リスペクトする往年のピアニストたちへの追憶をテーマにしたアルバム。対象としてグールド、ラフマニノフ、ソフロニツキー、ホロヴィッツ、ギレリス、ミケランジェリにちなんだ曲が選ばれ、さらなるオマージュを経てエクスタシーへと昇華させている。アファナシエフ自身の小説や詩を織り交ぜたライナーノーツも必読である。1996年録音。

 

 

 

 

 

 

アファナシエフがリリースしたCDの中でも当盤のようなオムニバス的なアルバムは珍しい―いい意味で聞き流せることもそうだ。晩秋の今頃にピッタリである―。自身の著作やインタビューにおいて現代の音楽家たちに対して歯に衣着せぬ批評を述べるアファナシエフは、過去の往年の演奏家の音楽をこよなく愛する者の一人であり、このようなオマージュ・アルバムが制作されることは必然だったのかもしれない―もっともアファナシエフにとっては自らの豊かな記憶を辿る懐かしいひとときになっただろうが―。ライナーノーツには上記に述べたピアニストたちの思い出が綴られているが、たとえ彼らの演奏が今やメディアや記憶の中でしか響かなくとも、アファナシエフにとっては「今日、演奏会で聴くことのできるどんなものよりもはるかに」実存的に「リアル」に響くのだという。彼が取り上げた6人のピアニスト以外の偉大なピアニスト―リヒテル、ギーゼキング、シュナーベル、エドウィン・フィッシャーなどの名前を挙げている―を「尊敬しているピアニスト」と言いつつ、ここで述べることをあえてしなかったようだ。はっきりとその理由を述べているわけではないが、アファナシエフは自身の小説の一節を引用して応えている―。

 

どんな才能でもそれを開花するためには、それにふさわしい雰囲気というものが必要なのだ。ハイデッカーの言いまわしを借りるならば、ふさわしい気分が。今日欠けているのは気分なのだ。

 

オマージュが「エクスタシー」と結び付けられているのがアファナシエフらしいといえばらしいが、彼は「どのジャンルよりも音楽に関連させて使うべきだと思う」と述べる。1964年モスクワ音楽院でミケランジェリのコンサートで聴いたバッハを例に出し、「ミケランジェリがバッハのシャコンヌの初めの音のつらなりを鳴らしたときに経験したものは何だったのか。それはショックだったのだ。エクスタシーといってもよいだろうか」というのだ。ピアノが演奏の間「ひと」となった、同時に私はひと目ぼれしてしまった―そんな体験をしてしまったアファナシエフはそれ以降、演奏前に必ずピアノを愛撫するようになったのだという。

 

ミケランジェリによるバッハ(ブゾーニ)/シャコンヌ。ライヴ音源である。

 

 

 

 

当アルバムは全16曲からなる―。

 

(曲目はサイトより借用)

 

1. フローベルガー/トンボー
2. ワーグナー/「エルザの夢」(ローエングリンより)


3. ラフマニノフ/前奏曲 ト長調 Op.32-5
4. ラフマニノフ/前奏曲 嬰ト短調 Op.32-12


5. スクリャービン/前奏曲 イ短調 Op.11-2
6. スクリャービン/前奏曲 ホ短調 Op.11-4
7. スクリャービン/前奏曲 嬰ハ短調 Op.11-10


8. シューマン/クララ・ヴィークの主題による変奏曲(ピアノ・ソナタ第3番より)


9. グリーグ/「ちょうちょう」(抒情小曲集 Op.43-1)
10. グリーグ/「孤独なさすらい人」(抒情小曲集 Op.43-2)


11. ショパン/マズルカ へ短調(J・エキエル版)
12. ドビュッシー/「雪の上の足跡」(前奏曲集第1巻~第6曲)


13. リスト/コンソレーション第3番
14. リスト/コンソレーション第5番
15. チャイコフスキー/舟歌(「四季」~6月)
16. ワーグナー/(主題)変イ長調 WWV.93

 

 

最初に登場するのは「グレン・グールドへのオマージュ」である。「唯一無二のアーティスト」という点で彼以上の存在を見つけるのは難しい―「グールド以後」彼の影響を免れた音楽家&リスナーは皆無であろう―。そんな彼に寄せて、バッハ以前の作曲家フローベルガーとドイツ・ロマン派の権化ワーグナーという、グールドのレパートリーの両端を攻めた選曲が面白い。「グールド=バッハ」のイメージが強すぎるが、アルバムを制作するほどギボンズやバードのヴァージナル作品を好んでいたことはよく知られているし、本質的にロマンティックな嗜好を持つ彼の美質がストレートに現れたのは(数少ないが)ロマン派の録音だったと思う―殊に「ブラームス/間奏曲集」のアルバムはアファナシエフによる名盤が生まれても、依然その価値は失われない―。ワーグナーのリング全曲を諳じることができたというグールド。ここでローエングリンからの「エルザの夢」が取り上げられるのは慧眼である―「リスト編曲による」のも、アルバム的に首尾一貫していることが後に明らかになる。

 

スウェーリンク/ファンタジア。1959年ザルツブルク音楽祭のライヴ。

 

グールドによるワーグナーのピアノ・トランスクリプション集。

特に「ジークフリード牧歌」は素晴らしい―。

 

フローベルガー/トンボー(追悼曲)&ワーグナー/エルザの夢。

特に後者は美しさの極み―。

 

 

 

 

 

続いては「セルゲイ・ラフマニノフへのオマージュ」である。20世紀初期に彼が自作を含む数々の録音を遺してくれたのは、まさに時代の宝であり偉大な遺産といえる。メロディメーカーとしてより、僕にとってはピアニストとしての存在が極めて貴重だ。ラフマニノフが弾くショパンやシューマンには、一度聴いたら忘れられない強力な力が宿っている。演奏芸術とは時代と共にその特徴が移り行くものだが、とりわけピアノ協奏曲の自作自演盤は未だに特別な価値を保ち、現代でも通用する規範となっている。ここでは、ラフマニノフ自作の前奏曲集から2曲―ト長調Op.32-5、嬰ト短調Op.32-12―が選ばれているが、どちらも彼自身の録音が残っている(1920,21年録音)。僕はリヒテル盤で親しんだ曲だが、アファナシエフの演奏は一層の甘美さを伴っている。

 

ラフマニノフが弾いたショパンの葬送ソナタ。独自の解釈に驚くが、

これほど強烈な印象を残す演奏は稀である―。

 

当盤音源より2曲の前奏曲を。エクスタシーを感じずにはいられない―。

 

 

 

 

3人目として、以前このブログでも扱ったことがあるロシアの伝説的なピアニスト「ウラジーミル・ソフロニツキーへのオマージュ」も取り上げられている。アファナシエフの著作やインタビュー、エッセイ等で賛辞が止まらない「神」のような存在だ。ライナーノーツでは13歳のアファナシエフがソフロニツキーの最後の演奏会を聴くことができたことが記されている(以前ブログに書いた「天空の沈黙」でもそのエピソードが語られている)。彼を含め、ロシア出身のピアニストには何やらリスナーの心を鷲掴みにする強力な求心力が備わっているらしい―おそらくロシア・ピアニズムが関係しているのだろう―。ここでは「ソフロニツキーの他にはいない」とさえいわれたスクリャービンの作品から、24の前奏曲Op.11から3曲が選ばれている。

 

ラフマニノフが同僚のスクリャービンを追悼して1915年に行ったリサイタル

と同じ演目をソフロニツキーの録音で聴ける。凄まじいの一言。

 

当盤音源より、スクリャービンのプレリュードを3曲―。最後の第10番

嬰ハ短調ではコーダで弔いの鐘のような効果が聞こえる。

 

 

 

 

 

 

 

こうなると「ウラジーミル・ホロヴィッツへのオマージュ」がここで挙げられるのは当然であろう。時代に愛されたピアニスト、というイメージが強いが、僕は積極的に聴いてこなかった―リスナー、ピアニストを問わず「信者」がいるが、そこまで魅せられなかった―。これまでにない輝かしい音で(時には爆音を辞さない)圧倒的な演奏を繰り広げた膨大な録音の中からスカルラッティ、シューベルト、シューマン、スクリャービン、ラフマニノフなどを聴いてきたが、僕には眩しすぎたようだ。ここでアファナシエフが選んだのが「シューマン/クララ・ヴィークの主題による変奏曲」というのが嬉しい―彼は実際ホロヴィッツの実演も経験しているようだ―。ホロヴィッツのシューマン演奏は数多くあるが、この切実な変奏曲を含むピアノ・ソナタ第3番も全曲録音が遺されている。実は村上春樹の小説「一人称単数」の中でこの演奏にまつわるエピソードが出てくるが、なかなか素敵な内容である(少しホロヴィッツが好きになる)。

 

シューベルト/ピアノ・ソナタ第21番&シューマン/子供の情景。

昔親しんだ音源。ピアニスティックな魅力が光る―。

 

1975年カーネギーホールでのライヴ音源。集中力高い演奏―。

 

当盤音源のシューマン/ピアノ・ソナタ第3番ヘ短調Op.14~第3楽章

「クララのアンダンティーノ」。クララを描くときは決まって切ない。

やはりここでもコーダの和音が弔いの鐘のように響く―。

 

 

 

 

 

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリへのオマージュ」についても、僕にはホロヴィッツと同系統のピアニストだった印象がある(もちろん異論も多かろう)。正規盤海賊盤問わず、多くの録音があり―やはり「信者」が存在する―、僕も数多く聴いてきたが、ある種のクールさが僕の感覚にそぐわなかったのかもしれない。でも生涯初めて購入したショパンのCDがミケランジェリ盤であった。当時高校の美術部だった僕はこのDG盤のジャケットを基に油彩による「模写」を試みたりもしていた。どうやらホロヴィッツよりは身近な存在だったのかもしれない。奇しくもアファナシエフが選んだのはショパンのマズルカと(僕の苦手な)ドビュッシー。しかもヘ短調のマズルカは原典版に準拠したエキエル版のスコアを採用している―僕はショパンに詳しくないので、一般的に流布している楽譜とエキエル版の違いはよくわからないが、曲によっては印象が変わってしまうほどの差異があるとのことだ―。「ドビュッシー/前奏曲集」はミケランジェリの代表的な名盤として定着しているが、僕は何度聞いてもしっくりこなかった(確かに美しいのだが)。ここでは意味深な表情の第1巻6曲「雪の上の足跡」が選ばれているが、アファナシエフの演奏では苦手なドビュッシーもじっくり楽しめる。ライナーノーツでは、今の若いピアニストたちがミケランジェリやギレリスを実際に聴く機会がなかったことを残念に思っている旨が記されているが、アファナシエフがミケランジェリの死の知らせを受けて記したという詩も掲載されている。

 

*高校時代の思い出―。

 

ミケランジェリの追悼の詩に登場するドビュッシー/「デルフィの舞姫たち」

とショパン/「子守歌」Op.57。

 

当盤音源よりショパン&ドビュッシー。

 

 

 

 

 

 

順番が前後したが5人目として、アファナシエフの師「エミール・ギレリスへのオマージュ」が捧げられているのは必然である―アルバム・ジャケットは葬儀から数日後のギレリスの墓の様子であるし、当盤がレコーディングされた1996年はギレリス生誕80年であった。生誕100年の2016年にはメモリアル・コンサートを開催したり、ギレリスのレパートリーであったモーツァルトやベートーヴェンのピアノ・ソナタのレコーディングも果たしている(今月末にブログで紹介できそうである)。今月リリースされる最新盤はベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタ。これまたギレリスの演奏が記憶に残っているものだ―アファナシエフにとっては初演奏&録音―。師弟関係にあったギレリスはアファナシエフを自宅に招き、部屋でピアノを弾いたりしていたそうである。アファナシエフにとっては特別な存在だが、オマージュとして捧げられているのはグリーグの小品というささやかなものだ―抒情小曲集Op.43から2曲―。「鋼鉄のタッチ」といわれたギレリスが残した意外過ぎる録音が「グリーグ/抒情小曲集」であったが、僕はこのアルバムのお陰で、敬遠していたギレリスに近づくことができた(後にリヒテル盤を聴くようにはなったが)。アファナシエフの柔らかなタッチはギレリスのそれと明らかに異なるが、それはギドン・クレーメルの師がダヴィッド・オイストラフであるのと同じくらい両者に違いがあるのが興味深い。

 

当盤音源より、グリーグ/「孤独なさすらい人」 Op.43-2。

 

グリーグ/抒情小曲集より―。

 

ギレリスによる「ハンマークラヴィーア・ソナタ」から第3楽章。

 

 

 

 

 

アルバム最後のオマージュはフランツ・リストと、かつてのモスクワ音楽院、そして(「私の人生のなかで非常に重要な意味を持っている」という)イタリア映画に捧げられている。「コンソレーション」(慰め)を「天球の音楽」と位置付けているアファナシエフ。「リストの音楽の美と人格に対して」捧げたこの2曲は、甘美なハーモニーを隠すことなく露わにしている。ライナーノーツによれば、彼は「リストの美」に対して1枚のCDを捧げようと計画していたと言っているが、2000年に録音されたロ短調ソナタ(41分を超える演奏時間)のアルバムがそれに相当するのだろうか。あるいは2011年来日時にライヴ・レコーディングされた「葬送」というタイトルのアルバム(若林工房からのリリース)のことだろうか―ここでもリストを中心にプログラムが組み込まれていた―。「死んで埋葬された」というモスクワ音楽院にはチャイコフスキーの作品が捧げられ、一抹の(復活の)希望も含める。12曲ある「四季」の中で6月「舟歌」が選ばれているのがセンティメンタルだ。ライナーノーツの終わりには、イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニとミケランジェロ・アントニオーニへのオマージュとして詩が捧げられている。

 

たぶん映画そのものも死んだのだ。また良いこともあるかも知れぬと思いたい。」

 

リスト/「凶星!(不運)」。リスト晩年の不気味な作品だ―。

 

EMIでLPリリースされていた1976年録音のロ短調ソナタ。

28分台という「普通」のテンポであることに驚く―。

 

プログラムは「葬送」と同じと思われる―。

 

 

 

最後のワーグナーの小品はルキノ・ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」

で聴いたのだという―。1882年の未完のスケッチの断片である。

 

 

そのワーグナー最晩年のスケッチを基に作曲したシルヴェストロフの

2001年の作品「ポストリュード」。

 

 

上記の動画はこのアルバムへの僕からのささやかなオマージュだ―。

普段ならブログを書き終えたなら、そのアルバムは仕舞ってしまうのだが、この「オマージュ&エクスタシー」はもう少し聴いていたいと思う。

 

 

 

いかなるオマージュもあなたを死から呼び戻すことはできない。そして、あなたは昨日死んでしまったのだ。