「ここが、和久井さんの傘工房……」

彼と出逢ってから、時間が経つのが速く感じる。

約束の休日、車に揺られて着いた場所は、街の喧騒から少し離れた、静かな緑に囲まれた古い日本家屋だった。


車を降りた瞬間、あの雨の夜と同じ、ほんのりと甘い白檀の香りと、微かに広がる真新しい木と、沢山の知らない匂いが鼻腔をくすぐる。

「すまない。散らかっているんだが」

和久井さんはそう言って、格子戸を滑らかに開ける。一歩足を踏み入れた俺は、思わず息を呑んだ。

そこは、言葉通りの異世界だった。
広い板間の天井からは、色とりどりの和傘が、まるで大輪の花が逆さに咲き誇るようにいくつも吊り下げられている。

外から差し込む柔らかい光が、透き通るような美しい着物生地(京友禅)をすり抜けて、床一面に鮮やかな色彩の影を落としていた。

「すごい……綺麗、です」

ぽつりと漏らした俺の声に、和久井さんは嬉しそうに目を細めると、作業台の前に腰を下ろした。

そこには、まだ骨組みだけの竹や、細かく裂かれた糸が整然と並んでいる。

「和傘を打つには、何十もの工程があってな、すべてが職人の手作業だ。少しでも手元が狂えば、雨の中で美しく咲けないんだ」

語る和久井さんの表情は、居酒屋で見せた艶っぽい大人のものから、真剣な「職人」の顔へと変わっていた。

仕立ての良い着物の袖をまくり上げ、慣れた手つきで竹の骨に糸を紡いでいく。その指先、爪の間に染み込んだ藍色の染料の跡が、薄暗い工房の中で不思議なほど厳かに見えた。

一つのものに命を吹き込む、そのひたむきな姿に、俺の胸は揺さぶられた。

ただ怪しげで魅力的な大人の男だと思っていたのに、この人はこんなにも孤独で、泥臭く、圧倒的に美しい世界を一人で背負っている。

そのギャップを知れば知るほど、彼という存在の深みへ、引きずり込まれるように惹かれていってしまう。

「……翔、こっちへ」

作業の手を止めた和久井さんが、不意に俺を見上げて手招きした。

トクン、と心臓が跳ねる。緊張しながら彼に歩み寄ると、和久井さんは立ち上がり、俺のすぐ目の前で一本の紺色の和傘をそっと開いた。

バサリ、と心地よい音がして、俺たちの頭上を深い藍色が覆う。薄暗い工房の中に、二人だけの小さな、けれど完璧な空間が出来上がった。

「言っただろ?和傘は世界からその人だけを美しく切り取るものだって」

至近距離で俺を見つめる、温かく力強い瞳。
逃げ場のない和傘の内側で、彼の纏う白檀の香りが、俺の呼吸のすべてを支配してしまう。

「この傘の中は、今、俺とお前だけのものだ。もう俺から逃げられなくなるぞ」

耳元で囁かれた言葉と、甘く掠れる優しい声に、俺の心臓は千切れそうなほど激しく高鳴った。

抗うことなんて、最初から出来っこなかったのだ。俺はただ、彼の藍色に染まった指先が、そっと俺の頬に触れるのを、熱い吐息の中で受け入れることしかできなかった。




つづく