来来拳 | ボクシング原理主義

ボクシング原理主義

ボクシングの原理原則に則っとりながら技術論や方法論を分析考察。技術や意識の向上を目指したい、いちボクサーの見識メモ。
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真っ赤なチームカラーに黄色い頭で
僕が連想するのは🇨🇳なんだけど、
だからといって真っ白な服装に真っ赤な頭も
違和感しかない。

プロボクシングでは
今年はもう残すところ、客観的に観れば
ビッグマッチというよりは消化試合である、
井岡vs福永がある。

このコロナならではの対戦は大晦日にあるが、不動心たろうという井岡と舞い込んだ千載一遇の機会に全てをひっくり返そうとするべき福永というのもまた、ボクシングならではの試合である。

詰め将棋で相手を仕留める井岡とフットワークで相手を捌く福永、試合を展望すれば自ずと福永の手数が鍵になる。




海外では
ウェルター級の秀才
メルニッキ

ミドル級になっているボクサーパンチャーの
スペンサー

そしてヘビー級ガシエフ

の試合がある。


日本のエース井上は、早いと来年の後半にスーパーバンタム級転向のようで、タイトル統一上潜在的なカシメロ戦への姿勢としては非常に機械的で処理的な印象である。確かに、以前の様に相手がビビって入って来なかった故にではなく自身が非常にディフェンシブになっているリゴンドーとの一戦では無理矢理にでも入ろうとしたが、まあ辛うじて通過したらしいカシメロがドネアや井上のように防衛戦を予定通りにこなさないで井上かドネアに残りのタイトル集めさせるというのはやり方として自分だけ温存するようでフェアでない。しかし、ボクサーを干すかどうかはWBOとPBCとShowTimeが決める事で、日本の母体はそもそもカシメロを管理した事が無い。

(ところで、体質的に管理していようといまいと、選手が違法な事をしたわけではなく当為を持って事に当たり約束も守っていて或いは裏切りや何か悪意を持った卑怯な工作をしたわけでもないのに何かの躾のつもりか知らんが反則したり干したりするのは如何なものか。挙句の果てにそれを辱めに使うという事までやったならもはや人道に反するのは言うまでもなくましてや収益のある動画配信などをする事は社会倫理そのものを脅かす行為で、つまりこいつらがやった事は個人に対する立派な暴力であるだけでなく社会に対して発信したマトモなテロ行為なのである。そういう認識も判断も付かない人間達が組織的な意思決定の立場に確かに存在する事はつまり人を騙す様に世の中を騙せると思い込みそいつら自体が政府だったり王様であるかのように間違いをしでかす悪しき独裁を意味するのである。ボクシングやスポーツにトリックスターやヒールが存在するのは公平な舞台の上でルールに則っている証拠である。中国で木村翔がされた事はそれがスポーツではなかったとしても下手したら死んだり頚椎や脊椎への攻撃という生涯に渡る障害を患わせるかもしれない普遍的な人体に対する侵害意図的に公的に行われた事。そもそもそんな商売をしてはならないし社会はこの技術や闘志と暴力とを履き違えた感覚を容認していては成らないが、まともなら、である。まともなものは減り増えたら駄目なものが増えていたり、どういう力が何処に働いているか少しでも垣間見れた事だけは確かで、上記のような明確な悪意は決して許せない。歴史的にも社会がこれを容認する時に残された手段は暴力に対する暴力以外には存在しないし、民主主義が独裁への前段階であったとしても、認められない状態への舵切りを繰り返す事になっても、原則的な価値としてそれを据えているというのは、いつか正しい方向にいくまでトライする事のはずが、そこで明らかに間違った方に舵を切る連中に容易く追随する人たちがいるのをみると世の中は本当に厳しく、所々間違っているとしか思えない。)



井上が行く
スーパーバンタム級には

以前井上戦を口にしたフルトン

ネリ殺しのフィゲロア

アマダリエフ

ヴィシャスなホヴァニシアン

邦人の岩佐

そして
ネリは元米アマチュアランキング1位だったはずの
カルロス カストロと対戦。
門番ネリが踏石、試金石となるのか、跳ね返すか。




スーパーウェルター級では


転んだ天才
エリクソン ルービン


ほとんど2メートル
セバスチャン フンドゥラ


の試合が決まるらしい。
















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