読書録:「なぜ日本人は学ばなくなったのか」齋藤孝 | 隠居ジイサンのほんわか日誌

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九州北部の街で、愛するカミさんとふたり、のんきに暮らしているジイさんの記録

15年以上前(2008年)に出版された本ですが、現在は、この本に書かれている以上に「日本人のバカ化」が進んでいるように思えます。

かなり刺激的な内容の本です。その証拠にポストイットがベタベタ(笑)。

著者の齊藤孝さんは明治大学教授。専門は教育学・身体論・コミュニケーション論。「声に出して読みたい日本語」などのベストセラーも著しています。日本語や読書、身体論についての著作を何冊か読んだことがあります。共感することが多い学者さんです。わかりやすいけれど、内容は刺激的です。これまで読んだ本の語り口には、難解な言葉もなく、論理的でソフト、明るい感じの印象を受けていたのですが、この本は、非常に厳しく重い筆致で書かれていました。それだけ、日本人の知力と教養、思索するパワーが落ち、現在・将来とも危うい状況にあるということなんだと思います。身体に喩えてみれば、小手先の技術はうまくなったものの、基礎となる体幹、体力がないというようなことなんでしょう。

 

齊藤教授がこの本でいう「バカ」とは、今の大多数の日本人を覆う「自らの無教養に対する羞恥心のなさと、開き直りの態度」のこと。ざっくばらんに言うと「難しい勉強するのはしんどいし、めんどくさいし、すぐには役にたたんし。とりあえず、スマホ見て、ゲームして、マンガ読んで、楽しいことしよっと。苦労せんでも、ちょこっとバイトすればコンビニ弁当で腹は満たせるからなぁ。そんでもって、ラクに生きて、人からバカっていわれても、ぜんぜん気にならんからなぁ」ということでしょうね。

現役の大学教員として、そういう学生・・・日本人全体としても・・・が大多数だと感じているのだそうです。本を読まなくてもいい、教養なんて不要、スマホとアニメとゲームで時間をつぶし、友人とのつきあいも表面的。夜を徹して「人生とはなんぞや!」なんていう青臭い議論をする機会も経験もない。社会に出てから「あなたは大学でいったい何を学んできたのですか?」、「そんな常識的なことも知らないのですか?」といわれても平気ということですね。東京六大学のひとつである明治大学でさえ、そうなんだ。

かつて、外国からは「日本人=勤勉」と評価されていたものが、いまや日本人の大半は「学ぼうとせず、ひたすら受け身にふけるあり方」になり、勤勉だった日本人は「学び嫌いな日本人」になったと分析しています。さらに、現代の日本は、教養に対するリスペクトが欠けている時代であり、一般教養の軽視が、精神的なタフさ、思考することを厭わない粘り強さ、勉強することを楽しむ向学心を奪い、将来の日本を危うくすると訴えます。

現に日本は、経済活動でも国際的ランクが下がっています。報道によると、GDP(国民総生産)ではドイツに抜かれ4位に転落するのが確実だとか。近い将来にはインドにも抜かれるでしょう。

世界各地で紛争が起きても国際的な発言力はなく、おだてに乗ってお金だけ出させられる。

子どもの学力低下も著しく、大学の国際的評価はどんどん下がり、研究論文の引用数も減る一方だとか。

いまや、日本は、車とゲームとアニメだけの国?

・・・そうですね。当たってる。

ゲームもアニメも今の日本にとってはとても大事なコンテンツだけど、それだけじゃリスペクトされる国とはいえないですからね。

 

この本を読んで「一億総白痴化」という言葉が浮かんできました。評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」といいう語を作ったのが1957(昭和32年)。テレビが普及してきた68年前のこと。大宅は、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という指摘をしています。

1957年は、わたしが生まれた翌年のことです。そのころからもう「日本人のバカ化」の進行が始まっていたのか!

・・・ということは、わたしらの世代は「バカ化」とともに育ってきたんやな(苦笑)。

 

この本では、かつての旧制高校の学生が読んでいた本が多数登場します。旧制高校といえば、いまでいうエリート大学ですね。

ゲーテ ニーチェ フロイト サルトル マルクス ドストエフスキイ 西田幾多郎 和辻哲郎・・・・みんなが読んでいたのは岩波文庫。字が小さい!

日常のことにだれもが心が奪われているときに、自分だけはひとり踏みとどまって「思索」をつづけるには、若いころに「正統な哲学」を学び、自らの中の「哲学」を鍛えることが必須だったといいます。それが、今もむかしもエリートの条件。ほんとうに価値のあるエリートさんは、お金儲けだけじゃないんですね。・・・自M党の安B派の議員さんの多くは優秀な大学を出ているようですが、そんな「正統な哲学」は身につかなかったようですね。

・・・マルクスは「資本論」の入り口でつまづき、西田幾多郎にはまったく歯が立たなかったわたしに偉そうなことは言えませんが。

大学のゼミで担当のT教授から「マルクスの本を読んだことがある人はいますか?」という質問がありました。わたしが得意げに「はい」と手を挙げると、「なんという本を読みましたか?」と聞かれたので、「『共産党宣言』です」と答えたら、T教授いわく「あぁ、共産党宣言ですか? でも、あれは本ではありません。宣伝用のパンフレットのようなものですよ」と軽くあしらわれたのは、50年経ったいまでもよく覚えています(苦笑)。そういえば「共産党宣言」って、現代のコピーライターが書いたような刺激的な言葉の連続で、本の体裁としては、短いっちゃ短い。

(※「共産党宣言」はカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの共著です)

・・・昔の人は、学ぶ意欲が強く、辛抱強かったのですねぇ。

 

この「日本人のバカ化」を阻止するにはどうしたらいいかのか?

齊藤教授いわく、「とにかく読書読書読書・・・」。字が読めるようになったら、むりやりでも読書をさせること。

強制的に本を読ませること。

学校の授業で「読書」という教科を設けること。

そして通信簿で採点もすること。

子どもに忖度をする必要はない。それが最大最高のやり方。

人間は言葉で考え、言葉で行動する。日本人なら日本語で考え、日本語で行動する。読書することで、言葉・知識・教養という基礎体力をつけておけば、苦しくても息切れすることなく何にでも応用が利く。どんな場面でも堂々とふるまえるし、どんな人とも臆せずに接することができる、というような意味のことが書いてありました。

 

勉強するにも体力が必要です。だから若い時におおいに学ぶべし。さらに、学ぶことに遅すぎることはないと説きます。仕事をリタイアし、「現役時代は仕事で忙しかったが、もう一回古典文学を読んでみたい」という人も多いそうです。

「このまま一生、『奥の細道』を読まずに死ねるか」←本好きとしては、この一文は、ちょっと泣けましたね。

「奥の細道」は原文で読みましたから、あたしゃあ、もう死んでも悔いはない(笑)。

 

たまには、こういう背筋がピシッと伸びる本を読むのもいいですね。

「○○殺人事件」のような娯楽本ばかり読んで「バカ化」しつつあるわたしは、反省しきりでございました。