不完全なものがいくら集まっても完全になることは出来ないのである。

 

雑草がいくら沢山集まっても稲作がよくなるわけではない。

 

もし雑草の中から稲が生い出て来て、其処からお米が収穫できるならば、

 

それは雑草の中に初めから稲の種が混ざっていたからある。

 

 私達がだんだん進歩し向上していくのは、雑草の種を積み重さねていくことによってではなく、

 

自己の内に神の子の種子が宿っていて、それが芽を吹き、徐々に成長して行くからなのである。

 

この、神の子なる神聖種子を、内在の仏性とも内在のキリストとも称するのである。

 

宗派によって語彙が異なっていても、その本当の意味は同じことである。

 

語彙の相違によって、中身まで相違すると思って宗派争いをしている人があるのは気の毒である。

 般若心経は、顛倒夢想を遠離するために、観世音菩薩が深般波羅蜜多の行を修せられた事が書かれているお経である。

 

深は深遠なる修行で有ると言う意味の形容詞である。

 

般若とは、智慧の悟りであって、それを瞑想するのが、般若波羅蜜多の深遠なる修行である。

 

観世音菩薩はこの深遠なる修行において何を瞑想されたかと言うと

 

「五蘊皆空」と瞑想し、「無 眼耳鼻舌身意」と瞑想せられたと書かれれいる。

 

五蘊とは五つの蘊、即ち、波動の集積的存在である。

 

それは「色・受・想・行・識」の五つであり、「色」は物質の事、後の四つは「受・想・行・識」は心の動きである。

 

それらの五つのものはアルかの如く感じられるけれども「皆空」、

 

即ち皆、空の空なる虚しきものであると観じられたのである。

 

さらに此れを人体について言えば「眼・耳・鼻・舌・身」と言う物質的存在及び

 

「意」と言う精神的存在も「無」であるとて「無  眼・耳・鼻・舌・身・意」と観じられたのである。

 

この全的大否定によって、「三世の諸仏」は迷いの根因なる現象的存在をアリと見る根本無明を断ち切り、

 

仏陀たる悟りを開かれたと言う事が「般若心経」の大意である。

 実相世界は、現実世界に比べて超高度の周波数の世界であると言う意味に於いて、

 

高きものを仰ぎ見る感情を表現を含めて、此れを天または天国と称するのであるが、

 

此れを現実世界が出生する元の根底世界であると言う意味に於いて

 

「生みの底」ー海の底=出生の根底ーを象徴する語を用いて「竜宮海」と言うのである。

 

超最高度のコトバ(音)の秘められている世界であるから、

 

多くの「音姫」が奉仕している世界であるように神話では説かれているのである。

 

「音姫」の奉仕を駆使するとき、竜宮無限供給の宝蔵が現実世界に姿を現す事になるのである。

 

 

 竜宮海とは、一切存在の本源世界ー創造の根源ー創生(うみ)の底であり、

 

そこには音姫充満せる世界であり、換言すれば、「コトバの世界」である。

 

 善きコトバの充満している処が天国である。

 

 

即ち、我が心の内に善きコトバが充満した時、天国となるのである。

 

即ち、天国は遠くに非ず、今ここ、我が内に在るのである。

 「天にまします我らの神よ」と言うイエスの祈りの「天」とか「天国」であり、神の国である。

 

何故、天と言う高さを表現する語が用いられたかと言うと、空間的距離において、

 

「高い」と言う意味ではなく、霊的超高周波の世界であり、

 

物質的な鈍重な低周波の世界ではないからである。

 

「天国」とは超高次元の世界である。

 

其処は、霊的波動(コトバ)が最高度に発揮されている世界なのである。

 

 コトバが直ちに形態、または状態として現れる世界なのである。

 

だから「創世記」においては、「神、光あれ、と言い給いければ光ありき」と表現されているのである。

 

それを称して「ヨハネ伝」では、

 

「はじめにコトバあり、コトバは神と偕に在り、コトバは神なりき・・・」と記されているのである。

 

此れが実相世界の状態である。

 

 

  即ち、天国とは、我が心の中に、善きコトバ(神)が満ち満ちている状態の時を言うのかな。

  されば、天国は何処にあるのでもなく、今、此処、我が内に在るのである。

  我れ、幸せなりと思った時、天国にいるのである。

  善きコトバを思うか思わぬかで天国にも地獄にもなるのである。   私見

 

 

 

 全て、迷いは、執着より生じたる心の痙攣状態である。心の痙攣状態が消えたら、迷いはないのである。

 

心の痙攣状態は、「無いもの」を「有る」と思い、「本当に有る実相」を「無い」と思い、

 

「本来無い現象」に心が執着して引っかかるから起こるのである。

 

「無いもの」を「有る」と思い、「本来ある完全な実相」を「無い」と思うのは、それはサカサマで有り、

 

「夢」のようなものであるから、「般若心経」では、「迷い」の事を「顛倒夢想」と言っているのである。

 

私はおおむね「顛倒妄想」と称している。この顛倒妄想を遠離した時、三世の諸仏は、

 

「阿のく多羅三みゃく三菩提」ー無上の悟りーを得給うたと言う事が心経には書かれているのである。

 

つまり、「本来ない現象」を「有り」と妄想して執着する心を捨離する事によって、

 

三世の諸仏は実相の彼岸に到達する事が出来たと言うのである。

 若さの特徴は、前進する力にある。

 

若さを保とうとするならば、常に引っ込んでしまおうと考えてはならないのである。

 

常に物を退嬰的に考えず、前進的に積極的に考えるがよい。

 

 若さの特徴は常に新しきアイデアが生まれて来る事である。

 

新しきアイデアの生まれて来るところに人は老いないのである。

 

だから常に考えを固定した頑固な者とならないで、

 

何事にても、尚一層よきものにしようと常に前進し改造する工夫を心に持つがよいのである。

 貴方が神の子で有り、神と一体である事を完全に自覚したならば、

 

世間の常識的な法則ー人類意識の迷いの信念ーに束縛せられることがなくなるのである。

 

つまり、「こうしたら衛生によくない」とか「人間は四百四病の容れ物」であるとか

 

「冷たい風に当たったら風邪を引く」とか「とかくこの世は思うようにならぬ」

 

とか言う人類共通の迷いの想念に縛られると言うような事が無くなるのである。

 

 貴方が神の子を自覚するならば、「悪が存在する」と言う妄想の世界を超えるのだ。

 

「悪が本来存在しない」ならば、「悪がどうして生じたか?」とか

 

「罪はどうして生じたか」とかの疑問も消える。

 

「悪」には原因も無ければ結果として悪が生じたと言う事も無いのである。

 

唯一の原因者はただ神のみである。そして神のみが唯一の存在である。

 

「唯一の存在」以外に、存在する原因はあり得ようがないのである。

 

だから、罪には原因も無ければ結果もない。ただ無いのである。

 神の創造し給えるこの世界には決して罪は存在しないのである。

 

罪は悪であるから、罪というものは存在しなのである。

 

罪とはものではないのであって、ツツミたる状態である。

 

ツツミにて実相が陰覆された状態がツミである。

 

神の子で有りながら、その実相を包みて自覚しない状態が罪なのである。併し状態は常に変わる。

 

ツツミとツミとは日本語に於いては同一語源なのである。状態は実在でないから常に変わる。

 

ツツミはツボミのようなものである。

 

内に花の実相を含み、次第にそのツツミが開かれて、美しい花の全相が現れるのである。

 

花の全相が開いてしまって時、其処にもう蕾はない。

 

それと同じく、実相を陰覆しないで、それを完全に顕しさえすれば、既に罪は無いのである。

 常に自己が神の子で有る事を忘れず、物思う時には先ず、

 

自分は神の子で有るということを三遍くらい唱えるか、想うかしてから何事でも決定すれが好い。

 

そうすれば貴方の心の中に貧相や病念や禍の想念は決して浮かんでこないであろう。

 

 そして貴方が心(潜在意識を含む)に思わない事は決して貴方の生活に顕れて来ないのであるから、

 

貧乏や病気や禍は貴方の生活に決して入っては来ないであろう。

 

 併し貴方の潜在意識の中に、まだ気づかずに残っている貧相や病念や禍の想念がある場合には、

 

それは依然として具体化する処の潜在エネルギーとして潜んでいるのであるから、

 

貧乏や病気や災害が出た来るかもしれないのである。

 

従って、貴方の潜在意識を浄める必要があるのである。

 

潜在意識を浄めるには、「ただ神のみ善のみ実在する」と言う真理を書いた文章を繰り返し読み、

 

毎日、神想観を修して、その真理を精神統一中に念ずるがよい。

 感謝の功徳は実に数えきれないほど大なるものである。

 

自分の周囲の全ての人々に感謝し、自分の周囲に在る全ての事物に感謝し、空気に感謝し、

 

日光に感謝し、水に感謝し、全ての飲食物に感謝し、全ての什器・調度に感謝するがよい。

 

 さらに仕事に感謝し、自分の境遇に感謝し、僅かな収入で有ってもそれに感謝し続ける時、

 

貴方は次第に思いがけぬ幸福に見舞われ、不思議に収入は増加し、一層健康となり、

 

貴方の社会的地位はされに一層向上して来るに相違ないのである。