「知られざるホロストフスキー:私は医者になりたかった、アーティストではなく」(追記あり) | Добро пожаловать!

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ありがとう、Dima
あなたの歌は永遠です

昨日、ロシアのコムソマルスカヤ・プラウダ紙に、大変貴重な記事が出ました。

 

Dimaのお祖父さま、お父様のお若いころの写真や思い出、そしてDimaが幼少期を過ごしたクラスノヤルスク時代の記録です。

ロシア語ですが、ぜひご一読いただきたい記事です。下

 

"Unknown Dmitri Hvorostovsky : I wanted to become a doctor, not an artist"

 

※1/30追記: 記事の英訳が出ましたので、そちらも貼っておきます下

Unknown Dmitry Hvorostovsky : wanted to be a doctor, not a singer

 

Dimaの曾祖父、祖父、祖母がみな鉄道関係の仕事をされていた関係で、数年前にご家族はクラスノヤルスクの鉄道博物館に写真を寄贈したようです。

 

今回、Dimaの従兄弟Alexei Zarkhinさんと、Dimaのお父様Alexander Stepanovichさんが貴重な写真や思い出話、証言などを提供してくださっています。

 

まず目を引いたのは、Dimaのお祖父さま20歳の頃の精悍なお顔。

お若いころは小学校の先生をされており、その後、鉄道輸送の研究所に入所されたとのこと。

 

 

写真には「1929年 ウクライナ」とあるので、お祖父さまは1909年生まれ、ウクライナのご出身のようです。

ちなみにお父様は1938年生まれ。今年80歳になられるのですね。

 

お祖父さまご一家はペルミから1948年、いよいよクラスノヤルスクへ向かうことになります。

 

こちらは1948年、クラスノヤルスクで撮影された最初の家族写真だそうです。

お祖父さま39歳、お父様10歳。

おそらくお父様の下に写っている女の子のお子様が、Dimaの従兄弟アレクセイさんになるのだと思います。

 

 

 

そして、こちらはDimaのお母様、Lyudmila Petrovnaさんと1歳のDimaです。

お母様は産婦人科医として働いておられました。

 

なんかDima…この頃から難しい人になりそうな雰囲気ありますね…。

 

 

Dimaと1つ下の従兄弟のアレクセイさんは、祖父母に連れられてソチによく行っていたようです。

 

Dimaにとってソチは思い出の場所だったんですね。

2014年のオリンピック、Dima歌いたかったんじゃないかな…。

 

こちら下は、クラスノヤルスク近くのダーチャ(別荘)。

現在でもほぼ元の形のまま残されているそうです。

Dima、こんなに小さい頃から眼鏡かけてたんだ…。

 

 

 

こちらは1981年7月31日。Dimaまだ18歳。

クラスノヤルスクから100キロ離れたところで、日食を鑑賞中だとか。

Dimaだけ裸眼で見てるんですけど…?

 

 

こうやって見ていると、従兄弟のアレクセイさんとはクラスノヤルスク時代、本当の兄弟のようにいつも一緒に遊んでいたことがわかります。

 

Dimaが昨年6月、最後のクラスノヤルスクとなったコンサートでも、コンサート前には従兄弟とエニセイ川クルーズを楽しんだ…と聞いています。

 

どうしても行きたかったんでしょうね、クラスノヤルスクに…。

どうしても会いたかったんでしょうね、アレクセイさんに…。

 

Dimaのお母様は興味深い話をされています。

Dimaは学生時代、医師であるお母様の影響もあって、医学部に行きたいとも言っていたそうです。

 

ドクターかアーティスト…どちらの研究所に入るか。

 

Dimaとお母様はバス停でバスを待っていました。

もし最初のバスが医学研究所に近づけばDimaはドクターに、芸術大学に向かえばDimaはアーティストになる…。

そして、バスはアートのほうへ向かい、Dimaは正しい選択をすることになったのだそうです。

 

医師になっていたら、Dimaは長生きできたかもしれません。

でも、それでは私たちはDimaに出会えなかった。彼の歌を聴くことはできなかった。

あのカリスマ性は、舞台に生きるために生まれてきた人のものです。

 

医師も多くの人を幸せにできますが、Dimaの歌はそれ以上の人々を確かに幸せにしてくれました。

悔しいけれど悲しいけれど、彼は間違った選択はしていないと信じています。

 

そして、記事の最後にはDimaの最後のバースデーとなった10/16の写真が出ていました。

これももちろん、ご家族からの提供です。

 

 

お母様のリュドミラさん、そして長女サーシャちゃんと。

 

 

左から次男マキシム君、サーシャちゃん、次女ニーナちゃん、そして養女のマリアさん。

 

 

昨日、この写真が出ると、別のロシアメディアが一斉にこの写真のみを取り上げ、Dimaの見た目をタイトルにあげました。

Twitter上にはそのタイトルがあふれ、私は不快で悲しい気持ちになりました。

 

このバースデーの写真、私は出てこないと思っていました。

パーティーには30人ほどが出席していたそうですが、バースデーを迎えたDimaについては、出席者だけで大切にしておきたい思い出だと思っていましたから。

表に出さなくても良い写真です。

 

それをファンの私たちの目に触れる場所に提供してくださったご家族には、感謝と敬意を払わなくてはなりません。

 

きっと、ご家族は見てほしかったのだと思います。

派手な世界で生きるDimaではなく、クラスノヤルスクで育った一人の普通の男性、Dimochkaを…。

 

私はこの写真を目にした時、実は思っていたよりも元気そうでホッとしました。

お母様とサーシャちゃんを見つめる彼の眼はとても穏やかで、ここでのDimaはスターのDimaではなく、一人の息子であり、父親であり、普通の男性でした。

 

ご両親やお子様にとっては、やっと家族のもとに帰ってきてくれた…という思いもあったのではないでしょうか。

 

2015年、METのトロヴァで復帰した後、病気について初めてDimaが語ったインタビュー記事を思い出しました。

 

「病気になる前は生きることに疲れていた。しかし、病気になって生きたいという気持ちが強くなった。」

 

派手な世界で生きることは、クラスノヤルスクの大自然で育った彼にはストレスだったのかもしれません…。

 

でも、肺炎から復帰した後のコンサートの数々は、辛い状態の中でも歌える喜び、そして歌によって人々を幸せにできる、その原点に立ち返ることができたのではないかと思っています。

 

彼の根底にはいつもロシア、それもクラスノヤルスクの誇りがあったと思います。

そんな彼の最高の憧れは、NYでもロンドンでもなく、やはりモスクワだったのではないでしょうか。

 

ソチオリンピックで歌えなかったこと、ボリショイ劇場で歌えなかったこと、そして今年開催されるモスクワでのサッカー・ワールドカップ、来年クラスノヤルスクで開催されるユニバーシアードで歌えなかったこと…これらは本当に悔しいです。

 

きっと元気だったら、クラスノヤルスクでのユニバーシアードは張り切って歌ったことでしょう。

私達も見たかった、聴きたかったです…。