私達が、神想観を実修するのは、「南無阿弥陀仏」と念称名念仏し、または神想観し、または写経し、
又は真理の聖典を読むのは、この肉体が極楽世界へ行くためではないのである。
自分自身が肉体的存在であると言う五官的認識を超えて、自己が神の子で有り、仏子であり、
さらに神そのものであるところの霊的、実相の自覚に到達せんがためである。
更にそれを言い換えれば、物質の世界から去って、神の国に入らんがためで有るのである。
それ故に神想観の時には「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じ、
神の国を如実に心に描いて、それを「神の無限の智慧と愛と生命と供給と歓びと調和の満る世界」
である実相世界を観ずるのである。
その結果、病気が治ったり運命が好転したりするのは、実相世界には病気や不運等は無いから、
自然にその実相があらわれるのであって、病気治しや運命好転のマジナイ的修行では無いのである。