Dimaが亡くなって6ヶ月…半年が過ぎました。
まだ信じられない気持ちもあります。
病気になってからはキャンセルすることが多くなり、その度に私たちは、「1年ぐらいゆっくり休んでもいいから、しっかり治してほしい。」
…そう言っていました。
また元気にステージに立つ日まで、1年だって何年だって待つつもりでした。
だから、まだ待っているような気がするんです…。
でも、Dimaは1年も休むわけにはいきませんでした。
残された時間は18ヶ月。
その間、可能な限り舞台に立ちました。
命を削りながら、1つ1つのステージを精一杯こなしました。
もう何年待ってもDimaが歌うことはありません。
あの、いたずらっ子のような素敵な笑顔を見ることもありません。
そういえば、彼の笑顔を「無防備な笑顔」と表現している方がいらっしゃいました。いい表現ですね。
Dimaはいつも、舞台に颯爽と現れました。
リサイタルでもオペラでも、背筋をピンと伸ばして風を切り、シルバーヘアーは柔らかく揺れていました。
歩く姿も走る姿も、うっとりするほど素敵な人でした。
でも、肺炎から舞台復帰したDimaは、明らかに歩行困難になっていました。
そんなDimaを見るのは本当に辛かったけど、もちろんDima本人が一番辛く、悔しかったに違いありません。
「無防備な笑顔」はいつしか影を潜め、無理して笑顔を作るDimaがいました。
きっと、とても笑える状態ではないほど苦しかったのでしょう。
でも、彼は最後のコンサートでも、一生懸命笑って見せました…。
あんなにいつも舞台で輝いていたDimaが、もうこの世にいないことを受け止めるには、まだもう少し時間がかかりそうです。
この5月に、ノヴォデヴィチを訪れた人の写真を拝見しました。
モスクワにもようやく春が訪れ、緑が美しい季節になっていました。
Dimaのお墓には、今でも数多くの色鮮やかな花が供えられていました。
(個人のポストでしたので、シェアは控えさせていただきます)
この1ヶ月にあった一番のニュースは、Dimaのご両親がクラスノヤルスクのDimaの博物館に、200点の思い出の品をを寄贈してくださったということでしょう。 (ВЕСТИより)
ご両親はモスクワにお住まいですが、モスクワでもなく、ロンドンでもなく、クラスノヤルスクの博物館に寄贈してくださったことは大きな意味をもつと思います。
現在、クラスノヤルスクには画家のスリコフ、そして作家のアスタフィエフ、2人の記念博物館があるそうで、この2つは日本のガイドブックでも紹介されています。
近い将来、Dimaの博物館もガイドブックに載る日がくるかもしれませんね。
しかし、クラスノヤルスクでは未だ遺灰が埋葬されていないようです。
遺灰はどこかの金庫に保管はされているようですが、お墓がないのはとても寂しいことです。
モニュメントも公募され、審査発表は4/13の予定でしたが4/20に延期され、その後、何のニュースも入ってきていません。
クラスノヤルスクは劇場、学校、大通りにDimaの名前をつけることが発表されていますが、それらを目にするにはまだ時間がかかりそうです。
とりあえず、埋葬だけは1日も早くしてあげてほしいと思います。
せっかく故郷に帰ってきたのに、冷たい金庫の中で誰にも会えず、一人ぼっちのDimaは可哀そうです…。
先日、友達とのやり取りする中で、改めて自分の気持ち、決心に気づかされることがありました。
私はファンサイトやブログをやりながらも、私みたいなものがDimaを応援しちゃいけない…とずっと思っていました。
やめようと思ったことも何度もあります。
でも、私がやめてしまうと、この日本でDimaの情報を伝えてくれる人がいなくなる…それは耐えられませんでした。
Dimaは誤解されやすい人です。
ファンになった当初、ネット検索をしていて、Dimaのことを誤解している人がすごく多いことにショックを受けました。
その人たちはみんな、Dimaのことを嫌っていました。
確かにDimaは難しい面もある人でしたが、みんなが思ってるような、そんな人じゃない!ということを知ってもらいたい…そう思いました。
ファッション・チェックをしたり、ふざけたDimaを見てもらうことで、ツッコミどころのある人だと知ってもらいたかったのです。
いつもカッコつけてるだけの人だと思われたくありませんでした。
オペラでは、「1人で歌ってるオレ様タイプ」と思われがちだったので、アンサンブルが上手い人だということを強調してきました。
オペラのDimaしか知らない人に、彼のロシア歌曲の素晴らしさも伝えてきました。
その気持ちは、Dimaが亡くなった今も強くあります。
亡くなったからこそ、間違った情報を拡散されたくないのです。
先日、来日時に受けたインタビュー記事と、NY TimesのDimaの追悼記事を読み返しました。
正確に言えば、NY Timesのほうはずっと読めずにいたものを、半年経ってようやく読むことができたのですが。
その両方の記事に共通して書かれていたことがあり、改めて心を打たれました。
ここでは、日本でのインタビュー記事のほうを引用させていただきます。(電子チケットぴあ 2006年6月21日)
【私が20代前半の頃(※NY Timesによると22歳)、こんな経験をしました。シベリアの寒い工場で、年配の方を中心にヴェルディのアリアを歌う機会がありました。凍えそうな寒さの中、薄暗くしーんと静まり返った会場で、精一杯歌いました。すると、歌い終わった瞬間、びっくりするほど割れるような熱い拍手をいただいたのです。中には泣いている方もいらっしゃいました。イタリア語ですので、どういう意味かほとんどの方はわからなかったと思いますが、歌の知識や言葉を知らなくても、歌い手の気持ちや熱意が伝わって感動をもたらすことができるのだと、音楽の素晴らしさを実感した瞬間でした。(後略)】
NY Timesのほうにある、最後の一文も付け加えておきます。
【Those tears, Mr. Hvorostovsky said, “were more precious to me than all the applause I could ever get again.”】
このパン工場でのコンサートの話は、ファンになったばかりの時にも目にしました。
彼にとって、よっぽど心に残った出来事だったのでしょう。
この経験が、30年経っても彼のパフォーマンスの原点になっていたのだと思います。
たった14年半でしたが、Dimaの歌を聴けたこと、彼を知ることができたのは、人生最大の喜びと幸せでした。
今、改めてそれを痛感しています。