アメリカで黒人男性が白人警官に殺害された事をめぐる一連のデモが米国各地で起こり、知人もそれに参加したようで、突然の爆発や放火に驚きすぐにその場を去ったらしい
何かが吹っ飛ぶまでは練り歩いて何時もと違う普段の道を写真におさめておいて自分は関係ないというのもどうかとは思うが、まあこいつらみんなそうさ
不正や犯罪を内部から暴くのが今では名を上げてのし上がる一番の方法でそういうのを観て育った欲求と趣味まっしぐらな奴らの力を借りたり得る事は情報化社会化した今や誰しもその内あるのだろう
トランプ大統領は被害者の黒人男性との関係性のほとんどない今回の暴動行為に武力による沈静化も辞さない構え
側から見てると、差別問題や警察すらからの自警意識が高められ、なんだか下手すると紛争的なものに向かっている気もする
SNSが本当に全てのキッカケになっている
そのSNS自体の振る舞いについてのFacebookとTwitterの意見の違いや、SNSの現行のアイデンティティクライシスにおける重要度、それ以前のリテラシーレベルとSNSの浸透性の問題
日本では民間でのリテラシー向上啓発が警鐘され
それもそのはずあらぬ方向のインテリ批判とかアホほど言論の自由と事とを結びつける昨今
知的労働者というものの事でなく、社会という魔方陣や術式を保護している守護者や騎士としてのインテリジェンスとインテレクチュアルは文民統制化で必然的多数的に文の方に赴くのだが、人民の彼らに対する憎みや権力への対抗手段のあり方全ての分別を誘導的にゴタ混ぜにしようとする動き
犯罪や違法行為を商業化して認定化させようとする運動はここでも憚らない
一番汚いやり方はミスリードした喧嘩からピン撥ねするやり方だ
風向きや水の流れが変わる中もし誰かを愛しているなら示しておいたり伝えておこう
平和という人類最高の願いも当の人間性がそうはさせない上に疎外がエゴを生みだす中で話が通じると作られたショーの中で我々は生きている
法律の中で認められたスポーツとショーは聴覚や味覚を通して人間そのものをエクササイズするようなもののように許され認めらたが、そこに纏わるは社会の成り立ちに、リベラルなチャンスや平等になりすます暴徒や泥棒
曲解や誤解は逆にそれを利用し、そして利用される死後さえも
命を懸けた活動たる偽善や欺瞞を廃した血肉の言論を可能にさせる気品と礼節と筋や作法、歴史や文化というより芸術や美という可能性に対する評価、自らがその美や技巧そのものの体得と昇華を会得し得ずとも知り得る正しい認識というリテラシーに努力と節度と賢さと心得によって超越を夢見る独り歩きする模倣美という自発性と独創性
ありとあらゆるものをあらゆる角度から認識しせしめる徹底的な分析能力とバランス感覚
しかし、それはハイカルチャーよりはサブカルチャー
それ自体をせずにそれを成し遂げる事であり、力の構造や形容や追従よりは模倣と再現、責任を果たしながらの分裂欲求、永劫回帰の門として高貴なものへと相応しいものを誘い入門させる対話的リテラシーとして同一性化を促すことで真にリベラルな教育過程として存在すること
ヘミングウェイやニーチェのような憧れに少しずつだけ本当の世界中のマイノリティの注目の的でリベラルの畏敬崇拝にして決起の御守り
世界中の知性や心や世界をリードするものに対して常に初心者で未熟であらねばならない成熟にとっても言語で訳せば不条理な国家や個性の体現
それぞれにそれしか無いとカミュに三島
この世と言語と不条理と
やがてその名は刻まれて正しく話されようとも愚かな追従者には嘲笑うように語られる
所詮心ある者は魂のために敗北よりは死を選ぶ
英才や生まれや教養に緻密で前のめりな修養という後天的な訓練や先天的なセンスだけでは会得し得ないところからニーチェやランボーのように生そのものを吟味し相応しい形にしようとした過程で自己を発見する歓びを知った意味で育ちの良い人として常に知の再認識にある人達にとっては啓発的で啓蒙的なリテラシー
リテラシー
人と社会
自分と自身
例えば三島由紀夫と文化や氏と全共闘
少し前なら暴走族とかあとは死後の氏の名を差別や虚構の矛先にする人々
彼らの為の鳥肌実
つまり遊んだり暴走しただけの実はお利口さん達は成熟すれば家に収まりエゴイストになるか、それが叶わなければ中身も無いが何かあるように装うか、ダダイストになるようだ
俺は野球なんかしねえがバットは良いなと思っている
ヘイ!
サブカルチャーな僕達私達の存在理由は
成長し続ける事のようだぜ。
おまけ