金曜の夜。さすがに週末ということもあって、バイト先の居酒屋は、ほぼ空席が出来る隙も無いほど混み合っている。
飛び交う注文の声とジョッキのぶつかる音、焼き鳥の煙が立ち込める賑やかな店内で、俺は額の汗を拭いながら忙しなく動き回っていた。
そんな喧騒の中、不意に異質な空気が流れ込んで来た。突然そこだけ時間が止まったような、異世界に切り取られたような、目を向けずにはいられない圧倒的な違和感。
「いらっしゃいませ、何名様……あ」
入り口の引き戸を開けて入ってきた客の姿を見た瞬間、俺の喉は固まってしまった。
仕立ての良い深い藍色の着物に、羽織をさらりと引っ掛けた姿。車内で嗅いだあの白檀の甘い香りが、一瞬にして油と酒の匂いを押し流すように俺の鼻腔をくすぐる。和久井さんだった。
「よお、翔。本当にここで働いてたんだな」
和久井さんは、店内の空気に気圧されることもなく、端正な顔にあの艶っぽい笑みを浮かべた。これだから呼び捨てにされても何も言えない。
場違いに上品な彼の姿に、周りの客やバイトの仲間たちも何事かと視線を注いでいる。俺の心臓は、仕事の忙しさとは全く違う理由で、激しく脈打ち始めた。
カウンターの一角、一番端の席に彼を案内する。お冷やを出す俺の手が、緊張でわずかに震えていた。
「まさか、本当に来てくださるとは」
「聞いただろ?また会ってくれるかって。嘘はつかねえよ」
彼は冷酒を一つと軽い一品料理を注文した。忙しい合間を縫って彼の前に料理を運ぶたび、彼はただ黙って、俺の働く姿をあの強い瞳で見つめていた。その視線が俺を捉えるだけで、どうしようもなく全身が熱くなる。
夜も更け、店の混雑が少し落ち着いた頃、和久井さんが小さく俺を呼んだ。
「翔、少し手を貸してくれ」
言われるがままにカウンター越しに手を伸ばすと、彼の無骨な、指先に藍色の染料が残る手が、俺の右手をそっと包み込んだ。
驚いて手を引こうとしたが、見た目からは想像もつかないほど力強く、それでいて絹に触れるような優しさで引き止められる。
「毎日こんなに冷たいジョッキを持って、よく働くな。手が冷えてる」
和久井さんはそう言うと、俺の手の甲を、彼の体温が残る親指でゆっくりとなぞった。
彼の親指が触れるたび、そこからじんわりと熱が広がり、体中の血が沸き立つような錯覚に陥る。車内で感じた、あの頭がクラクラするような感覚が、再び俺を襲った。
「和久井さん、あの、人が見てますから……」
「見せておけばいい。俺はお前に会いに来たんだ」
真っ直ぐに俺を見つめる彼の瞳には、ひとつの迷いもなかった。ただひたすらに俺を求めてくれているような、その圧倒的な熱量に、俺の胸の奥で何かが静かに、けれど決定的に崩れ去って行く。
頭の片隅で、こんな浮世離れした大人の男に流されてはいけないと警報が鳴っている。だけど、彼の指先から伝わる温もりと、耳元に届く優しい声が、俺の理性を甘く蕩かしていく。
「今度の休み、君の時間を俺にくれないか?もっとじっくり、君と話したい」
その言葉を拒む力は、もう今の俺には残っていなかった。俺はただ、熱くなった耳の裏を隠すように俯きながら、小さく、けれど確かに「はい」と頷いていた。
つづく