途端、すっかり気に入ってしまった(無理もない)。二元性の象徴である「ヤヌス」に例えられることのあるプーランクの音楽は、一聴して誰もが直ぐ気づくように、明るくはっちゃけた表現とメランコリックな表現が唐突に交錯する。「どちらかが真実の姿か」という問いは無意味で、どちらもプーランクその人なのであり、大きな魅力なのである。

 

私の音楽は私のポートレートです

 

一見、矛盾する要素が混然一体となる。

プーランクに深い影響を与えたのが「シューベルト/冬の旅」と「ストラヴィンスキー/春の祭典」であるという史実は、彼のアイデンティティの一部を見事に言い得ているように思う。

 

 

ここではランパル&プーランクの自作自演で「フルート・ソナタ」を―。

これは世界初演の録音。プーランクは自作自演の音源が多い。

 

誰も指摘していないが、僕はプーランクに「多感様式」のエマヌエル・バッハ

との近似性を感じてしまう。

 

 

 

 

アルバム1曲目は『「グローリア」~ソプラノ、混声合唱と管弦楽のための』である。作曲家晩年の傑作として知られるが、僕は今回初めて聴いた作品である。実は(当盤の)小澤盤のほかに候補のアルバムがあったのだが、YouTubeで聴き比べてみて、最終的に小澤盤に軍配が上がった―決定打となったのは第2楽章の演奏だった―。さらに調べてみると興味深いことに、「グローリア」は小澤氏の師匠の一人であるシャルル・ミュンシュが初演を指揮し、オケはボストン交響楽団であった。さらに、「グローリア」はクーセヴィツキー財団の委嘱作であり、既に故人となっていたセルゲイ・クーセヴィツキーとその妻のナタリアに献呈されたが、初演の1年前、かの小澤征爾はミュンシュの推薦でタングルウッド音楽祭に出演して「クーセヴィツキー大賞」を受賞し、アメリカ・デビューを飾ったのだった。今回のアルバムで小澤氏は、師の初演した作品を初演したオケと、デビューのきっかけともなった音楽祭の合唱団(タングルウッド音楽祭合唱団)とともにレコーディングに臨んだわけである。何という奇遇であろうか―。

 

ところで、クーセヴィツキー財団は当初プーランクに交響曲を依頼したのだというが、彼はそれを「好みではない」と断る。それで財団側はオルガン協奏曲の依頼に切り替えたが、プーランクは「既に作曲している」と一蹴したという。この「グローリア」はそんなプーランクが委嘱作として選んだ作品であった。テキストは真っ当にミサ通常文から採用されていて、ト長調(ロ短調)をベースにした全6楽章から成るが、曲想の極端な移り変わりが激しい転調とともに全体を特徴づける。オケと合唱がメインで音楽は進行し、ソプラノ独唱は3つの楽章でしか登場しない。これは1950年作の「スターバト・マーテル」でも見られたフォームで、全12曲中ソプラノ独唱は3曲のみであった。

 

第1楽章「Gloria in excelsis Deo」では冒頭ファンファーレからストラヴィンスキーの引用で始まる。ブラスの輝かしい響きと重厚な弦楽セクションはオルガンを思わせ、華麗さが際立つ。そして(問題の)第2楽章「Laudamus te」へ―。初めて聞いた時、少なからず衝撃を受けた楽章である―これがミサ曲なのか、と。そう思えないくらいポップな音楽なのである。悪戯のようなシンコペーションが効果絶大。まさに「聖俗混交」といったところで、それこそプーランクの真骨頂であろう。初演当時も驚かれた楽章で、当然批判も出たらしい。それに対してプーランクは「修道士がサッカーをしている場面を描いた」と彼らしいコメントで返したという。そしてこのポップな感覚を一番感じることができたのが当盤だったのである(他の幾つかの演奏はあまりノリが良くなかったのだった)。中間部の神妙な表情も素晴らしい―。

 

当盤の同音源より第2楽章「Laudamus te」を―。このテンポ感がいい。

 

 

ロ短調の第3楽章「Domine Deus, Rex caelestis」で初めてソプラノ独唱が加わる。切々と暗い色調で歌われるが、劇性も伴う。当盤では歌姫キャスリーン・バトルが起用、リリックでドラマティックな歌唱を聞かせるが、この楽章に関する限り、比較盤で聴いたパトリシア・プティボンの歌唱の方が胸に響いた(もちろん贔屓もある)。古楽出身の抑制されたヴィブラートによる、内面に志向する透明な歌声に今でも魅了される。

 

プティボン&ヤルヴィ盤より、第3楽章「Domine Deus, Rex caelestis」を―。

 

 

間奏曲のような短くも闊達な第4楽章「Domine Fili unigenite」に続き、第5楽章「Domine Deus, Agnus Dei」では変ロ短調に転じ、暗雲が立ち込めるような暗澹たる歌(音程の跳躍も凄い)がソプラノによって歌われる―他の作曲家のどの「アニュス・デイ」にもこのような曲想が多い。「反逆児」プーランクでもそうだったらしい―。こうして見ると、ソプラノが登場する楽章に作品のウエイトが置かれているのがよくわかる。さらに注目できるのは、オネゲルを追悼し最晩年に書かれた「クラリネット・ソナタ」との関連である―第5楽章のクラリネット・パートにその前兆を聞き取ることが可能であるし、そのフレーズは管弦楽によって悲劇的かつ神秘的に強調されるのである。

 

第5楽章「Domine Deus, Agnus Dei」を再びプティボン&ヤルヴィ盤で―。

 

プーランク/「クラリネット・ソナタ」をライスター&レヴァイン盤で―。

 

 

〆の第6楽章「Qui sedes ad dexteram Patris」は本作品の集大成的な音楽となる。冒頭ア・カペラによる力強い合唱に応答するのは、オケによる回帰された第1楽章のファンファーレ。楽章中盤にはソプラノ独唱も登場。キャスリーン・バトルの美しく伸びるその歌声で一転、神秘的な雰囲気が漂う(ここでもソプラノによる「性格付け」が顕著である)。そのソプラノに導かれてファンファーレとともにドラマティックに高揚してゆく後半は、全曲中最も感動的な場面かもしれない。しかし真の感動は最後の最後に来る―最弱音でソプラノが囁くような絶妙なニュアンスで「言葉を置く」コーダ、「アーメン」のフレーズなのである。

 

当盤の同音源より、第6楽章「Qui sedes ad dexteram Patris」を―。

 

ミュンシュ/ボストン交響楽団他による1961年の世界初演録音盤を―。

 

ファンファーレに引用されたストラヴィンスキー/イ調のセレナーデ~第1楽章

「賛歌」。ショパンのバラード第2番の影響も感じ取れる。

 

 

 

 

アルバム2曲目は「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調」である。この曲が宗教的ともいえる厳粛な色彩を帯びているのは、曲の特殊な編成のためだけではない―この作品の作曲中、プーランクが受けた「心への一撃」が関係している。それは友人の死を境にロカマドゥール巡礼をしたことがきっかけで生まれた合唱曲「黒衣の聖母像への連禱(Litanies à la Vierge Noire)」(「ロカマドゥールの黒い聖母へのリタニア」とも)にも表されている。プーランクの宗教曲の原点ともいえる作品だ。ここで彼は(再び)信仰について思いを巡らしたのかもしれない―。

 

 

パーヴォ・ヤルヴィ/パリ管弦楽団&合唱団による改訂版の演奏で―。

 

 

オルガン協奏曲自体は20世紀フランスにおいて多くの音楽家たちを支援してきたポリニャック公夫人ウィナレッタ・シンガーにより委嘱された作品だった。彼女が演奏できるくらいの簡単なオルガン・パートを備えた室内オーケストラ規模の作品を希望されたようだが、プーランクが実際に作曲したのはシンプルな編成ではあるがティンパニも活躍する、あまり類を見ないオルガンコンチェルトであった。ここにプーランクの創意工夫を見ることができる―当初はジャン・フランセに作曲依頼していたようだが、辞退されてしまったそうだ―。ポリニャック公妃のサロンでの演奏会は当時フランスで非常に人気があり、オルガンの名匠カヴァイエ・コルのオルガンが用意されていたそうだ。オケ編成を弦楽合奏に限定したのは、このサロンの規模を推し量ってのこととも思えるし、オケから管楽器を全て省いたのはオルガンのストップ操作で多種多様な音色を発揮できるからだとも言われている(カヴァイエ・コルの楽器は「シンフォニック・オルガン」として有名だった)。

 

 

 

プーランクにとってオルガンのための作曲は初めての経験だったため、バッハやブクステフーデのオルガン曲などバロック音楽を研究したそうだ(当CDのライナーノーツでは作品モデルとして「バッハ/幻想曲とフーガ ト短調」を挙げている)。オルガン特有の楽器特性については、オルガニストで作曲家のデュリュフレからアドバイスを受けたそうだ―初演者はもちろんデュリュフレだった―。

 

作品は切れ目のない単一楽章だが、全3楽章と見ることもできるようである(当盤では3トラックに分けられている)。演奏表示からすると7部に分かれる。

 

Andante - Allegro giocoso - /subito Andante Moderato - /Tempo Allegro, Molto Agitato - Tres Calme. Lent - Tempo de l`Allegro initial - Tempo Introduction: Largo

 

 

序奏からいきなり登場するオルガンは、まさにバッハ作品そのもの。続く「Allegro giocoso」といい、ライナーノーツにある「焼け付くような激しさ」という表現は言い得て妙。それだけに叙情的なテーマとのコントラストは印象的だ。特に「subito Andante Moderato」ではオルガンのソロに続き、弦楽セクションがイ長調の心を打つあたたかなテーマを夢見るように奏でる。マイナーに傾くフレーズなど、切なさが溢れ出し、小澤氏が指揮するボストン交響楽団の弦楽セクションの美しさを存分に味わえる。「Tempo Allegro」で再現部に相当する箇所に突入すると、それまで休んでいたティンパニも復活し、壮麗で悲劇性を帯びた音楽が繰り広げられるが、「Lent」に達すると、シベリウス/交響曲第7番のようなエコーのあと、メランコリックで達観したような音楽が聞こえてくる。再び「Allegro」に戻った時は明るく活気を帯びており、以前の厳粛さは脇へ追いやられている。序奏のフレーズが回想された後に始まる終盤の「Largo」では、魂を慰撫するかのような音楽が声を潜めて奏でられる。最後は思い出したかのように、ト短調の和音とともにトゥッティの一撃で幕を閉じる。

 

 

バッハ/幻想曲とフーガ ト短調 BWV542。まさにそのものである。

 

当盤の同音源より―。オルガンのサイモン・プレストンとともに、ティンパニ

のソロを務めたのはBSOの首席奏者、「世界一のティンパニスト」の異名

を持つエヴァレット・ファース。

 

 

 

 

アルバム最後は『「田園のコンセール」~クラヴサンと管弦楽のための』、当盤での本命曲である。プーランクは「ファリャ/ペドロ親方の人形芝居」が演奏されたポリニャック公妃のサロンにて、ワンダ・ランドフスカと出会い、クラヴサンの響きに魅了される―この曲もポリニャック​​​​​​​夫人の委嘱作品であり、クラヴサンを20世紀音楽に用いた最初の作品となった―。「田園のコンセール」はランドフスカの依頼で書かれ、彼女によって初演される。ただ、ランドフスカの弾いていたクラヴサン(チェンバロ)は現代に見られるような復元されたコピー楽器ではなく、ましてオリジナルの楽器でもなかった。彼女の構想をもとに、プレイエル社が制作したモダン・チェンバロだったのである。

 

 

 

ベルリン音楽院所蔵のプレイエル・チェンバロ(1927)

Wikipediaより―。

 

 

興味深いのは、オーケストレーションが充実していることである―バレエ音楽「牝鹿」に続く大規模なオーケストラ作品といっていい編成で、打楽器も多彩だ。通常のチェンバロだとオーケストラに音がかき消されてしまうのではないだろうか。推測だが、当時プーランクは音量も大きいモダン・チェンバロであれば、オケに拮抗できると考えたのかもしれない。21世紀の現代、この曲が演奏される時は、どの種類のチェンバロが用いられるのだろうか?そう考えると面白い。レコーディングであれば、ミキシング調整によってチェンバロがオケに埋没してしまうのを容易に回避できることだろう。実演ではどうなのだろう。ちなみに当盤でトレヴァー・ピノックは、3段鍵盤仕様のジャーマン・チェンバロ(1740年、H.A.Haasによって製作された楽器のコピー)をライヴ演奏で用いている。実際の演奏ではどのように響いたのかはわからないが、聴く限りオケも盛大に鳴らしていることから、問題なく事が運んだのかもしれない―楽器の選択も関係しているのだろうか―。

 

作品のタイトルが「Concert champêtre」というのも面白い―単なる「クラヴサン協奏曲」としていないところに、プーランクの拘りを感じる。「concert」(コンセール)は「コンサート」や「コンチェルト」と同じ語源を持つ。なので「協奏曲」であることに間違いはないのだが、フランス・バロックの作曲家、とりわけクープランやラモーが作曲した合奏曲「コンセール」にプーランクが眼差しを向けていたのもまた事実なのである―そこで行われていた「音楽会」もまた「concert」であった。このように複数の意味に捉えると、想像力が刺激されて楽しい。「田園」を意味する「champêtre」については、音楽学者によれば「田園にいる気分」くらいの意味のようだ。ただ「pastorale」ではないから「フランス風に整えられた田園風に」ということになるらしい。実際に聴いて「田園風」に感じるかどうかはその人次第だが、プーランクのことだから、一筋縄ではいかなそうである。

 

2020年10月、横浜市鶴見区民文化センターでのコンサートの模様。

様々な作曲家のコンセールを演奏している―。

 

 

第1楽章は冒頭の木管と金管によるファンファーレから、バロック色よりストラヴィンスキー色が強い。特に「ピアノと管楽器のための協奏曲」と瓜二つである―プーランクの立ち位置はあくまでもそこなのだろう。その後はチェンバロのソロを経て「Allegro molto」に突入するが、まるでおもちゃ箱を引っくり返したような楽想が愉しすぎる。チェンバロが繊細に奏でたかと思うと、ブラスやパーカッションが咆哮し、長調が短調に、短調が長調にと、目まぐるしく曲想が変わる。いきなり現れるマーチ風の音楽は、フランス郊外の森にあるフランス軍のキャンプを暗示しているのだそうで、ファンファーレやパーカッションの打ち込みはその音楽的な暗喩のようだ。それでいてホルン等には自然を感じさせるソノリティを用意しているのだ―木管による響きはオルフ/「カルミナ・ブラーナ」での春の風景を思わせる―。自然界に人工的なものを侵入させておいて「田園風」と名乗るプーランク。ほとんどおふざけに近い音楽だが、憎めないのは彼の人柄か、さもなくば見え隠れするメランコリーのためか。小澤氏の指揮は鮮烈を極め、オケは容赦なくサウンドを炸裂させる。ピノックのチェンバロに自身のバッハの協奏曲演奏で感じたクールさは感じられず、それどころか情熱的に弾きまくる。なのに、中盤では時間が止まったかのようなアコーギクを披露し、意外なほど瞑想性を表出させる。他の演奏では聴いたことがない解釈で、ライヴならではの即興なのかもしれない。

 

1924年作曲のストラヴィンスキー/ピアノと管楽器のための協奏曲。

もはや「田園のコンセール」と兄弟のようにしか思えない。

 

 

「Andante」の第2楽章はシチリアーノのリズムで哀愁のカンティレーナを歌う。弦楽セクションが実に美しいこの楽章は安心して「田園風」に浸れる唯一のムーヴメントかもしれない―たとえ不穏な雰囲気が時折訪れようと。コーダでのフルートのエコーは、いにしえの時を想わせる。その想いを立ち切るようなオケの打撃で楽章を終える。

 

フィナーレはヘンデル風のチェンバロのパッセージで始まり、第1楽章の喧騒が再び訪れる。楽想の変化の度合いもそれに匹敵する。実際第1楽章のモティーフが再現され関連性が示される辺り、遊んでいるようで決めるところはしっかり決めているプーランクの姿が思い浮かぶ。金管とパーカッションの派手さはこの楽章が一番かもしれない。心憎いのはコーダ。「誰かが明かりを消して部屋を出て行くような」仕方で静かにチェンバロが曲を締めくくるのだ。ハチャメチャな音楽に感じても、終わってみて思い出すのは静謐で叙情的なメロディなのである。

 

当盤音源より―。音源の詳細な情報が得られないのが残念だが、演奏は

最高の一言に尽きる。

 

ヘンデルによる所謂「調子の良い鍛冶屋」。ピノックの演奏で―。

 

ジャン・ロンドー&山田和樹の共演で。実演では、チェンバロとオケとの

バランスを絶妙に保つところに指揮者の手腕が発揮されそうだ―。

 

1948年の自作自演の音源。ここでプーランクはピアノで演奏している。

ピアノで弾いた例は他にもギレリスがいる。