村上春樹(1949-)による6年ぶりの、8作から成る短編小説集。2020年7月リリース。先日ブックオフで衝動買いした際の1冊だった―。

 

 

 

 

2020年の夏、ふと寄った本屋さんで見つけ、ペラペラとページを捲ってみた。いつもの「春樹節」だな―と思いつつも、いつもより多く「音楽」にフォーカスしてるようにも感じたし、大曲を沢山生み出した作曲家が過去を振り返りつつ、肩の力を抜いてリラックスして筆を動かしたら、いつの間にかカタチになっていた小品を纏めたかのようなイメージを持った。

 

いつかブックオフで売ってるだろう―と思って新刊は購入せず、そのまま意識から外れていたのだが、年末になってブログを始め、今年2021年になり、シューマンの一連のピアノ曲についてのブログを書いていた時、この小説の中に「謝肉祭」がタイトルとなってた短編があったことを急に思い出したのだった。もしブログを書いていなかったら改めて購入することも、思い出すこともなかったかも知れない―。

 

 

 

「村上春樹」を読みだしたのはいつの頃からだっただろうか―。

きちんと思い出すことができない―。

そういえば、彼の小説に出てくるキャラクターも大体が「覚えていない」「よくわからない」「よく知らない」人達ばかりが登場する。

みんな記憶が欠落してる人ばかり―。

状況に対して無知な状態から、一応話が始まってゆく。もっとも、始まったというか―いきなり物語の渦中に巻き込まれた感すらあるのだが。

(不思議とシューマンのピアノ曲にもそんな感じのする曲がいくつかある)

 

大概の作品は読んだが、本棚に残っているのは初期のものばかり―。

処女作「風の歌を聴け」(1979)「1973年のピンボール」(1980)(カント/「純粋理性批判」を読むきっかけをくれた)「羊をめぐる冒険」(1982)のいわゆる「鼠三部作」(英語圏では「Trilogy of the Rat」)と、その続編「ダンス・ダンス・ダンス」(1988)を「核」に、全3部からなる「ねじまき鳥クロニクル」(1994-95)と「象の消滅 短篇選集 1980-1991」などがあるくらい。短編では「午後の最後の芝生」「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(思想家の内田樹氏がこの2作を高く評価していたのを思い出す)「沈黙」「かえるくん、東京を救う」などが印象的だった―。

 

シューマン/「森の情景」~「予言の鳥」。「ねじまき鳥クロニクル」にも登場

した楽曲。通常の2倍遅いテンポで迫るダークネスなアファナシエフの演奏。

ネジマキドリは「ギーギー」と鳴いたが、この鳥は果たして何と鳴く?

 

 

 

海外での評価の方が高く、日本では賛否両論、というより好みがハッキリと分かれる。ちなみに僕の周囲には好意的に語る人はほとんどいない。だが、何故か僕はスーッと自分に浸透するものがあって、サクサクと読めてしまう。平易さと難解さが混在する文章に特に違和感を感じることはない(リアルな世界での出来事の方が遥かに違和感を覚える)。

 

オウム真理教の信者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」も興味深かった。日常の普通に平凡に暮らしている人がどのように「カルト」に飲まれてゆくのか、そのプロセスの一端と本質の一片が見えた。僕が私淑している心理学者の河合隼雄(1928-2007)との懐深い対談「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」(1996)も良かったし、音楽関係だと小澤征爾との対談集「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(2011)や「意味がなければスイングはない」(2005)、ジャズの名盤を紹介するものなどがあった(「ポートレイト・イン・ジャズ1,2」)。

 

特にクラシック音楽との関わりにおいては、「1Q84」シリーズ(2009-10)が「バッハ/平均律クラヴィーア曲集」に倣った構成にしていたことはよく知られている(僕としては「BOOK:3」は要らなかった、と今でも思っている)し、ヤナーチェク/「シンフォニエッタ」がより人気が上がるきっかけにもなったと思う。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013)に登場するリスト/「巡礼の年」のラザール・ベルマン盤が爆発的に売れたこともあった。それぞれの小説にちなんだコンピレーションCDがリリースされるのが当然になってしまったようにも思う。

 

自称「春樹チルドレン」のスガシカオ。この曲は「アフターダーク」(2004)に

登場する。「意味がなければ~」では歌詞紹介までなされている。

 

ビーチボーイズ/「サーフズ・アップ」。「意味がなければ~」で熱く語られて

いる1曲。「ダンス・ダンス・ダンス」の中身は60年代ロックで溢れている。

不思議な展開が聞ける幻想的ロックだ―。

 

シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長い間個人的に最も愛好

している作品は、第17番ニ長調D.850である。自慢するのではないが、この

ソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な

聴かせどころもほとんど見当たらない」。確かに―。「けっこう退屈」に1票。

ちなみにこの曲は「海辺のカフカ」(2002)にも登場する。

 

森の中にいるカフカが口ずさむ曲。「マイ・フェバリット・シングズ」。

コルトレーンお気に入りの名曲で多くのヴァージョンがあるが、僕はエリック・

ドルフィーがフルートで参戦したこのヴァージョンが好きだ。

 

「1Q84」に登場する曲。演奏も同じセル/クリーヴランドO盤。

 

「巡礼の年第1年:スイス」~第8曲「郷愁 Le mal du pays」。

ラザール・ベルマン盤。映像も興味深くまとめられている―。

 

 

 

 

 

 

そろそろ本題に移るとしよう―。

 

全体として伺えるのは、実話に基づく(あるいはそれに近い)内容である、ということだ。作者による「回想録」といってもよい―その対象はかつての自分であり、出来事であり、作品や音楽である。前述のとおり、特に「音楽」とそれに類する要素が各話に見られる。

 

 

 

第1話「石のまくら」には「短歌」が登場する。韻を踏むことで生まれる独特のリズムが心地よいジャンルだが(偶然TVで「NHK短歌」を観たが、この小説を読んだせいか、結構楽しめた)、例の如く、名前も顔も思い出せない1人の女性が書き溜めた「歌集」のことが語られる―。

「タイトル」もその短歌に現れるフレーズだ。それは最後のページに書かれている。

 

たち切るも たち切られるも 石のまくら うなじつければ ほら、塵となる

 

他にも何篇か書かれているが、僕が気になった歌があった―。

 

午後をとおし この降りしきる 雨にまぎれ 名もなき斧が たそがれを斬首

会えるのか ただこのままに おわるのか 光にさそわれ 影に踏まれ

 

 

 

第2話「クリーム」ではピアノ演奏会に誘われたが、そのリサイタル会場は無人の建物だったという不可思議な出来事が語られる。そこに「中心がいくつもありながら外周を持たない円を思い浮かべられるか?」との問いかけと「クレム・ド・ラ・クレム」(クリームの中のクリーム)=「人生のクリーム」との兼ね合いが提示される―。

 

 

 

第3話はもっと直接的だ。「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」。想像上のレコードのライナーノーツに関連した2つの後日談が語られる。

 

この世には不思議と、このような天才が少なからず存在するものだ。

 

「夢の中」でバードが演奏してくれたボサノヴァの名曲。「コルコヴァド」。

「現実世界」ではスタン・ゲッツ(ts)のライヴ盤で―。

 

 

 

 

 

第4話もそうだ。「ウィズ・ザ・ビートルズ」(With the Beatles)。

 

このLP盤を抱えた少女と偶然すれ違う―。後に「僕」にはガールフレンド

ができるが、話はむしろ、ビートルズでもガールフレンドでもなく、その兄が

持つ「秘密」に向けられてゆく。18年後偶然その兄に出会い…。

 

この短編だけ、何故か他の短編のほぼ2倍の量の50ページ近くが捧げられている。

 

 

 

 

第5話は「ヤクルト・スワローズ詩集」。第1話では「短歌」だったが、この度は「詩」だ。村上春樹自身公言しているほどの「ヤクルト」ファンらしい。そしてここで語られているのは、ほぼ完全にノンフィクションの自身の回想録である。ここには4編の詩が紹介されているが、僕は「外野手のお尻」という詩が印象的だった―。

(村上春樹が言うには、「外野手のお尻」の話なら一晩かけても出来るらしい)

以前、監督が選手のスカウトに行く時に、その母親のお尻を見るらしい、という話を思い出したからだ(明石家さんまがTVか何かで言ってたような気がする)。

確かに身体能力は遺伝する。そのような「観察」は選手の潜在能力を見極める1つの(秘密の)方法なのかもしれない―。

ある脳科学者の見解だと、お尻と太股の脂肪の中の「ある物質」は、脳そのものに見られる物質とほとんど同じようなのだ。なので、ヒップが豊かな女性から生まれた子供はIQが高く、脳力も優れているらしい―。

 

僕も、何だかんだ言って、お尻についてそれなりに語っているようである―。

 

 

 

 

第6話は「謝肉祭」。この本の購入の直接のきっかけになった短編だ。村上春樹の小説に出てくる「女性」は美人が少ない。大概主人公と思われる男性と関係を結ぶことになる女性は「普通の」(つまりどこか「不均等」な要素を抱えた)女性であることが圧倒的に多い。ただ、真実への「導き手」という役割を担う女性(少女)は透明な美しさを持った美女(美少女)が多いように思う―。

この短編に出てくる女性は「醜い」女性というかなり思い切った表現をしている。作家自身その表現についての「言い訳」をしているが、それだからこそ「謝肉祭」での「仮面」のメタファーが生きてくるのかもしれない。後に意外な形でその「仮面」の素顔が明かされることとなる。

 

コンサートで知り合い、意気投合した「僕ら」は、2人だけの「謝肉祭」同好会を企画する。42枚の「謝肉祭」を聞き終えて彼女が選んだのはミケランジェリ盤(EMI)であり、「僕」はルービンシュタイン盤となった(実際「検索」をかけると120種類以上の演奏が存在するようだ)。

 

僕なら誰の演奏を選ぶだろうか―多分現在入手しているデームス盤で満足だろう。そもそも「無人島の1曲」として選ぶほどの愛着は持っていないように思うからだ。ただ、ルービンシュタインかミケランジェリか―と問われれば、迷うことなく後者を選択するだろう。ルービンシュタインの大らかで健康的でブリリアントな音より、ABMの神経質で硬質のクリスタルのような美音に魅せられてしまうから。

 

同じ「謝肉祭」でも、こちらのもう1つの「謝肉祭」の方が遥かに好きだ―。

「ウィーンの謝肉祭の道化」Op.26。ABMの1973年東京でのライヴより。

強靭で美しいピアノが聞ける―。

 

 

小説の中で「彼女」が語る言葉で印象的なものがある―。

ホロヴィッツがラジオ放送のため、シューマン/ピアノ・ソナタ第3番を演奏した時の逸話。ラジオを聞いたホロヴィッツは頭を抱えて意気消沈し、「ひどい演奏だ」と語ったという。そしてこう付け加えた。「シューマンは気が狂っていたが、私はそれを台無しにしてしまった」。

 

『「これ、最高に素敵な意見だと思わない?」「素晴らしいは同意した。

 

僕も全くその意見に同意する―。ホロヴィッツの忌憚なき意見に、心を込めて1票―。

 

 

 

ちなみに、「謝肉祭」については以前のブログに記している。

 

 

 

 

 

 

第6話「品川猿の告白」はなかなかに面白く感じた短編だった。「品川猿」は村上小説に親しんでいる者には「羊男」に次いで(?)知られているキャラクターだ。「東京奇譚集」(2005)に初めて登場する「品川猿」。品川区の御殿山で飼われていたというその猿には特殊能力があり、その謎と「彼」の遍歴が今回明かされることになる―。

 

「品川猿」が聞いて元気をもらっていたというブルックナー7番のスケルツォ。

シノーポリの個性的な指揮も「さる」ことながら、シュターツカペレ・ドレスデン

の深々とした響きが実に素晴らしい―。

 

 

プラトニックな愛のカタチとして、これまで7人の女性を愛し「名前を盗んで」きた「品川猿」。その名前たちを糧にして残りの人生(猿の人生?)を歩んでゆく、と心情を語る「彼」に、僕も少し感じ入ることがあったことを白状しなければなるまい。もっとも、僕には「特殊能力」はさらさら無いはずではあるが―。

 

 

 

 

最後の第8話は本のタイトルとなった「一人称単数」。書下ろしの新作である。

この話だけ、「音楽」の痕跡が見いだせない。印象に残るのは「スーツ」。そして「彼女」の言い放った「恥を知りなさい」の一言だ。この言葉は最後にもう一度繰り返される―。

全体のタイトルを示す点では「本編」とも言うべきものなのかもしれないが、不思議と全体の「エピローグ」の印象が強い。そしてその印象は苦く、後を引くものがあるのだ―。

何とも居たたまれなくなる―。こう感じるのは僕だけだろうか?―と共感してくれる人を(共犯者を)探したくなる心境に囚われそうになる。言い訳をしたくなる。つまりは、自分の弱さと向き合うことになるのだ―。

 

 

 

 

一人称単数とは世界のひとかけらを切り取る単眼のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、単眼はきりなく絡み合った複眼となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。(…)そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?

 

一人称単数の世界にようこそ。