さて……
帝劇で全員観たトリプルキャストの最後はマリウス。
……なんですが、どうも筆が進まない。ていうのは、書きたいことがそれぞれ違いすぎるから。
けどまあ仕方ないよね~ということで、熱量がキャスト毎で随分違いますが、いってみよう!
最初に観たのは三浦マリ。プレビューでした。
非常に驚きましたね。いくらプレビューにしても、仕上がってなさ過ぎて!
2階最前列センターブロックの席だったんですけど、全然声が届いてこない。
1階席だとまた違ったのかもしれませんけど、本当に声が響いてこなくて、コゼ・エポとの三重唱のとこなんか聴いててどうしようかと思いました。
届かないといっても、ちゃんと歌は聞こえてましたよ。歌詞も聞き取れるっちゃ、聞き取れる。けど、それだけ。
これはご本人の声質も関係してるので、気の毒な部分もあるのですけど、非常に平面的な声で、一人声が舞台上から前に出てこない。
この例え、分かってもらえるか不安ですけど、レミゼの出演者って、上手い下手・好き嫌いはともかく、アンサンブルさんも含めて多かれ少なかれ、皆、立体的な声なんですよね。
なので、聴いてると歌声が目の前に迫ってくるというか、音の圧に細胞まで震えるというか、そんな感覚を覚えるんですよ。
一番顕著なのは森公美さんかな。森さんが本気で歌うと劇場中の空気までがビリビリ震える感じがする。マダムはそれほど本気の歌唱はないのにそれなので、凄いなぁといつも思ってるんですよね。我が最愛の推し、相葉さんも、今年は相当だと思いますけど、まあ、それは置いといて(笑)
けれど、三浦くんの歌にはそれがない。なんか、マリウス役がどうしても出られなくなったから、マリウスだけ映像で流してます、ってくらい、声が前に出てこない。上手い下手以前に、これってどうなの?と思ってしまいました。
音がとれてるかどうかというと、とれてる?うん、多分。上手いとは思わなかったけど、めちゃくちゃ下手ってこともなかったしね。
声量は、まあ、同じく初役のいろはちゃんはともかく、ふうかちゃんには確実に負けてるよね。たしか、ふうかちゃん、三浦マリの時は相当声量落としてたはず。ソロのオンマイオウンと全然違ったもの。
なので、全然心に響いてこない。あんなに泣けないカフェソング、初めて聴いたわ。
あとね、これは演技経験の浅さと2.5路線でやってきた弊害なんでしょうけど、三浦くんのマリウスへの解釈が全然見えてこない。
彼はマリウスをどういう人間だと思っているのか、どういう心情でその演技をして歌うのか、まるで分からない。
マリウスとして舞台の上で生きてない。
マリウスという役を演じている三浦宏規、が舞台の上にいるだけ。
そんな感じ。三浦マリは、マリウス役には必須のお坊ちゃん感はあったけど、それ以外何もなかった。
だって、三浦マリ、コゼットに恋してないでしょ。恋してたら、あんな平坦な瞳はしてないと思うよ。
学生達からちょっと離れてるのも当然だよね。学生達は名前のある子もそうでない子も、あの時代に生きて自由を夢見て革命しようと必死だったけど、一人だけ二十一世紀に生きてたもん、あの熱量からは取り残されるよね。
演出家の言うとおりの仕草をして、楽譜どおりに歌って、それだけじゃ人の心は動かないよ。
そこのとこ、もうちょっと考えて欲しい。
5月に観たときは少し進歩してたけど、今年はもういいや。
もし、来期があるなら、というかそれを期待しての起用でもあるだろうから、その時はこう思う私を瞠目させてください。
次に観たのは内藤マリ。
相変わらずの子犬感。いや、2017は小型犬の子犬ちゃんだったけど、大型犬の子犬ちゃんぽくなってたかな。
内藤マリはずっと優柔不断なんですよね。なんていうか流されて気が付いたらABCの学生達の中にいた、って感じ。
なんだかんだ言いながらもコンブに論破されてクルフェにお世話されて、気付いたらアンジョと一緒に箱の上に乗って演説のお手伝いしてました、って感じが凄くリアル。今年はグランがマリを気にかけてることも多かったんだけど、皮肉屋で革命を信じてなくて、ただ信仰してるとまで公言するほど熱愛しているアンジョのためだけにあそこにいるグランも心配するよな。あまりに流されやすすぎて。
その内藤マリが変わるのは、実は砦が落ちて仲間が死んだ時じゃない。バルにコゼットを託された時。それまで子犬ちゃんだった表情が、一瞬で男の顔に変わったんだよね、内藤マリは。多分、あの時初めて、自分じゃない「誰かのために生きること」を決断したんだと思う。
もちろん、砦が落ちて皆が死んで、自分だけ生き残ったことに深く傷ついて悲しんではいた。けれどそれは自分だけ取り残されたことに対する悲しみだったんじゃないかなぁ。
というのも、内藤マリはワンデイモアで「私は戦おう♪」とアンジョの隣に並んだ時点で、戦う意志を固めてるように見えるんだよね。それはもうコゼットはいない、もう会えない、という恋に絶望したことからくる決断だったんだけど、それでもあの時点で彼は戦う意志を固めていた。
それまで流されて生きてきたっぽい内藤マリが初めて自分で決断したことなんじゃないかな、戦うと決めたことは。
なのに、自分だけ生き残ってしまった。なんなら、その自分のためにエポを死なせてしまった。自分の決断は無駄だったんじゃないか。自分は誰かを不幸に、犠牲にするだけの存在じゃないか。そういう後悔と悲しみと絶望が、内藤マリのカフェソングにはあるように思う。
それを癒したのはコゼットの愛だろうけれど、本当の意味で彼を大人にしたのは、「誰かのために生きる」ということだったように感じた瞬間だったなぁ。
学生たちの仲間になったことも、戦うと決めたことも、内藤マリにとっては「誰かのため」ではなかった。流されたか、あるいは「自分のため」でしかないことだった。それに絶望していた内藤マリにとって、「誰かのために生きる」ことは新たな希望であり、その誰かが愛するコゼットであることは何よりの幸福だったんだろう。
ラストシーン、コゼットを抱きしめながらほほ笑む内藤マリを見て、そんな風に感じたのでした。
というわけで、マリコゼは物語の希望を表すカップルだとききますが、私がそれを一番実感できるのは内藤マリです。
(その後、帝劇千穐楽で観て、ますます確信しました)
最後は海宝マリ。相変わらずの王子様系マリウス。
相葉アンジョと並んだ時の顔面偏差値の高さは今年も一番だったわ。
しかしながら、その役作りというか解釈は2017とは全く違っていて、驚愕でした。
2017ではアンジョとマリウスが学生達の2トップだよね、って感じの頼れるマリウスでしたが、今年は真逆。学生たちが革命とアンジョに熱狂してても、違和感が拭えなくて気付いたら取り残されてる、優柔不断な流されマリウス。
流されマリといえば内藤マリもなんですが、海宝マリの方が依存心が高い感じ。
ファザコンこじらせてボナパルティズムに傾倒したけどコンブに論破されクルフェにお世話してもらったからその二人に依存して学生仲間に入ったはいいけど、革命とか全然考えてなくて、どうしよう僕、みたいなダメダメマリウスだったわ。
これでアンジョがもっと親身になって色々話を聞いてよしよししてくれる人なら、きっとアンジョに依存まっしぐらだったんだと思う。しかし、アンジョは首領だし、仲間として気遣ってはくれても一人特別扱いをしてくれるわけでもない。特に相葉アンジョは自分から皆の世話をするタイプじゃない。逆に皆がお世話したくててぐすねひいてて、それを当たり前と受け取るタイプじゃない?
その過剰なお世話をアンジョが困らないよう、皆が平等になるよう、さばいてるのがコンブとクルフェな気がする2019のABC友の会(笑)
閑話休題
なわけで、アンジョに依存できなくて、けど他に行くとこもないし…でいたら、コゼットに出会って恋に落ちて、一気に恋に依存しちゃったのが海宝マリだった気がする。
だから、「私は戦おう♪」って言いながら、全然戦いに対する覚悟は出来てないし、コゼットいなくなるなら死んじゃっても構わないやってやや自暴自棄になって砦にいる感が凄かった。
エポの死では自分のそういうところがエポを殺したんだって理解して、だから余計にもう死んでもいいってなっちゃったんだろうなぁって。
…書けば書くほどダメダメマリなんだけど、そう感じたんだから仕方ないか。
だから、海宝マリのカフェソングは仲間に死に遅れた後悔じゃなくて、そうやって死にたかったはずの自分だけが生き残った後悔と罪悪感な気がするんですよ。
死んでもいいといいながらコゼへの未練たらたらだったからこそ生き残ってしまった後悔、あんなに未来を夢見ていた仲間たちはその未来を見ることなく無残に散ったのに、自分だけはコゼットと一緒にいられることへの罪悪感。
内藤マリと違って、海宝マリの傷は完全に癒えることはないんだろうなぁ。
彼は一生、その罪悪感と共に生きるんだと思う。バルジャンのように。
しかし、3期目でこれだけ違うマリウス像を出してくるとは、すごいね海宝くん。
きっと毎回毎回、マリウスという人間がどういう人間か、凄く考えてきてるんだと思うんですよ。で、半年近くの公演でそれを深めていく。
その解釈をスッパリ捨てて新しい像を構築するって、相当な決断力と勇気がいりそう。前回が好評であればあるほど、特に。
それをあえてやってのけたあたり、海宝くん、すごいわ。男前だよね。
というわけで、今年のマリウス三人。個人的には内藤・海宝の2強って感じでしたね。
地方公演、特に大阪ではその二人で観ることが多いので、これからとても楽しみです。