何よりも大切なのは、我々の生活になくてはならなぬ全てのものが、

 

実はその本源が神より来たるものであることを知る事なのです。

 

それを本当に知った時、真実神への感謝の念が起って来るのです。

 

神への感謝の念が本当に起こって来た時、我々の精神波動が、

 

神の国、と完全に霊交し得る精神波動となって来て、神の国に在る処の健康、財福、希望実現、

 

その他あらゆる善きものが実現化する事が出来るようになるのです。

 誰だって自ら進んで気苦労したい者はないし、心配や取り越し苦労したい者はないのであるが、

 

気苦労しまい、心配しまい、取り越し苦労はしまいと思っても、

 

いつの間にか色々と心が苦労するのを止める事ができないのが普通である。

 

 家族の一人が得手勝手な我儘な事をすると言っては、それに引っかかって苦しみのである。

 

息子が贅沢をすると思っては心が引っかかる。誰かが病気になるかと思っては心配になる。

 

 しかし心配したり、怒ってみたり、イライラしたところで問題の解決には何の役にも立たないのである。

 

それは問題を益々解決困難に持ち込むだけの事である。それよりも心を平和にして問題の核心を掴み、

 

何処にその問題という現象が現れる処の精神的原因があるかを明らかにし、

 

その精神的原因を除去すると共に、心を神に振り向け、神から問題解決の智慧の導きを受けるように、

 

神想観して祈るがよいのである。

 我々人間は、神の子で有り、自由意思を与えられており、

 

自己の運命を如何に決定するかの自由選択の権利と、

 

その選択したものを実現する為の道具とを与えられているのである。

 

その道具と言うのは他でもない、自己の「想念」と「言葉」と「行動」である。

 

 吾々は積極的な建設的な明るい想念と言葉と行動とによって幸福な善き運命を造り出し、

 

消極的な暗い想念と言葉と行動とによって不幸な悪しき運命を造り出すのである。

 

 吾々が善き想念を作り出そうと思うならば、現実の不幸や病気などに心を振り向けていてはならないのである。

 

先ず、神の方へ心を振り向け、神の持ち給える凡ゆる善き性質を思い浮かべ、

 

それを讃嘆し、それに感謝する想念を起こすようにするがよいのである。

 人間の悩みの多くは、他の人の思惑を気にするところから出て来るのである。

 

人が何とか思いはしないだろうかとか、人が自分にケチを付けはしないだろうかとか、

 

他の人に負けてはならないとか、大体、人間相手の虚栄心から起こって来るものなのである。

 

 虚栄を去り、見栄を求めず、競争心を無くして、唯、神を表現しようとした時に、

 

始めてその人は心の自由を得るのである。

 

自己の生活に神を表現する事だけが魂の悦びとなるのである。

 

そして、唯、与える自分となるのである。

 

しかも、与えるという自負的な感じすらなくなってしまうのである。

 

無我、無私にしてただ神のみがその人の生活に実現するようになるのである。

 貴方が若し縁談が遅いならば、愛の表現が足りないのである。

 

愛を求めるよりも、先ず愛を与えなければならないのである。

 

与えられたものが与え返されるのが心の法則であるのである。

 

貴方は自己の内に宿る「愛」に表現の道を開きなさい。

 

貴方は自己の内に宿る「神の愛」を愛し、それを生き生きと実生活に表現しなければなりません。

 

貴方が愛を求めている様に、貴方の魂の半分である人も、やはり愛を求めているのです。

 

それにも関わらず、二人が相合わないと言うのは、愛の表現が足りないからです。

 

もっと自由に愛を表現しなさい。

 

 

 職業を求めている人が、職業を得られない場合に、誰も雇ってくれなくとも、

 

目の前にある色々の人のためになる仕事ー先ずガラス拭きとか、廊下の掃除とか道路の掃除とかー

 

を真剣に「有難うございます」と唱えながら奉仕していると、

 

自然に其の人に職業が与えられる実例があるようにあなたが愛を求むれば、

 

先ず、神を愛し、神の愛のために報いを求めず愛する事を実践するがよいのです。

 

隣人の幸福になるために愛を実践するのです。やがて時が来ます。

 

互いに半分であr、求め合っている二人が相会う時が来るのです。

 我々の生活に、どんなに多く、大自然の恵みを受けているか、衆生の恩を受けているかを顧みよ。

 

あまりにも私達は受けている恩恵に対して鈍感であり過ぎたのである。

 

それらを当然の事、当たり前の事として感謝する事を忘れていたのである。

 

あまりにも自分が受けていた恩恵に対して気が付かな過ぎたのである。

 

 何事でも気が付かない時は、それが存在していても「無い」のと同じ事である。

 

自分のポケットに百万円の小切手が有っても気が付かなければ、その小切手は無いのと同じことである。

 

では大自然の恵みも、衆生の恩も、父母の恩も国家の恩も気がtかなければ、それは無いのと同じことである。

 

「有る」ものに気が付かなければ盲人と同じことである。私達は盲人になってはならないのである。

 

全ての恩恵を認めた時、私達はその恩恵の所有者となるのである。

 五官の感覚は外から事物を観察したり認識するだけであるから、

 

その内部がどのような霊的ハタラキが動いているかを知る事が出来ないのである。

 

種子を土の中に埋めるならば、その種子は発根し、発芽し、双葉を生じ、茎を伸ばし成長する。

 

それは科学的に観察する事が出来、

 

その内部的な呼吸作用や同化作用も或る種の実験方法や計測を利用して認める事が出来るけれども、

 

「何が」種子を発根させ発芽させ、その芽を生長させ、

 

その生長の必要な成分を土壌の中から選り分けて吸収し、吸収して成分を、

 

何が自己薬篭中のものとしてそれを同化し、

 

それを葉や花や果実とするハタラキを起しているのかを五官認識による科学をもってしても知る事は出来ないのである。

 

それが「生命」と言う霊的実在のハタラキであることを知ることが出来るのは霊的直観によるのである。

 問題が起こって悩んでいる人に個人指導を求められたりする

 

ーこの問題が病気であろうが経済問題であろうが、何か他の不幸な災厄であろうがーそれは同じ事である。

 

「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」と私たちはイエスと同じことを言うのである。

 

全ての困難も障害も、神はそんなものは造らないから、本来の意味に於いて、そんなものは無いのである。

 

此の事を知る事が真理を知ると言う事である。この真理を本当に知った時、解決できない問題は無いのである。

 神想観を実修するのは、神の国が、今、此処に、

 

自己の内に既にある事を全身全霊をもって体感せんがためなのである。

 

内在の浄土を即身そのままに顕現せんがためである。

 

イエス言わく「神の国は此処に見よ、彼処に見よと言うが如くに非ず、汝の内に在り」と。

 

また釈尊は「極楽は此処を去る事遠からず、観ずれば現れる」と教えられたのである。

 

二人の説き給う事、共に真実であるがゆえに軌を一にして、共通しているのである。

 

今、此処に、内在の浄土があり、内在の神の国があるのである。

 私達が、神想観を実修するのは、「南無阿弥陀仏」と念称名念仏し、または神想観し、または写経し、

 

又は真理の聖典を読むのは、この肉体が極楽世界へ行くためではないのである。

 

自分自身が肉体的存在であると言う五官的認識を超えて、自己が神の子で有り、仏子であり、

 

さらに神そのものであるところの霊的、実相の自覚に到達せんがためである。

 

更にそれを言い換えれば、物質の世界から去って、神の国に入らんがためで有るのである。

 

それ故に神想観の時には「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じ、

 

神の国を如実に心に描いて、それを「神の無限の智慧と愛と生命と供給と歓びと調和の満る世界」

 

である実相世界を観ずるのである。

 

その結果、病気が治ったり運命が好転したりするのは、実相世界には病気や不運等は無いから、

 

自然にその実相があらわれるのであって、病気治しや運命好転のマジナイ的修行では無いのである。