アンチョビ | ボクシング原理主義

ボクシング原理主義

ボクシングの原理原則に則っとりながら技術論や方法論を分析考察。技術や意識の向上を目指したい、いちボクサーの見識メモ。
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 「格闘技の俗語で塩試合というのがある。


・・・よくボクシングのトップクラスでも、
勝利至上主義のピュアボクシングタイプの選手達がこういった試合を展開し、
スター選手をも塩漬けにしてしまうために干されてしまう現象が論争を呼んでいる。」



「塩付けにして更に干してしまうとは美味そうだ!」

 


 「勿論、ある種類の人たちには最高の肴となるんだが。
 
この問題への意見は様々で、

いくら強くてもその内容じゃつまらない

と言う声や

これがわからない方に問題がある

という声に分かれる。」




「この手の話になると必ず思い起こされるのが

ギレルモ・リゴンドー

なのだが、遂に11月の試合が決定。
相手はガーナのキングコング、ジョセフ・アグベコ

バンタム級トーナメント決勝でアブネル・マレスのローブローを浴び続けた事でも有名で、お互いに今年の3月と4月に試合に勝利してからは間隔が空いた者同士の対戦。
リゴンドーからしてもここに来てアグベコがいたのはラッキーだし、アグベコにしてもリゴンドーがこの地位でなければすぐこういう試合には恵まれなかっただろう。

この試合にはWBAのスーパータイトルとWBOタイトルがかかっている。」


「以前、マックスボクシングのスティーブ・キム氏がリゴンドーファンのことを、マイナーな味覚を持ちながらも積極的な意見をいうアンチョビファンという風に形容した事がある。

まったくその通りで、
有名記者のセンスを感じさせる。


今回こんな記事を書いた理由は、

他でもない、そのアンチョビ試合塩試合分別を試みたいからだ。」


「その前に、クリチコ対ポベトキンのような試合が塩漬けになる一つの理由は、贔屓なレフェリーがいる事だというのはもう争うべからざる事実だろう。」



 「その通りだ。


先週はいいカードばかりでした。


方や、
新生コットが新型の戦闘機のような活躍を見せ、スカッとしたスーパーウェルター級。

一方、
新生クリチコ改め、クリンチサイボーグ「クリンチコが、ボディを一発も打たずにパンチの総数を上回るクリンチと投げでポベトキンを塩漬けの瓶詰めにしたヘビー級。


個人的には、それもボクシングと暢気に構えていたが、
よく考えてみるとこれは私の大好きなアンチョビ試合にさえ悪影響を及ぼすものだという気がしてきた。」



「アンチョビ無しではもう生きていけない我々としては、是が非でも暴虐な偏見が、愛すべきアンチョビ試合に及ぶのを阻止したい。

しかし、例えば見る目があるとかものの分かっという概念とそのレベルでファン側を測定するのは危険だろう。何故なら、そういうプライドのために誤った判断と評価が下され、振る舞いがスタイルの有効性のような評価を得るような俗にいうハッタリの世界になってしまう。そしてそれを評価しなければならないような状況になり内容的にも衰退が起こるのである。

試合の面白さというのが一番の基準ではないだろうか。」




「確かにそうだろう。

しかし、面白さと一概に言ってみても、例えば年齢・性別・経験などで注目・反応・予測するところが異なるように、個人差として面白さにも多様性があるのは当然だ。

何を面白く感じるかというのはその人間の本質をよく表すし、ファンの分類には大いに役立つというのは言うまでもないだろう。


ここで、面白さというものをよりよく理解するために見方を変えてみたい。
つまり、自分が選手ならどうなのか?という見方にだ。


普通は被弾を避ける。
打たれたいとは思わないし(それで何かを自他に証明したい場合を除いて)、
当たればこっちの意思に関係なく倒されてしまう強力なパンチャー相手なら、如何に打たせないかという事が勝利への方法である事は言うまでもない。

これが技術的に洗練された結果が相手にそもそも打たせないという事だ。

これには、ディフェンスとカウンターで狩人のように時間をかけてしとめるタイプと、

一気に優れた身体能力と強力なオフェンスなどで相手に何かさせる機会を与えない獣のようなタイプがいるだろう。

そして、これはペース支配にも繋がるわけだ。


クリチコ対ポベトキンはこれをクリンチで実現した。
本質的には打たせづに打ったクリチコだが、その方法がマズかったわけだね。」


「リゴンドーやその他の一流を観ると、試合運びや技術力、戦法を観ても楽しいし勉強にもなる。そして、その動きを観ていると芸術的で、美しさすら感じさせる。そういったものも面白さ要素ではないだろうか。」


「そこまでくると、まさにエンターテイメントやアートだね。

それと、選手の立場で考えた時一番注目すべきはその選手の評価への姿勢だと思う。

例えば、選手にトレーナーが付くのは、そのトレーナーの評価の質が正当であるためにその要求に答え認められる基準を多面的に満たす事で結果成功するという事だろう。

逆に、ここに間違った評価が紛れ込んでいたとすれば勿論選手は良い成績を望めない。


つまり選手が如何なる評価に従事しているかというのが選手の方向性の違いだろう。

どういった評価を受け入れているか、どの、誰の賞賛、批判、意見に耳を傾けたいるか。
海外で評価基準がファンや選手、トレーナーの間で常に議論されているのにはこういった背景があるといえる。

つまり、これが自分達の鍛えうる能力に直結しているんだね。


確かに一般論的にリゴンドーのようなピュアボクサーはエンターテイナーとしてはドネアよりはレベルが低いと言えるだろう。しかし、ドネアもアンチョビファンをリゴンドー程エンターテインすることが無いという事もいえる。実際の実力・勝敗を観てもリゴンドーが勝っているしね。

まぁこれは、多くにとってエラーコードだし揚げ足取りにも聞こえるだろうが、実質原理と勝敗評価に追随すればいかなる多様性もみとめられるという事さ。」



「結局は、単純に強さをもとめているかどうかではないだろうか?

自分の事をエンターテイナーと呼んで敗北すらも容認するようなボクサー(ロイ・ジョーンズJr級なら話は別)が増えたとき、まともにスポーツと向き合えない選手のたまり場と化し、そのスポーツの尊厳は失われるんじゃないか。」


「プロスポーツは勿論面白さだが、確かに真剣さというのも大きな魅力だろう。

ある競技において結果を至上とする場合、
競技の性格やルールを利用し、或いは、逆に捉われないで相手を無力にし実質的に、有効性のみを追求した場合、巧さとは強さに比例する。


結局、面白く無い試合というのは売れない。

巧い、強い、面白い・・・この関係についてはもっと研鑽をつんでいかないといけないな。
巧いのが強い。
強いのが面白い。
面白いのが強い。
強いのが巧い。

皆さんはどれでしょうか?」



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