不完全なものがいくら集まっても完全になることは出来ないのである。
雑草がいくら沢山集まっても稲作がよくなるわけではない。
もし雑草の中から稲が生い出て来て、其処からお米が収穫できるならば、
それは雑草の中に初めから稲の種が混ざっていたからある。
私達がだんだん進歩し向上していくのは、雑草の種を積み重さねていくことによってではなく、
自己の内に神の子の種子が宿っていて、それが芽を吹き、徐々に成長して行くからなのである。
この、神の子なる神聖種子を、内在の仏性とも内在のキリストとも称するのである。
宗派によって語彙が異なっていても、その本当の意味は同じことである。
語彙の相違によって、中身まで相違すると思って宗派争いをしている人があるのは気の毒である。