立派な車の座席は深く、包み込まれるような本革の匂いがした。濡れた服のまま座るのが申し訳なくて小さくなっている俺の隣で、和服の男は静かに前を見据えている。
「……あの、送って下さってありがとうございます。わざわざすみません」
沈黙に耐えかねてお礼を言うと、男は端正な横顔をこちらに向け、ふっと目を細めた。
「気にするな。こちらの不手際だ。……俺は和久井智史(わくいさとし)。和傘を作っている。しがない職人だ」
職人?その言葉の響きとは裏腹に、彼の纏う空気はどこか上品で、浮世離れしていた。しかし手元を見ると、確かに指先や爪の間に、かすかに藍色や薄紅色の染料の跡が残っている。その無骨さと、仕立ての良い着物とのギャップに、不覚にも胸がトクンと跳ねた。
「和傘職人?意外ですね。あ、俺は桜井翔。大学生で、駅前の居酒屋でバイトしてます」
「翔、か。いい名前だ」
和久井さんは俺の名前を、まるで上質な絹を撫でるように優しく口に馴染ませる。それだけで、耳の裏が熱くなるのが分かった。
「さっきの傘、最高だったろ。あれは俺が打った(作った)傘なんだ」
「あ、はい。すごく綺麗でした。雨の中に、大輪の花が咲いたみたいで、まるで夢みたいで」
俺が率直な感想を口にすると、彼は驚いたように目を見張り、それから酷く艶っぽい笑みを浮かべて俺をその瞳に映す。
「嬉しいこと言ってくれるな。俺の傘をそこまで真っ直ぐ褒めてくれたのは、君が初めてかもしれない」
そう言って、和久井さんは座席の間に置かれていた、さっきの紺色の傘に手を置いた。
「和傘はな、雨を凌ぐためだけの道具じゃない。差した者の足元を照らし、世界からその人だけを美しく切り取るためのものだ。……なぁ、翔君?」
彼が不意に、俺の方へそろりと体温を寄せてくる。車内の狭い空間に、彼から漂って来る白檀のような甘い香の匂いが充満して、溺れてしまいそうな気がした。
「君を、俺の傘の内側に入れてやりたい。……また、会ってくれるか?」
向けられた強い瞳から目が離せない。断る理由を探す脳が、彼の囁く声に蕩かされて、上手く働かなくなっていく。
気づけば、俺は小さく頷いてしまっていた。
車が俺のアパートの前に停まる。
和久井さんは自分の連絡先が書かれた、手漉きの和紙のような名刺を俺のポケットに滑り込ませると、耳元で「風邪ひくなよ」と囁いた。
車が見えなくなるまで見送った後、俺は自分の部屋に駆け込み、ひどく早く脈打つ胸を押さえた。ポケットの名刺からは、まだ彼の香りがしていた。
つづく