入れ墨⑥—モザイク— | ボクシング原理主義

ボクシング原理主義

ボクシングの原理原則に則っとりながら技術論や方法論を分析考察。技術や意識の向上を目指したい、いちボクサーの見識メモ。
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今宵は筆が走りおる



ボクゲンオンラインの

希望的観測上に確認された

拳界を揺るがす超巨大彗星

井上 vs 井岡

という世紀の対決。


人として尊敬されてやまない程に徳性を備えた両者が何の因果か秩序と混沌の二手に分かれてしまった。


この希望観測マッチの仮想空間シュミレーションに入る前に


今回のタトゥー問題についての個人的な意見を述べさせていただきたい。



つまりこれは


アダルト作品におけるモザイクと同じ問題だと思うのである。



我が国ではアダルト作品には必ずモザイク処理が加えられていて、例えば、海外の作品も本国へ輸入されるや否や処理を施されるのである。

これをタトゥー問題に置き換えると、

ボクシングでタトゥーはダメでも海外から来た選手のはオッケーというのは、アダルトでいえば洋物はモザイク無しという競争や勝負にならないであろうハンデを背負う事を意味するのである。



つまりこれは

そういうレベルの問題だと思うのです。




しかし確かにそうなってくると

俗にガラパゴスと呼ばれる現象ではないのですが非常に専門的、偏執偏向変質的、そういうマニアックな分野で勝負する事となり全体的にそういう界隈性を持つようになるので当の業界人本人達も嫌気がさしてくるものではないでしょうか

精力的にブログ執筆活動を行なっている私なども
常々拳闘界に存在するこのフラストレーションには気がついておりこのような事態はいずれは避けられないだろうなという考えは以前から持っておりました


タトゥーというもの自体に関しましては、まず隠す隠さぬ以前に入れ墨というものを目にした時感じるものとして怖いとか綺麗とかいうのではなく、ハッと見てはいけないものを見てしまったというような恥ずかしさにも似た咄嗟の反応を強く、それはもう強く覚えるので御座います。何故ならそれは他人の秘密を垣間見たというより覗き見たような、何かいけない事をしている又は見ている、そのような羞恥心を覚えさせるのです。

それはおそらくこの社会の文脈上のことなのかもしれません。しかし我々は確かに物事の意味や言葉の意味などを文脈から読み取るものでして、ものそれそのものから文脈を成り立たしてうまくいっているというものはまず目にしません。


そしてこの社会的文脈からくる羞恥の心を別の名で呼ぶのならそれはセンシティブという事になると思いますが、このセンシティビティが我々に告げる事は非常に直感めいていてそのまま反応や行動として我々を支配するでしょう。ただそれも訓練や習慣によってまた支配しうるものかと存じます。

ひとつ良い例を挙げさせていただきますと、全裸監督という映画?があるようで御座います。この映画?はさるポルノ映画監督に関する内容であり、さるお方は革命的な手法や技などを編み出し、かの業界における黒澤明とも拳闘でいうレイ ロビンソンとも呼ばれるお方のようで御座います。しかし、この全裸監督がもしフルチン監督などと表記されたとあれば如何なものでしょうか?

つまり私が言いたいのはそういうことで、言葉のインセンシティブが意味は同じだろうと俗語を使うとなれば通るものも通らないのが世の習わしだと思うので御座います。

入れ墨にいたしましても、それ自体の社会的立ち位置は俗なものとして古くから一般に認識されていて敢えてそれをおもてにだすようなものではないはずなのです。人の素性、素顔、信念、生活、歴史や本心など本来到底言葉になどできぬようなものは垣間見えるような事はあってもやはりわからぬものであり、暴くものでも覗くものでもなく、ましてや見せつけるようなものでは到底ないとそう考えるので御座います。

そういうわけで今回

アンケートに答えさせていただきました。











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