わたしは人間という奴の苦むのを見ているだけだ。
~
人間はあれを理性といってどうそれを使うかというと、
どの獣よりも獣らしく振舞うために使うのです。
~メフィスト~
ファウスト/ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ著/森 鴎外 訳
こう書いてある。
”初めにロゴスありき。 言葉ありき。”
もうここで己はつかえる。
誰の助けを借りて先へ進もう。
人間は、
気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
「どんな舞台にも
その劇の主題の方向性をあざ笑うピエロというのが必要だからな。
ハロウィンの夜には遅れてしまったが、仕方がない。
ところで、
私個人の経験上の統計学から言うと、
判断力としては社会道徳などよりも個人の直感の方が優る事が多い。
唆す者(仄めかす、発破をかける)と仇なす者(出合い頭、別れ際)とを、
己が道を行く人は避けるべきだろう。
前者は人に指図したいが責任を恐れる狡さがあり、
後者は自分の事を察してもらえない事に鼻もちならなくなるために
感情・衝動・攻撃的になっている状態だ。
相手をすればムキになり、やっかみで見境なくなり感情に囚われ、
相手をしなければ見下す、人間の尊厳を冒すといった具合である。
利用するものとして他者を認識していて、自分の狭い空間を中心とする事で精進できず、他者のそれをも妨害、引きずり落とそうとする無意識的な姿勢は自ずと同じ性質の者で周りを囲む、繋がるという特徴がある。悪い意味で自分の価値観で満たされてしまい、そうやって色々な他者との縁による巡りあわせにおいて他者を理解しえずその尊重としての礼儀ではなく、自分が押し付けられたと感じてしまったものを他者にも押し付けるという暴力的な礼儀を使ってしまい、そのくせ随所に尊敬や自らの品性の欠落を覗かせるので退廃・破滅的である。
"人は軽蔑されたと感じたときに怒る、
だから自信のある者はあまり怒らない”
と三木清は言ったらしいが、そういうことは普通女子供のものなので所謂女々しいというもので、それが感情を多くの場合に取り違え的に選ぶ事で批判能力に乏しく、そういう人が生存本能としてなのか身も心も流行や世論に任せてしまう。また愚者は受け売りに頼るせいかそういった事をも拝借して同調しやすい。
このようなプラトン的な感じでいえば質を落とすという意味で"悪”、或は、与えられた固定観念しか見えないという意味で"奴隷”の状態である人や環境に周到入念に食いつぶされ堕落させられてしまう程に我々の精神は無防備たりえようか?人間が何かを担ぎ上げる時、自分に自信を持つ正当性を自分が評価出来ないために自分が担ぐ何かに帰属してその高みを自分の自信にしようという自他への自然な欺きが大体あるが、問題は、その担ぎ手が打算的すぎて積年と共に担ぐ対象への理解を得られずにその当人がその対象を最も知らず・見下し・舐め・乏しめる存在になってしまう事だ。商品の文化に理解や尊敬を持たないただただ拝金主義から都合の良い未来を描くだけなタイプの商売人のように。」
「あえて無防備の時ほど、
上手くだましてもらえないと腹が立つよね。
批判と感情をはき違える事は、
集団的心理というか文化的心理みたいなものにも
多くみられる気がするな。
目には目を、目の前の相手を反射するのでなく、
自分がされた事を他者にするという"お利口さん”気質は、価値観の重要さや優劣というのを認識する価値判断のために必要な生命的な価値自体の多様性というのにあまりに無意志でいるというずさんな教育形態の下に、他人に設定されたレーンの中で如何に幸せになるかという意味での人生の芸術性や技法はあるものの、社会、つまり、古来より人間にとっての巨人や神であるそれに伴うわけでは必ずしもないある種独立性をもった、その故危険視され確かにその性(多くの場合は他の性質に触れる事で起こる化学反応)を持つのであろう個人の精神を追求したい欲求を持つ性質の者とは相容れぬ。このことは研究的に必要な事態の一例なのだが、その関係への長すぎる接触は学問を非常に阻害してしまう。
太宰治だったか、
"人が何で怒っているかわからない”
みたいな事を書いていたな。」
「だから、そういう事を意識して怒るとか怒るまいとか考える事自体がもう囚われてしまっているんじゃないか?
人間が目指すべきものへの意識の強さ故に、他なら意識しえない領域まで意識的である人情と能力の退廃的な誇りの依存性。
嘘を本当に生きるような違和感と共鳴。
ハロウィンなどにしてもだ、人間のそういった、なんというか、演技欲というのが確認できるね。
これは欲望といっても決して負の意味なんかではなくて、人間に与えられた性であり、それに遊戯として自然に則る善性もあると思う。(勿論、集団性に乗っかって自分の悪魔性や卑しさの限りを尽くすような連中もいますが)こうやって空っぽの筈の自身から無意識・自然に出てきたものが分析してみると理詰めでは到達しえない科学性というか合理性というか、この上ないような表現力を有している事がまるで精霊の助け神の啓示とでもいった風にある。だからと言って、人間的な苦しみを経て霊を宿し御産をする女性の苦しみと喜びを繰り返すような超自然的・芸術的な献身という普遍性ではなくて、単に畜民的に衣見つけたりと空っぽが方法論だと空っぽに生きる人間は相当にまずいけどね。
何を何処でどう受け取り承諾するかは千差万別だが、人間にはその激しい瞬間において演技するという性質から、誰しも"自分の台本”というのを持っているというのは理解できるね。
世界や社会や人々を、自分の小さな空間からのみ受け取り判断処理した結果目的が強すぎて目標と現実の違いをそもそもの目標の後ろに見たもの基準で計画的に受け入れ変化相克に恣意的であるために盲点としてしまう事で、空疎な自己実現のための踏み台としてしまっているのか、あるいは自己相克の上にあるがままの宇宙への欲求に触れる縁とみるのか。
太宰の名前がでたから言っておくけど、
人間のこのような意識無意識やら演技欲やらの性質とナルシズムの関係は非常に密接に絡まっていると思うね。そしてこれは一目惚れというものの半永久性とその魔力についても言及していける筈なんだけど・・まだ、僕らの実力ではほど遠いところにある問題かな。
ただ、神話においてナルキッソスは水面に映った自分を見続けて死んでしまったように、ナルシズムの絡む問題は一生の問題にして時に集団的あるいは国家的な問題にも関係が大ありに思えるね。」
「確かに、場合によっては集団として人間が自らを美化をするとき、
その理由の美化しえない醜態というのが大きな唸りとなり、その段階で当初の理由に相克的な変化をもたらさないとすると、
このような原理には多少は戦慄をおぼえるな・・・。」
「君も自分ではなくて
それにかかっているナルシズム、
不当な巨像である神やその僧侶達が君に課した罪と罰であり活動の原理ともなりえる、かけられてしまった魔法、を見つめて見たまえ。
自他の素顔の仮面の奥が見えるような感じがして、
人生のハロウィンは醒めてしまうかもしれんがね。
何はともあれ、
世の劇中に仮装してしまった人は、このような場合、本当にそれと知らずか侮辱・無礼を取り返しのつかない段階で働くので、
下手にトリートして自分も過ちを犯すよりは、
黙ってトリックに耐えた方がマシというのは確かである。」
久しぶりの記事を始める前に、
余計な意識に凝り固まったこの身をほぐす呪文(祝文)を唱えようか。
"全ては鏡なり
映りしは
汝が限界なり”
そういうわけで、
週末はいよいよブラッドリー対リオス。
ブラッドリー有利予想で、ブラッドリーに勝ってほしいというのもある。
何故ならブラッドリーというのは年齢とかそういう事で無くてスタイルを見た時に現在ボクシングで最も変身する可能性をもった選手であるように思えるからである。
ブラッドリーはパンチ力が無いといったら間違いだが、決定力に欠ける選手であるという意味では実際そうだ。他の選手なら相手をマットに沈めているようなパンチを当てながらも相手自身がそれに耐えられる事に驚くというようなオフビートな試合がよくあり判定にもばらつきが多いと思う。
そのオフビートの中で頭を向けたり手を出し続け動き続ける事で攻勢を維持したりするので誰がやっても必ずハードな試合をする選手だが、誰とでもハードな試合をしてしまう癖を持っていると言えるかもしれない。ディフェンスに関しては戦術性よりもエンターテイメントを大切にしているのも相まってか距離を見誤ったり、致命打に対するデイフェンスを怠る事が実に多い。
今回、我々は、リオスに関しては後述する減量の影響以外にはあんまり関心ないので、ブラッドリーがより古い型のトレーナーに鞍替えした事で特にパンチの打ち方とそれが自分の試合へのアプローチ、特に手数などにどう影響してくるかというのがもっぱらの関心である。
これで無茶な攻勢が正確な破壊力と取り換えられたとき、待って一発でっかいのを狙っているであろうリオスをマットに沈めるかもしれない、そしてこれが上手く成功すれば、注目的にも鰻上りして、実も一番手が付けられない選手に化ける可能性が無きにしも非ず、
と俺はそう考えてる。」
7日にはロマチェンコ。今やP4Pを首位はロマゴン、ゴロフキン、そして試合あまりにしてないけどもウォードであるのは大体誰の中でも同じそうだが、テクニカルな部分ではロマチェンコが他にない部分で抜きんでているところがあるので彼を押す声も否定できない。
14日にはラッセルJr / 25日にララ対ザベック / 28日にクリチコ対フューリー、デゲール対ビュテ、チャーロやスペンスの試合がある。
やはり今月というか今年の中でも一番面白そうな対戦は何といっても21日のコット対アルバレス!アンダーカードも三浦対バルガス、カバジェロ対ハスキンスと実力、組み合わせ共に申し分なし!」
「カネロはフットワークを改善して不死鳥のように蘇ったコットに対して、同じように自身の弱点であるフットワークを強化してコット返しを狙っているだろうね。ここで気になるのは、その事でカネロのオフェンスとカウンターの両方が死んでしまわないかという事。
リオスの項で減量の影響というのに触れたが、
カネロなんかもまさに現在ボクシングの大多数の選手がそうであるように数日で数キロ落として試合当日には数キロ戻すという事をするので消耗激しい体質となってしまう。こうやって準備をした選手が試合で体を沈めて距離をとらずにピョンピョン跳ねたり相手に突っかかっていけば普通に勝ち目は薄いね。
このような観点から見た時、ボクシングで技巧派といわれている選手はスピードやフットワークと忙しさを持ったロマチェンコやロマゴンみたいなのをのぞけば大体が待ち拳であり、待ち拳というのはブラッドリーやパッキャオとは逆でスピードや手数を無駄にしたくないメイウェザースタイルに悪影響されたパンチを捨てられないエコノミカルスタイルで、ラウンドをフルで戦う事はまずない、自分からではなく相手に試合を作ってもらってから致命打に注意を払う事で後半狙いが多い。では、相手が致命だを持たなかったり、浅くボクシングで纏わりついて来たらどうなのか?そういう場面でその選手の本当のコンディションや適応力が分かると思う。
ローチを付けてからのコットは先に動く事で相手に自分の求めたポジションに入ってもらう事でパンチをまとめ、それが無理そうならディフェンスで仕切りなおすという事をする、言ってしまえば本質的にはフロイド・メイウェザースタイルになったわけだ。
そして、これは相手のサイズが大きければ有利な戦法でもあるね。」
ボディ打ちを滅茶苦茶練習している映像が何度か上がってるな。」
「仕方がないね。
ただ、コットとカネロが全く同じように左手に凄まじいパワーを有した決定的なボディパンチャー、フッカーであるの事、お互い打たれ強さには疑問符が付くという共通点を考えると、これも小さくて懐に潜り込めるコットの方が有利だと思うし、動きながらの試合になるとカネロが単発に陥るのはわかっているので、そうなるとカネロがコットのボディを追いかけるというのも嘘くさくなってくるね。
追いかけてくれば、あるいは追いかけるしかなくなった場面ようのカウンターコンビネーションをコットサイドはいくつか用意してる筈だし、カネロサイドも勿論ガードの高いコットのボディを突くのは標準的だろうけども、どうしても、出るにしても引くにしてもガードからジャブアッパーという単調な後出しに頼ると思うね。
こうなると、メキシカンの性質で前足にのるクセのあるカネロは必ず待ち拳になる可能性が非常に高く、それならば、コットはがこれに合わせた突っ込む用のコンビネーションを使えばコットが必然的に有利だと思うんだ。
予想はコットのKO勝利。」
おまけ
悪魔や化け物には掟があって、
入って来た口から、
出て行かなくてはならんのです。
初めにすることは自由ですが、
二度目は奴隷になるのです。
そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。