・はじめにコトバあり

 物質発生以前の宇宙と言うものを考えてみると、其処にはもちろん「物質」なるものは存在しなかったのである。

 

そこには、霊がまだ物質的なものと見える如き波動は起こしていなかったのである。即ち真空だったのである。

 

併しそれはただのカラッポではなく、不生の大生命が確固厳然として存在していたのである。

 

 不生の大生命が動き出したのが所謂コトバである。

 

これが「初めにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき」

 

と新約聖書のヨハネ伝に書かれている処の真理である。

 

ただしこの言葉と言うのは、まだ物質発生以前の「はじめの言葉」であるから、

 

物質発生器官を通して現れて来たコトバではないのである。

 

発生器官に現れる以前のコトバ、即ち想念であったのである。

 

即ち真空と見えている不生の生命が想念によって動的に動き出して波動を起こしたのである。

 

これが「神の心動き出でてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る」である。

・先ず神の国を求めよ

 

 真空は何もないどころか、真空こそ万物を現在ある形に保っている処の智慧であり、力で有るのである。

 

原子を形造っている原子核と電子との間に存する真空の形が崩れてしまったら、

 

原子は崩壊してしまうのであり、太陽と遊星との間を埋めている真空が崩れてしまったら、

 

太陽と遊星は、互いに連絡し得ないで、飛び散ってしまうか、

 

真空の形の崩れるままに太陽と遊星とは密着してしまうかするより仕方がないのである。

 

 兎も角、真空は何もない空間ではなく、霊と言う無限の智慧と無限の力が包蔵されており、

 

その霊の世界に於ける理念(精神的原型)が形の世界に時間的順序配列をもって恰もフィルムの世界に既に存在する光景が映画館の銀幕に時間的順序をもって一コマ一コマ展開して行くような具合に現れているのである。

 

だから吾々が可視的世界(肉眼で見える現象世界)に幸福や健康や繁栄を実現しようと思ったならば、

 

先ず不可視の霊的世界に、その幸福や健康や繁栄を心で描いておかなければならないのである。

 

現象界の物質的利益の追求よりも「先ず、神の国を求めよ」とはこのことである。

 

・真空即妙有

 

 人は自分の想念を如何にもつかによって、或る人は地獄を人生に創造し、或る人は天国を人生に創造するのである。

 

何故そのようば事になるかと言うと、この宇宙は、物質でつくられたものではなく本来、

 

霊的な存在であり、霊は普遍的な智慧であり、その霊の波動が可視的な物質として現れている部分と、

 

不可視的な超感覚的な空間の如く現れている部分とがあるので、

 

個々の可視的存在が、個々別々に何の関係も無く散在しているかの如く見えているに過ぎないのである。

 

 真空の如く、単なる空間として見えているところにも普遍的な知恵や愛(相互牽引力・万有引力)が働いているので、

 

太陽と遊星との間や、原子核と電子との間には空間があるにもかかわらず、互いに飛び散るという事がないのである。

 

仏教でいうところの「真空即妙有」である。単なる真空というようなカラッポは実は存在しないのであって、其処には万有を一つに結ぶ霊が存在するのである。

 

その霊の中に吾等は生活し、行動し、存在を保っているのである。

・内を見る力

 

 人間は自己の内に無限を蔵し、発掘し得る無限の可能性としてそれを内に貯えているのである。

 

五官の感覚は外を見るために発達した器官であるが故に、内を見る力を欠いて、

 

自己の実相の無限力を見る事が出来ないで、恐怖心や遅疑の心に満たされるのである。

 

自己を内観することによってのみ、実相の無限を自覚する機会を得るのである。

 

内観しない者にとっては、実相を観る道は完全にふさがれて、

 

打ち勝ちがたき鉄壁として「物質の世界」が立っているのである。

 

 多くの人達は、この「物質の鉄壁」の中に閉じ込められて自由を失って、

 

恰も囚人の如き自由無き生活を送っているのでる。

 

「働けど働けど尚我が暮らし楽にならざり」と言う啄木の如き嘆きは、

 

此の「物質の鉄壁」を乗り越える事の出来ない人々の嘆きを代表しているのである。

 

物質の鉄壁は外に向かって打ち破ろうとしても打ち破る事のできない壁である。

 

ただ内観によってのみそれを超え得る。その内観こそ神想観である。

 ・蒔かぬ種子は生えぬ

 

 この原因結果の法則は、人間が人間の定めた法律の網の目をくぐるように、

 

原因結果の法則をくぐりぬけて「悪い事」を想念しながら「善い結果」を得ようとしても、

 

決してそのような狡い事は許されないのであり、善因には必ず善果があり、

 

悪因には必ず悪果があるのである。これを仏教では「因果くらまさず」と言うのである。

 

 日本の諺に「蒔かぬ種子は生えぬ。蒔いた種子は生える」と言うのはこれである。

 

そして茄子を蒔いたら、その茄子の種子からは茄子が生え、茄子の実を結ぶのであり、

 

瓜の種子を蒔いたら、その瓜の種子からは瓜が生え、瓜の実を結ぶのである。

 

「瓜の蔓には茄子は生えぬ」と言う諺がある所以である。

 

 キリストはこの真理を「汝の信ずる如くなれ」と言うことばや「汝の信仰汝を癒せり」と言う言葉や

 

「もし辛子種ほどの信だにあらば、この山に動いて海に入れということも必ず成らん」

 

と言う訓えをもって示しているのであり、仏教ではこれを「三界唯心」の言葉で表現しているのである。

 

 

・人生は想念の総決算

 

 この世界には、原因結果の法則、と言うものがあるのである。

 

それは、物質の世界、に於いても、このような原因をつくれば結果はこうあらわれるという、

 

自然の法則、というものがあるのであるが、

 

吾々が運命を支配する上に重要なのは、物質の世界にある物質の移動(原因)が、

 

他の物質にこんな結果を及ぼすという物質的な因果関係よりも、

 

心の世界にあるもの(原因)が、物質界にこのような結果となって現れるという因果関係の方なのである。

 

 心の世界にあるものとは、「想念」即ち「心に想うこと」である。

 

「心で想うこと」が「影の世界」に結果としてあらわれるのである。

 

吾々がこの人生に於いて如何なる幸福な生活を送ることを得るか、

 

悲惨な生活をおくらねばならぬかは、

 

吾々が常に何を想念しているか、一日の内の大部分の時間に何を考えているかによって決まるのである。

 

人間の運命は常に吾々が何をより多く想っているかの総決算が、毎日弾き出されている訳である。

・ 逢引の 言葉の響きの 心地よさ 八十路の吾にも 春は来るらし

 

・ 野仏の 赤き前垂れ 真新し 遍路の古道に 早蕨萌ゆる

 

・ 目に浮かべ 確かめ確かめ 巡る旅 妻逝きて早や 一昔にも

・野仏の 赤き前垂れ 真新し 遍路の古道に 早蕨萌ゆる

 

・野に出でて 梅に蝋梅 水仙と 春を手折れば 食卓華やぐ

 

・野仏に 出会い目を閉じ 黙すれば 蝋梅薫る 遍路の小路

 

・冬日和り 御堂で坐すれば 春近し 梅の香りと メジロの声が

・人間智慧を加えず

 

 人間の幸福と言うものは人間自身がつくるのではないのである。

 

人間自身の知恵巧者によって幸福が創られると思って色々と人間智を 働かせて工夫することを「旧約聖書」においては、

 

アダムとイブとが「智慧の木の実」を食べてエデンの楽園を追放されたと言う心象的神話によって描かれているのである。

 

 幸福というものは、日本語のその語源の「サイワイ」が「先(さき)延(は)え」とあるのでも判るように、

 

神の生命(智慧、愛等を含む)が前方へ延長してきたのが幸福(さいわい)であるのである。

 

エデンの楽園に人間が生活していた時には、アダムとイブとは裸であったと聖書に記されているのは、

 

人工を加えず人間の智慧巧者で徒らなる工夫を加えなかったという意味であるのである。

 

人間の愚にもつかない智慧えお加えずに、其の儘、神の計画に随順するとき、

 

その人は本当の「幸福世界」(エデンの楽園)に住むことができるのである。

・人生を闘いと思うべからず

 

 生活と闘っていると言うような人生観を持ってはならない。

 

闘いというものは常に勝敗を予想しているものであるから、

 

つねに警戒し常に恐れ、常にいらいらしていなければならない。

 

その様な気持ちでは、真の平和も幸福も来たらないのである。

 

 或る西洋の光明思想家の詩に「われは戦いをたたかえるに非ず、われは我が歌を歌うなり」と言う句があるが、

 

そのような気持ちこそ、本当の人間の生活なのである。

 

 「法華経」の「自我偈」には実相世界の状態を描いて

 

「諸天、天鼓を打ち…衆生の遊楽するところなり」と書かれているのである。

 

其処に刻苦闘争の姿などは少しも暗示されていないのである。

 

ただ自分の好む歌をうたうように、ただ楽々と、

 

与えられた天地に与えられた使命を実践しておれば一切の善きものが整う如き有様が描かれているのである。