叡福寺(聖徳太子 御廟) | 尚吾の「人生七転び八起き」

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バレーボールと体の鍛錬、休日は、秘仏拝観、社寺仏閣巡りを楽しみ、美味しいお店に出没しています。(*^_^*)

11月1 日は、河内長野市に!

 

 pizza ランチ 

 

 

 

お墓参り 

 

 

 

天野山 金剛寺 

 

 

 

 

もう一つの目的地

太子町にやって来ました。

 

ここも以前から

一度来たいと思っていた寺院です。

 

 

磯長山 叡福寺

(しながさんえいふくじ)

 

「聖徳皇太子磯長御廟」の石碑

 

 

叡福寺は、推古天皇30年(622年)

旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)

 

太子が49歳で薨去された後、

 

前日に亡くなった妃 膳部郎女

(かしわべのおおいらつめ)

2か月前に亡くなられた母 穴穂部間人皇后

(用明天皇皇后、あなほべのはしひと)

 

と共に埋葬され、

 

推古天皇より方六町の地を賜り、

霊廟を守る香華寺、僧坊十烟(墓守の家10軒)

を置いたのが始まりです。


神亀元年(724年)には聖武天皇の勅願により

七堂伽藍が造営されたと伝えられます。

HPより引用

 

 

 

聖徳太子1400年、御遠忌大法会

のイベント中に来たかったのですが

日が合わず今日になりました。

 

 

南大門

 

 

左右に金剛力士像

東大寺などに比べると可愛いサイズです。

 

 

 

 

「聖徳廟」の扁額が上がっています。

 

 

手水屋

 

 

 

叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として

歴代の天皇や権力者に重んぜられ、

 

平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、

平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。

 

また聖徳太子は仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。

 

空海・良忍・親鸞・日蓮など新仏教の開祖となった僧たちが、墓所があるこの寺に参籠した。、

 

法隆寺、四天王寺と並ぶ大使信仰の中核。

 

 

天正2年(1574)の織田信長による兵火で

大きな被害を受け、古代の建物は焼失。

 

その後、後陽成天皇の勅願により

豊臣秀頼が伽藍を復興し、

 

慶長8年(1603)に聖霊殿が再建され、

慶長年間(1596 - 1615)に再興されている。

 

 

多宝塔

 

 

金堂

 

 

バスの団体さんはお堂内に入られていました

でももう既に扉は閉まっていました!

(許可が要るんでしょう、残念です)

 

御本尊は、如意輪観音坐像

脇には、愛染明王、不動明王

 

 

後ろの山は、「叡福寺北古墳」

 

聖徳太子御廟 です。

 

 

御廟の入り口です

 

 

 

 

 

「三骨一廟」と呼ばれ、

 

聖徳太子

母・穴穂部間人皇女

妃・膳部臣菩岐々美郎女

 

の3人が埋葬されている。

 

 

二天門

 

西に増長天、東に持国天を安置

1688年 再建

井南藩主、高木主水正の御寄進

 

 

増長天

 

 

持国天

 

 

 

聖徳太子御廟前には香炉が置かれていて
お線香をあげてお参りしました。

 

 

叡福寺北古墳と呼ばれており、

その直径は50メートル前後、

高さ7メートルから成る巨大な円墳。

 

南に面して横穴式石室が築かれており、

石室内には太子のほかにも

母の穴穂部間人皇女

(あなほべのはしひとのひめみこ)と

妻・膳部臣菩岐々美郎女

(かしわでのおみほききみのいらつめ)

が埋葬されているといわれます。

 

宮内丁の管轄

中には立ち入れません

 

 

宮内庁の制札板

 

 

推古天皇皇太子聖徳太子

磯長墓

 

 

御廟の門には、天皇および皇室を表す

十六葉八重表菊の御紋

 

 

横穴式石室の入口は

唐破風の屋根を持った御霊屋が

覆っています。

 

一重目の屋根の下には

木彫りの阿弥陀三尊が掲げられてます。

 

 

「聖徳皇太子磯長墓」の石碑

 

 

聖徳太子は

敏達元年(574)、飛鳥の地に誕生、

 

20歳で伯母である

日本最初の女帝推古天皇の摂政となり、

 

32歳の頃(推古12年)には

日本最古の憲法「十七条憲法」を制定。
 

第一条

「和をもって貴しとせよ、

忤うことなきを宗とせよ」

という有名なことばから始まり、

 

第二条

「篤く三宝(仏、法、僧)を敬え」と続き、

仏の教え(法)のもとに自己を尊重し、

信念を持って他人と人間性を認め合う

「和」の精神を示されました。 

 

また、第十条には

「われかならずしも聖にあらず。

かれかならずしも愚にあらず」と、

 

人間はみな平凡な存在なのだから

重要なことは対話を通じて

真理に近づけて決めようという対立融和を説き、

人間社会のすすむべき道を示されました。

Web参考

 

 

 

 

御廟の横にある石碑

 

聖徳太子廟窟偶

大慈大悲本誓願   愍念衆生如一子
是故方便従西方   誕生片州興正法
我身救世観世音   定慧契女大勢至
生育我身大悲母   西方教主弥陀尊
真如真実本一体   一体現三同一身
辺域化縁亦己盡   還帰西方我浄土
為度末世諸衆生   父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟   三骨一廟三尊位
過去七佛法輪處   大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣   決定往生極楽界
 
 
石碑に掘られていますが
少し崩れている部分もあります。

 

 

意味は・・・、

御母・穴穂部間人皇女は、

阿弥陀如来

 

御妃・膳部臣菩岐々美郎女は、

勢至菩薩

 

太子が

観世音菩薩の化身とされる。

 

当地が大乗の教えを説く最適の地であり

一度この御廟を参詣すれば極楽浄土に行ける

 

 

境内には諸堂が立ち並んでいます。

 

弘法大師堂

 

 

 

 

  浄土堂

 

 

 見真大師堂

 

 

寺務所で御朱印をいただきました

 

 

今年は、

聖徳太子1400年御遠忌特別御朱印

もあります。

 

 

 

私は通常の御朱印をいただきました。

「聖徳廟」

 

叡福寺 

 

 

 

 

聖徳太子御廟所 上之太子 叡福寺

 

住所 大阪府南河内郡太子町太子2146

電話 0721-98-0019

 

 

 

追伸:

 

過去訪問した、用明天皇陵

(聖徳太子のお父様)

 

推古天皇陵

(聖徳太子の伯母、用明天皇の妹)

 

にも行きたくなって参拝

 

車で2~4㎞圏内です。

 

 

 

用明天皇陵

 

2020年3月30日以来、2回目

 

 

 

推古天皇陵

 

2020年3月30日以来、2回目

 

 

 

 

 

推古天皇陵古墳全景