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見かけた面白い本

矢_島_慎が見かけた面白い本の紹介。

 泣くという行動はどういったときに人は泣くのだろう。一般的には悲しい状態になったとき人は泣く。しかし悲しくない場合でも人はよく泣く。
 まず二元論の一つの外部要因を考えてみよう。外部要因は被攻撃性だ。被虐性といってもいい。また悲しい状況も外部要因に該当する。
 もう一つの内部要因は、希望が消えたときとか、追い求めていたものが遠のいた状況が該当する。自我の否定も該当する。
「笑いの外部、内部要因」と逆になっている。そのことからも、泣くことは笑うことの反対行動だということが分かる。
 例を挙げて説明しよう。よく経験する、子供が母に叱られて泣く状況を考えてみたい。

子供が母に叱られ泣くのは、外部要因は母からの被虐だ。内部要因は自我の否定。
 笑いの場合、攻撃性(バカにすること)が内部要因になっていたのが、被虐性は外部要因に変わる。また面白い対象が外部要因になっていたのが、泣く場合では、自我の否定が内部要因となる。
家族が亡くなって泣く場合はどうだろうか。この場合の外部要因は死だ。病死、事故死は被虐性となり外部要因となる。内部要因は亡くなった人の希望・望みが消えた事への同情や、自分自身の希望が消えたことなどである。
 失恋で泣くのは外部要因は性欲の否定とか、相手が去ってしまうことや振られたことによる被虐性だ。性欲と攻撃はリンクしやすいから、性欲の否定は被虐性となる。内部要因は希望の喪失、愛する人との愛の喪失など。
 映画で泣くのは登場人物を通して自分の悲しい状況を思い起こして涙を流す。この場合内部要因は自分の潜在的感情・行動が要因になることが多い。潜在感情だから、自分で具体的な要因が、はっきりと自覚しない場合がある。この時は「分けもなく泣ける」ということになる。
 音楽とか絵画に接して泣く場合も同じだ。本人にとって分けもなく泣けるから芸術と言えるのだろう。
 民族の分断、あるいは再会も泣ける大きな要素になる。 群居欲、家族愛、等が分裂された悲しみを思いだすからだ。再会する場合、一見すると良い環境への進展だから被虐性と関係ないように思われがちだ。この場合、状況がどの位置にあるのかを考えなければならない。
 再会する喜びは、悪い状況から平常レベルに向かっているだけで、位置としてはマイナスの所にある。だから被虐性の範疇にあるといえる。
 嬉し泣きというのがある。例えば本人が結婚式で泣いたり、参列者が新郎新婦の結婚に当たって泣くケースだ。
 幸せなのに何故泣くの? と不思議がるむきが多い。この場合も泣く自分が、不幸な状況から結婚という幸せな状況になったプラスの方向にあるのだが、泣く人の意識としては不幸な位置においているのである。この場合も外部要因は被虐性にあるといえる。内部要因はかっての辛い思い出のエピソードなどでなる。

新・二元論 第1章 笑い


 人は口を開けて笑う。でも何故人は笑うのだろうか? 面白い対象を目にしたら誰でも、いつでも笑うとは限らない。例えば面白い話をする人がいたとする。でもその人の話しが「身体的欠陥をあざけるような」内容だと、人は笑わない。笑ってはいけない、との抑制が働くからだ。
 また笑いは、人間の持つ攻撃性が刺激されることが笑いの原点であるとされる。しかし攻撃性が発揮されるとき、必ず人は笑うとは限らない。格闘技の選手は戦っているとき、笑っていたら相手に叩きのめされてしまう。いつも真剣に向き合っていなければ負けてしまうのだ。
 では人が笑うのはどういった場合であろうか。二元的要素として次の2要素の反応で笑いが起こる。
 内面要素としては、相手を「バカにする」感情が心的に潜在、顕在する事。
 外面要素としては、そのバカにする対象が、「面白い行動、状態」を表すこと。
 この二元的要素が脳で反応を起こし、笑いの行動が起こるのである。
「バカにする」行動は、攻撃欲の範疇ではある。だが攻撃欲の直接の行動形態である、口論、喧嘩、傷つけ、とうの行動と比べ、バカにする行動は「非暴力行動の内面性」が顕著である。内面的要素としては、攻撃性と表現するより、「相手をバカにする」要素として捉えるのが適切だ。
 性的行動も本来は性欲の範疇であるが、攻撃欲とリンクするばあが多い。例えば、ある女性が野球を見ていたとき、捕手の股間にボールが当たり早く痛みを癒そうとして、ぴょンぴょん蛙飛びをした。その光景を見て笑い出したとしよう。
 この場合外面要素は蛙飛びの動作である。内面要素はこの場合複雑だ。股間から彼女は性的要素を連想し、次にこれは仮想行動だが、捕手が自分に性的行動を仕掛ける動作を仮想連想する。更に、男性からの性的行動は反作用として自らが相手に対する性的行動を仮想連想させる。この性的仮想行動が攻撃欲領域を刺激する。
 この複雑な組み合わせを一瞬に脳で行い、捕手の飛び跳ねる動作を見て、彼女は笑うわけである。この場合は「攻撃性」と「バカにする」が密接に関連し笑いを起こさせるのである。
 では人は自分を笑うことはあるだろうか。攻撃欲は他人にアプローチする行動だから、自分を笑うことは本来起こり得ないはずだ。しかしご存知のように、自分に対する最大の攻撃として自殺行動がある。
 人は自らに対しても攻撃性を示す場合があるのだ。この例を示そう。
 Aさんが地下鉄に乗ろうとして、急いでドアに向かっていた。しかし無情にもAさんが乗る直前にドアがさっと閉まってしまった。
 この場合たいていAさんは閉まったドアを見て笑うのである。Aさんは地下鉄の中の乗客を笑っているのではない。では誰をバカにしているのだろうか。何が面白い行動なのだろうか。
 まず面白い行動だと感じているのは車内の乗客の方だ。走りこんできたAさんが、直前でドアが閉まってしまい、面白がっている。Aさんは、その感情を連想しているのだ。
 では内面ではどんなことが起こっているのだろうか。乗客がきっと自分をバカにしている。きっとしているに違いない。そう思いつつAさんは自分自身をバカな奴だと連想しているのだ。
 この結果、苦笑いに近い笑いをAさんはするわけだ。内面、外面、自分、他人の複雑な交錯があるので、単純な高笑いにはならず、苦笑いとなるわけだ。

 次に人間はどんな対象を笑うのだろうか。人に対して笑うのは当然だ。では動物はどうだろう。事物に対してはどうだろうか。
 まず動物に対しては、人間に近い動物、感情の豊かな動物ほど笑いの対象になる。バカにする感情が生まれやすいからであろう。では事物に対してはどうだろうか。
 事物に対しては、感情表現の少ない動物以下の対象だから笑いは起こりにくい。但し人間によく似た作り物の場合、仮想連想が働き易いから、事物に対しても充分笑いの対象になる。
 不謹慎な話しだがこんな例がある。葬式の席でいきなり笑い出す場合があるのだ。葬式だって、いろんな面白い行動を目にすることはあろう。しかしあくまでも葬儀の場だ。そんな場所で笑うなんて考えられないと思われるだろう。
 しかし人は心の底で(潜在的に)、死人に対して、攻撃性を感じる場合があるのだ。当然のこととして、死んだ人に対して、その死を悼まない人ほどその程度は大きくなるが。この場合、葬儀という場所そのものが攻撃性を誘発するのだ。だから、まれな例だが、ちょっとした面白い行動を目にしただけで、高笑いを始める人が出るのだ。
 こういった二元要素の仕組みを理解してくると面白い会話も生まれる。私がよく行う例を紹介しよう。

数人で語り合っていたとしよう。私がある発言をしたとき、相手の面々が笑った状況で。
私「今、皆さんは私の事を笑ったでしょう? 知っていますか? 笑うと言うことは相手をバカにしていることですよ」
皆「いいえ、全然違いますよ。ちょっと他を連想して笑っただけですよ」
私「ではテストをします。口をじっと閉じて、絶対笑わないで下さい。いいですか」
皆「はい、絶対笑いませんよ」
私「さっき皆さんが笑ったのは、私をわらったのでしょ?」
 そういって口をつぐんでいる皆さんをじっと睨み回すのです。暫くすると、一人二人と、堪らず笑い始めます。そのうち、大爆笑の渦が起こります。そして和やかな雰囲気が生まれます。

 1920年、アメリカ。海岸沿いの遊園地で働くエディーはジェットコースターの事故で亡くなった。エディー83歳。本書は彼が亡くなる50分前から始まる。

 エディーは乗客を助け終えたところでジェットコースターの墜落とともに命を落とす。そして本書の物語が開始されるのだ。生前に出会った数多くの人の中から、彼にとって重要さ、印象の深さ、人生の大切さ、などの5人が選ばれ天国で再会してゆく。

 それらの想いでは彼の生い立ちの重要な要素を形成する大切な人々だった。それら5名との出会いを通して、彼の人生、考え方が綴られていく。

 人が亡くなり、天国に召され、天国の楽園でいさかいのない平和な世界で永遠に過ごす。これはキリスト教の教えである。しかしそういった宗教的枠組みを理解しないでも、素朴な人間的思考のみでも、無理なく溶け込める。

以下に私の「この書物の読書感想文」を掲載します。

この小説は83歳の遊園地で働くメンテナンス・マンの死後の物語りであった。死後の世界はある意味宗教の世界でもある。
しかしこの物語は、確かに宗教的手法を使ってはいるが中で語られている内容は、主人公エディの歩んだ人生そのものだ。
 小説は、主人公の死から始まり天国に行き、生前のかかわりの深かった人物五人との再会を通してエディの人生を綴る。そんな手法がとられていた。
後先を逆にすれば普通の小説のスタイルであるが、人生の出来事をエディの心の印象度に応じ五人に絞り展開できたのは、天国で再会する手法の効果であると思った。
さて内容だが、エディが天国で最初に再会した人物に驚かされた。ブルーマンと呼ばれた見世物小屋の出演者だったからだ。
ブルーマンの死とエディとの関わりは、エディの犯した心の罪の部分だったと思います。ブルーマンとの別れの際の抱擁で、エディの罪が開放されたように思いました。その時ブルーマンの身体は、みるみるうちに、自然な肌色に戻ったことで表されていたと思いました。
エディは戦争経験があった。しかも捕虜となり、命からがら逃亡に成功する。しかし戦争の狂気から、まさにエディが死の炎に飛び込もうとしたとき、止めようと止もう得ずエディの脚を銃で撃ったのは、彼の上官だった。
エディが上官を憎む気持ちはとても理解できました。そしてその上官が地雷で戦死したことを聞かされたエディは、まさに人と人の人生が繋がっていることを思い知る。天国で再会する二人目の人が上官の大尉だった。
人が生きているときは、出会った人のことを深く知ることができない。ましてや大尉と兵隊が腹の底を割って話すことは不可能だ。しかし天国に行き、あのときの本心はこうだったと語り合えることは、死語だからできると思います。エディーはやっと上官の偉大さを知ることになったのだと思います。
 父親と息子の会話はぎこちない、とよく言われます。とくに父親が暴力的でお酒を飲むとなお更だ。エディーもそのようだった。しかし、父親にも隠れた真実があった。その、天国で再会した三人目の婦人から父親の真の姿を聞かされたエディーもまた、父の深い愛を知ったといえるだろう。
 やはり人生の最大の出会いは結婚の相手だ。エディーにとっても妻との、決して永くはなかったが、愛に満ちた二十数年を振り返った。そして妻の死後も、エディーは妻との思い出の中に生きた。そのことは天国で四人めに再会した妻、マーガリートが一番よく知っていた。
 エディーは妻が若かったときでなく亡くなる直前の姿を妻に求めた。妻にとってエディーの希望は充分満足させるものだった。満たされた妻はそこで消えた。それは読むものをも感動させるエディーの妻への態度だった。
 戦争は悲惨だ。エディーがフィリピンへ戦争で赴いたとき、炎の中に飛び込もうとしていた。それは炎のなかで叫ぶ現地の少女を救うためだった。しかし大尉が無理だと判断して、エディーの脚を撃った。そのため少女も焼け死んだ。名前をタラといった。最後に現れた五人目はタラだった。しかし少女を命を救ったかどうかは結果論だ。タラはエディーが彼女を救おうと努力してくれたことで充分だった。
 本の中で波の逸話があった。一つ一つの波はそれぞれの人生に例えられる。しかしそれらの波は大きな海の一部、いや海そのものなのだ。著者が言わんとするところは、人はそれぞれ全く別の人生を歩んでいるかのように見えるが、結局大きな海のようにみな繋がっているんだ、ということではないか。
 私は、この物語から、そのような教えを与えられた。












矢島慎のお勧め度 ★★★☆☆(星3つ)

矢島慎のお勧め度 ★★★☆☆(星3つ)

 アフガニスタンでボランティア活動を続けられている、医師の山本敏晴さんのアフガニスタン滞在記。内容はボランティア活動を通して、アフガニスタンの国情、文化、宗教、等々様々な角度からアフガニスタンをみておられます。ボランティア活動についての彼の意見は、実際に活動しておられる方の意見なので重みがあります。半面、取り上げられている切り口が多すぎるため、盛り上がりに欠ける見方もできます。

本の中で、山本さんの手術の模様が書かれている箇所がありましたので、以下に記載します。感動的です。

2003年2月4日、皮肉なことに、手術の予行演習を行ったまさに次の日、本物の重症患者がやってきた。ある意味では、ものすごくラッキーだった。だって練習した直後だったからだ。
 二十歳代女性、妊娠後期、遷延分娩(なかなか生まれないこと)、激烈な腹痛、性器出血、全身状態の著しい悪化で入ってきた。そして何より、胎児の格好が変なのである。
 ふつう、生まれるときの赤ん坊は、頭が下に来て、骨盤の中にあり、お尻が上にあって、胃の辺りにある。これを頭位といい、最も普通のケースだ。胎児がこの格好をしていれば揖つうじょうのルートで自然に下から生まれてくる。もしこれが反対で頭が上で、お尻が下にある場合を、骨盤位もしくは逆子という。逆子の場合、頭位よりもだいぶ出産が困難であり、ときに帝王切開が必要なことがある。
 で、今回のケースはこのどちらでもない。なんと、頭が右わきにあり、お尻がひだりわき腹にあるのだ。これは非常にまれなケースで、医学的には横位と呼ばれる。この場合、まずほとんど自然分娩ではうまれない。いくら母親が頑張っても生まれてこないので、遷延横位とも呼ばれる。ともかく、帝王切開が絶対必要なケースなのだ。
 おまけに、もっとまずいことがあtった。通常、母親のおなかに聴診器を当てると、赤ちゃんの心臓が動いている音が聞こえる。ふつう、大人への心臓は一分間に60ぐらい、どっくんどっくんとなるのだが、赤ちゃんの心臓の音は、トクトクトクトクと一分間に大人の約二倍ぐらいの速さで拍動を続ける。ところが、今回のケースでは、いくらおなかに耳をあてても、赤ちゃんの心臓の音がしないのである。つまり、おそらく赤ちゃんは、すでに死亡しているものと思われる。
 さらには、腹部が板のように硬いこと、全身状態が著しく悪いこと、胎児が既に死亡していることなどから、胎盤早期剥離という病気も疑われた。ちょっとこれを説明しよう。胎盤というのは、子宮の中にあり、母親の血液から酸素や栄養素を取り込み、子宮の中にいる胎児に栄養を与える非常に重要な役目を果たしている。で、通常、胎児が完全に生まれて、ちょっとしてから、この胎盤が子宮壁から剥がれ落ちるのがふつうだ。ところが、まだ胎児が子宮の中にいるうちに、この胎盤がはがれてしまうことがある。これを胎盤早期剥離というのだが、この場合、当然、酸素や栄養素が母親から来なくなった胎児は、死んでしまう。また、剥がれ落ちた胎盤の裏側で大出血が起こり、このあと、医学的に非常にややこしいことがおこり、母親の体内で、出血を止めるための凝固因子というものがすべてそこで消費され、以後、血を止めることができなくなるのだ。これを播種性血管内凝固症候群というのだが、要するに非常にヤバイ状態となり、このままだと命が危ない、ということだ。そして、これを治すのは、原因となっている子宮内の原因を取り除くしかない。すなわち、帝王切開が必要なのだ。
 以上より、同僚である産婦人科医師の海島先生と相談の結果、われわれは帝王切開を施行することに踏み切った。胎児はすでに死んでいると思われるが、このままでは母体も死んでしまうと思われるからだ 。が、問題だったのは、このブルフ中央病院で行う、最初の手術が、遷延横位で胎盤早期剥離で播種性血管内凝固症候群という、これ以上ないくらい、リスクの高い最悪のケースだったことだ。
 当然、自信などない。手術中に、この母親も死ぬかもしれない。が、このまま放っておいたら、多分、百パーセント母親も死ぬ。手術をすれば、助かるかもしれない。われわれは、この後者を選択したのだ。
 私は、バルフ中央病院の病院スタッフを全員終結させた。マザリシャリフ事務所にいるスタッフも終結させる。不幸中の幸いだったことは、まさに昨日、手術の予行演習をしていたことだ。よってみんない大筋で手術の流れを覚えており、また昨日配った、手順を書いたプリントまで各自が持っている。これに私は期待した。
 今回、術者は海島先生が行い、麻酔を私がやることになった。セーラやファウルは外回りの手伝いをやらせる。
 海島先生が患者の家族に説明をし、手を洗っているあいだに、私は手術室のセットアップを行う。証明、吸引機が正確に作動し、また麻酔薬や緊急時の薬剤を、全部あらかじめ注射器につめておかねばならない。時間がない。急がないと、母親まで死んでしまう。こうした中、ファウルが患者の点滴のために針を刺し、大量の点滴液の術前投与が開始される。セーラは患者に付き添い、また家族にいろいろ説明をしている。
 今回は、緊急時、ということで、血圧低下の少ない、ケタミンという薬剤による静脈麻酔が選択された。患者を手術台に寝かせたあと、ケタミンを点滴のチューブの中に注射する。さらにジアゼパムと、ペンタゾシンを少量ずつ追加注入。またたくまに、患者の意識が消失する。私は患者の呼吸を確認し、止まりそうになると、随時アンビューバッグで肺に空気を送り込む。セーラが患者に排尿のための膀胱カテーテルを挿入する。ファウルは患者の血圧にあわせて、点滴のスピードコントロールする。セーラは当面一分ごとに血圧や脈などのバイタルサインを測定する。ガルマは私の横で麻酔科の見習い兼助手。フルフルはうしろで見学。
 手術が始まる。海島先生は、一瞬祈るようなポーズをしたあと、皮膚の切開を開始した。同時にバイタルサインが動き出す。

セーラ 「トシ、血圧が下がってきてます!」
トシ   「いくらだ」
セーラ 「六十です」
トシ   「そらまずい(ジアゼパムを入れすぎたか? 汗)。ファウル、二つの点滴を一分間に百二十滴に上げろ!」
ファウル「へいっ」
トシ   「セーラ、今、尿は出てるか?」
セーラ 「全然、出てないです」
トシ   「しょうがないな。ドーパミンを少量で開始する。セーラ、五百ミリリットルのボトルに、ドーパミンを、一アンプル入れろ!」
セーラ 「はい」
トシ   「点滴用の、静脈ラインをもう一つ用意する。手か足に、点滴ラインをとれっ!」
ファウル「了解ッス」
トシ   「セーラ、バイタルは?」
セーラ 「血圧五十五、脈百三十」
トシ   「下がる一方だな…」
ファウル「トシのだんな、患者が手を動かしてるでやんす。点滴を抜いちゃうそうです。もっと麻酔を強くしてくだせえ」
トシ   「バカたれ! 今、麻酔を増やしたら、血圧がなくなるわ! とりあえず、手足をバンドで固定しろ!」
ファウル「了解っす」
セーラ 「だいぶ出血しているようです」
トシ   「吸引機にいくら溜まっている?」
セーラ 「…いえ、そちらはたいしたことないですが、ガーゼに吸収した分が、真っ赤です。」
トシ   「ガーゼの重さを測り、出血量を計算しろ。かわいてたときの、測っておいただろ?」
セーラ 「了解」
ファウル「トシのだんな! 患者が紐を引きちぎりそうですぜい」
トシ   「ううーぐ。しょうがない。ケタミンを追加する。セルシンとペンタゾシンも少量追加する。セーラ、バイタルに気をつけろ」
セーラ 「了解」
トシ   「尿は、出てきたか?」
セーラ 「…まだです」
トシ   「(しかたないか 9ドーパミンを開始する。ファウル、まず五滴だ。」
ファウル「へいっ、しけてやんすね」
トシ   「バカたれ! 危険な薬だ。入れすぎると腎臓の血管が閉まり、よけい尿が出なくなる」
ファウル「ありゃー、そうでやんすか」
トシ   「バイタルは?」
セーラ 「血圧六十」
トシ   「…低空飛行だな。エフェドリンを投与する」
ガルマ 「いや、やったことあまりないんで…看護師に」
トシ   「バカたれ! そのくらい医者の基本だ!」
ガルマ 「…セーラ、よろしく」
セーラ 「はい」
トシ   「…まあ、いいや。それどころじゃない。」
セーラ 「トシ、血圧七十に上がりました」
トシ   「おおっ、少しはましかっ!」

 そうこうしているうちに、海島先生が、腹膜を開放しいついに子宮の切開に入る。胎児を摘出するのだ。子宮の中にメスが達したとき、あたりが真っ赤になった。
大量にたまり、圧力が高まっていた子宮内の血液が、切開によって、一気に開放されたのだ。あたりに血しぶきが飛び散る。私の顔にも血がかかる。この患者、エイズウイルス持ってないだろうな? 一瞬頭にそういった思念がよぎるが、それどころじゃない事態が発生した。

セーラ  「トシ! 血圧、測れません!」
トシ   「ファウル、両方の点滴を全開にしろ! ガルマ、ドパーミンを三十滴にしとけ。私はアドレナリン投与する」
ファウル「トシのだんな、患者の手、真っ白ですぜ!」
トシ   「わかってる。セーラ、血圧計を貸せ、…確かに、測れないな。血圧ゼロか」
ファウル「でも、出血も止まったみたいですぜい」
トシ   「当たり前だ! 血圧がゼロなら、血も出ない!」
セーラ 「トシ、患者の手足が、冷たくなっていきます…」

 私の心が凍りついてくる。
 死ぬ。これは、死ぬ。
 私も伊達に修羅場はくぐっていない。死ぬ。これは死ぬパターンだ。点滴を全開にして水を入れ、昇圧剤をほど最大量でおとしているのに反応しない。…もう、できることがない。と、思って一瞬ひるんだ瞬間、海島先生が、子宮から胎児をとりだした。もちろん、多分死んでいるのは承知の上だが、それでも胎児の蘇生を試みる。

トシ   「ガルマ、セーラ、子供の蘇生をしろ。二人でやれ! 俺は母体を見る」

セーラ 「はい」
ガルマ 「…私は、あまりやったことが…」
トシ   「おまえは、頭だけ使え!」
ファウル「あっしは?」
トシ   「セーラの代わりにバイタルを測れ!」
 子供は多分、だめだ。なんとしても、母親のほうだけでも、たすけなければならない。そうでないと、この手術の意味がない。この病院をlここまで育て上げた責任や、私の個人的な意地や見栄などの、汚い感情が私の頭の中で錯綜する。そして、頭の中で、なにかがぶち切れる。

トシ   「(やれるだけやる。あと五分で血圧が戻らなければ、いずれにしろ、死ぬのだ)」

 アドレナリンをやつぎばやに叩きこむ。重炭酸ナトリウムを注入、ドパーミンをやけくそで全開で落とす。エフェドリンを注入、即効性ステロイドを大量に叩き込む。アンビューバッグを動かし、肺に酸素を送りながら、からになった点滴のボトルを口でくわえて交換し、再び全開で落とす。向こうのほうでは、セーラが必死に胎児を助けようとしている。海島先生は、額に汗をかきながら、子宮の修復をしている。

 このすべての努力が、無駄に終わろうとしている。
 血圧がゼロになってから、そろそろ十分が経過しようとしている。血圧がゼロになると、脳に血がいかなくなる。そうなってから十分ぐらいたつと、脳死が確定し、治療をしても、無駄になる。もうそろそろ、だめだ…。死人に対して無駄な治療を続けることは、お金をドブに捨てるのと同じなのだ。国際協力のなめの予算は、それに限りがあるこtからも、国民の税金などでなりたっていることからも、絶対に有効に使わなければならない。そろそろ、苦渋の決断をする段階にきていた。
 私は肺に空気を送っていたアンビューバッグの手を離した。自分の拳を握りしめ、歯を食いしばる。

 その瞬間、患者のまぶたが動いた気がした。私は患者の頚動脈に触れてみる。拍動している:! 

トシ   「ファウル、血圧を測ってみろ」
ファウル「えっ、でも…多分、あれでやんす」
トシ   「いいから、測れ!」
ファウル「へえへえ…、おりょりょっ! 血圧八十ありまっせ!」
トシ   「よし、ドパーミンを三十滴に戻せ。点滴百二十滴に減らせ。これまでの出血量を計算しろ! 尿が出てるか確認しろ!」
ファウル「へいへい。一度に二つまでにしてくんなまし」
トシ   「いいから、やれ…」
ファウル「尿…、ちょっと、出てきたでやんす」

 私の全身から汗が吹き出る。助かった。これは助かる。血圧が八十あり、尿が出てくれば(腎臓がうごいていれば)、人間そう簡単には死なない。
 と、思ったところ、セーラが戻ってきた。

セーラ 「トシ、やはり、子供はだめだったわ…」
トシ   「わかっている。わかってたことだ。…が、母体は助かりそうだよ。
セーラ 「…そう。よかったわ。…ありがとう。トシ。」

 そう言われて、なぜだかわからないが、急に涙がこみ上げてくる。しかし、まだ泣くわけにはいかない。私は目をぎゅっとつぶり、もくもくと再びアンビューバッグを動かし続ける。
……。

 結局、この日の手術で、母体は助かったが、生まれてきた子供は助からなかった。
 しかし、この日、ひとつ、新しく生まれたものがある。それはアフガニスタン北部に住む人々のための「帝王切のできる病院」だ。

序章


 人は死をとても嫌う。たとえもう一度人に生まれ変わるとしても、今の意識があるかどうか心配だ。
 だから死の恐れとは、肉体の死や、それに伴う苦しみの恐怖もあるが、意識が無くなることへの限りない不安かも知れない。
 ではそもそも現在所有している意識とはいかなるものだろうか。そして私としての意識はいつ生まれたのか? そして私は今後どう変わっていくのかだろうか。
 私って誰? どこからきたの? 鏡よ鏡、鏡さん。私の行く先を写して!

第1章  誕生と五感

 生まれて1歳ごろに、赤ちゃんは離乳を始め流動食をくちにする。また床の上を這い這いし始める。目もはっきり見え、ママの声もわかり、匂いも分かる。流動食は味気ないが、それでも大雑把な味はわかり、パパに高い高いをされれば喜んで笑う。
 そのときの自分の姿は、撮ってもらった写真を見れば、確かに幼い自分がいる。しかし、その記憶がない。
 どう思い出そうとしても、おしゃぶりをくわえた自分を思い出すことができない。当時は幼いながら、意識はあったのだがそれは食べ物に反応するものであったり、気分がいい悪いのたぐいの意識に過ぎなかった。  
 この頃、自分の姿が鏡に写っているのを見て興味をしめす。しかしまだそれが自分だという認識はまだない。
  第1章  意識の誕生

 作家の三島由紀夫は自らの著書の中で、自分が生まれ出たときのことを覚えていたと書いている。物凄い記憶力、さすが天才だ。
 私は確か2歳ぐらいのときのことを覚えている。母に背負われ、そこから見えた左右の光景を覚えている。
 これらのことから分かるように、意識の大きな要素は、人の五感からの記憶だ。コンピュータに例えれば、記憶とは脳みそにファイル化されたメモリーだ。
 意識とは記憶を取り出したり、しまったりする精神作用でもある。
 特に2、3歳迄は「ママ、どこにいるの?」といった、注意に類することや、「台の上にあるお菓子を食べてやるぞ」といった、意図に類することを意識する段階だろう。
 しかしこの頃の意識は単純な思考で、まだまだ自己を確立する段階に至っていない。
 
第2章  自我の誕生

 動物または人間の赤ちゃんに鏡を向けてみる。たいていきょとんとする。写ったものが自分以外の存在だと感じて目をそらしたり、威嚇したりする。
 幼児期に入ったあたりから、またはごく稀に頭のいい猿は、鏡に写る像が自分だと認識する。すなわち自我の誕生だ。
 そのうち鏡の中の自分を客観的に見始める。また意識においても自分という存在を外部から見られるようになる。
 そのうち鏡の代わりに他人を置いて、自分がどう見られているかを考えるようになる。これは意識上の自分を確立する人間特有の能力だ。
 存在としての自分と区別して、第二の自分の誕生だ。例えばお金を拾ったとき、自分のものにしようとしととする。しかしもう一人の自分がいて、ネコババは駄目だ、と盛んに忠告する。
 自我とは我を通したい欲望でもあるから、過度な自我を抑制する幼児しつけがなされる。
 自我と感情表現とは密接な関係にある。自我の抑制は感情表現の抑制でもある。自我や感情表現の抑制は幼児期にあっては親からの影響が大きい。
 これら親からの社会的影響要素とは別に、持って生まれた民族的要素も影響する。
 これは日本のお餅のようなものだ。餅米の種類という民族的要素を持った餅米を、日本という環境の釜で炊く。それを親の躾という杵でつき続け、家族という手返しを加え、ふっくらとした子供餅が出来上がる。
 子供の肌を餅肌というが、ここから来ているのだろうか。


第3章  あれ!何か変だな

 幼児はお菓子が大好きだ。戸棚に置いてあるお菓子を、こっそりいただこう。今日もあるある。一ついただきまーす。
 その夜、お母さんはお菓子が減っているのに気がついて、子供の手の届かない上の棚にお菓子を移した。誰もいないお台所に子供が現れた。
 子供はすぐ棚を開ける。さあお菓子をいただくぞ。あれ? ない! 確か昨日はここにちゃんとあったのに。しかたない、テレビでも見よっと。
 さて子供が4歳ぐらいになると、意識上の変化が起こる。それまでは戸棚を開けて、お菓子がないと、「お菓子がないなあ」と諦めてしまう。そして、遊びを始める。しかし4歳ぐらいから変化が起こる。
 棚にお菓子がないと、「あれ、確かあったはずだけど…。お母さん、どこかに隠したかな? 隠したとしたらどこだろう?」と考えるようになる。この子供の変化はとても重要だ。いわゆる誤認識課題と呼ばれる。
 子供の目に写った光景を、単に本能の視点から見る段階から、その仕組みを理解しようとする意識の誕生だ。知識欲も一段と加速し、言葉の発達や本やテレビなど様々な情報と、考える能力が合わさり、飛躍的に能力が上昇する。
 子供はこの時点で社会デビューだ。人生の扉を開け、何色ものスポットライトを浴びる。「私」の誕生といってよい。
 人間は動物の中で、生まれてから成人に達するまでの必要年月が一番長い。他の動物であれば、すっかり完成している時期だが、人間は4歳でやっと「私」という意識の誕生だ。


第4章  意識の原点「自意識」を訪ねて


 生殖能力こそまだ備わっていないが、もう思考能力では大人の仲間入りだ。この時期から自分を意識し始める。
 自分が何をしているか、何を考えているかを意識し始め、自分が何か見たり、何を感じたりしているのかを考え始める。いわゆる自意識の能力をゲットする。
 成人した私達の意識を大河に例えれば、4、5歳の頃の自意識が芽生えた頃は、大河の源流に相当する。
 テレビリポーターとなって実況放送をしてみよう。
「私は今、意識川の源流に立っています。山の雪解け水や湧き水などが基となった源流は、その幅わずか30センチ程の小さな流れです。
 そして見えるでしょうか、ここに4歳を過ぎたばかりの「私」が立っているのが。まだあどけない「私」は周りの風景が珍しいのか、目を輝かせて見入っています。そしてこの源流から下流に向かって悠久の流れに沿って旅を続けたいと思います。
 それはある意味、「私」探しの旅と呼べるかも知れません。それでは出発することにします。
 あれ、さっきまで立っていた「私」の姿が見えません。先回りして下って行ったのでしょうか。急ぐことにしましょう。それでは皆さん、また後ほどお会いしましょう。自意識村からお送りしました。」


第5章  「ウソついた」の木

 「今章でも意識の源流を訪ねて、をお送りしています。源流点から30分程下っています。意識川の両側に木立が見られるようになってきました。
 あ! すぐ先に、今「私」の姿が見られました。あれ! 木立の中に消えていきました。急いであとを追うことにします。 
 太陽の光が枝の葉に遮られてだんだん暗くなってきました。おお! 大きな木が一本、開けたところに立っています。木の周りは草が繁っているだけです。何の木でしょうか。
 あ! 何と一本の枝の先に明るく輝くものが見られます。ホロスコープのように何かが映っているのが分かります。何が映っているのでしょうか? 謎は深まるばかりです。
 よく見ると、小さな子供がお母さんに何か言っている光景です。ちょっと見てみましょう。
「僕、もう歯を磨いたよ」
「ホントなの? 歯ブラシ見せてごらん。駄目じゃないの、歯ブラシが濡れていないでしょ。さ、歯を磨きなさい」
 え! このシーンは…、確か私が始めてウソをついたシーンです。あのときは眠くて、歯を磨くのがおっくうだったんです。それでお母さんにウソをついてしまったんです。
 皆さん見てください。他の枝の先にもホロスコープのような映像が映っています。それらは皆私が喋っています。もう一つを見てみましょう。すこし大きくなって、友達のマサオ君と話しています。
「マサオ、俺、あやちゃんのこと好きじゃないよ」
 そうだ。あれは幼稚園で友達のマサオ君に、本当はあやちゃんのことが好きだったけど、好きじゃないとウソを言ったときのものです。
 それでも凄いです。枝のあちこちに、私のついてウソの数々が映し出されています。この木は「ウソをついた」の木です。
 しかし私にとって衝撃的でした。私が生まれて初めてついたウソを見せられるなんて。
 以上、「ウソついたの木」からお送りしました。

第6章   心って何?

 私達の身体はうまくできている。例えば胃を例にとると、お腹がすくと食べたい欲求に駆られる。また必要な栄養が不足すると、その栄養が含まれている食品が食べたくなる。
 ここまでは胃の働きだ。しかし食事は、ただ何を食べるかだけではない。食べたい食事を何処で、誰と、どうやって食べるかが問題だ。この複雑な思考が「心」である。また食事をした後の感想も「心」に含まれる。
 食事直後は色んなことが巡るが、一月もすると食べた食事の印象も薄れて来る。あの時は、誰々と、ステーキを、お気に入りのレストランで、美味しかった! ざっとこんなところだ。そして食事前には色んな考えを働かせていたのが、食事後はそのほとんどが記憶に変わる。
 このことからも分かるように、心の主要な要素は現在と未来に集中する。
 またもう一つの例、「心臓」を見てみよう。心臓の働きは、運動をすると、養分や酸素が必要となり、動きが速くなる。しかしその要素の中に、「誰と」とか「どこで」とかはない。身体の状況によって左右されるだけだ。
 言うまでもなく、器官の働きは心と関係が薄い。こうやってみてみると「心」が関わる要素は、性、衣食住、芸術、行動、攻撃性、言語等いわゆる欲望に類するものだということが分かる。だが人間のいろいろな器官の働きや感情は、駆り立てられる衝動の大きさに大きな差がある。
 マイナスの衝動により駆り立てられるものとしては食欲がある。空腹と言う衝動をほっておくと餓死してしまう。また孤独や疎外感の衝動をほおっておくとノイローゼになってしまう。 逆にプラスの衝動が生じるものとしては、性衝動による快感がある。集い住む楽しさ、芸術からくる感動、語り合う喜び、などもある。
 例えば旅行と言う行動を例にとると、計画段階も楽しいが、実際に旅行中の感動に比べたら比較にならない。明らかに未来、過去に比べ、現在の感動が圧倒的に大きい。
 心の活動も現在に集中する。これら現在に集中する心の活動に類するものを「心の横糸」と呼ぼう。
 しかし心に類するは、活動的なもののほかに、人の倫理感とか持論とかのものがある。これらは、むしろ過去から未来にかけて人の精神の基礎となる。心の基礎と言ったらいいだろうか。これら心を「心の縦糸」と呼ぼう。 実際の私たちの心は、縦糸と横糸のいわゆる「心の十字」で表わされる。縦糸については後章で触れてみよう。

第7章   助け合い

 うそついた木から下ること30分、「私」はどんどん坂道を下っています。とても3、4歳の子供とは思えません。あ、どうしたんでしょう。いきなり立ち止まりました。何がおきたのでしょうか。しばらく離れて様子を伺いたいと思います。
 「私」はきょろきょろ見回しています。何か探しているのでしょうか。さがしているとしたら一体なにでしょう。
 あ、こちらを振り向きました。リポーターのこのわたしを見ています。あれ、「私」上を向いています。
 おお、「私」の頭上1メートルほどのところに木の枝が繁っています。そうです、大きな果物がなっているのが見えます。おいしそうです。
 なるほど「私」はあの果物を取りたいと思っているのでしょう。ということはリポーターのわたしに協力せよと言っているのでしょうか。ちなみに肩を叩いてみましょう。「この肩にのりたいのか」という仕草をして見ましょう。
あ、「私」がうなずいた。確かに首を上下に振って、うなずきました。なんということでしょう。自分で果物が取れないとわかると、諦めるかとおもいましたが、リポターに協力してくれという動作です。これは驚きました。
 それでは、協力することにしましょう。「私」の前で膝を折って低くなりました。お、「私」はリポーターの後ろに回って馬乗りになってきます。ずっしりと両肩に体重がかかりました。「よいしょ」っと。リポーターのわたしは、立ち上がりました。「私」は手を伸ばして果物ともぎ取っているようです。どうやら取り終わったようです。
 再びわたしが低くかがむと、肩の上の「私」はピョンと地上に飛び降り、再び駆け出して行きました。さあ後を追うことにしましょう。 木陰の続く草原を「私」は果物を手にどんどん駆けて行きます。見失わないように急ぐことにしましょう。
 あれ、いきなり見失ってしまいました。ちょうど大きな岩が立ちはだかり、進む方向が二手にわかれています。「私」はどっちにかけていったのでしょうか。このまま間違えて進んでいったら見失ってしまいます。でもどっちにいったのか手がかりはありません。
 いや、ありました。手がかりが。確かにありました。大きな岩の片側に矢印が刻まれています。白い柔らかい石で書いたのでしょう。はっきりと進む方向が読み取れます。
 なるほど。なっとくです。「私」はさっきの肩車のお返しをしたのです。なるほど、それで理解でします。「私」には助け合う感情が生じているのです。外の動物の場合、本能で助け合う行動をとることがあるのですが、人間は幼児期に助け合う感情を行動に移すことができるのでした。
 それでは、矢印にそって急ぐことにしましょう。以上「助け合い」の場所からリポートでした。またお会いしましょう。
第8章   離乳

 猿も、猿から進化した人間も5歳ごろまでを幼児期とする。ときに猿のばあい食べ物を自然から採っているため、親猿が赤ちゃん猿のために離乳食をつくることができない。どうしても赤ちゃん猿は母乳に頼らざるをえない。だから母猿は5年の永きに渡って子猿に母乳を与え続ける。5年間も育児に専念するわけだ。
 比べて人間は1年程度で母乳に移行できるから、離乳後は育児の負担がずっと少なくなる。このことが人間を多産可能にすることと言われる。
 離乳が始まった赤ちゃんは徐々に柔らかい流動食から、硬いものに移行していく。しかし、猿だった期間は人間となった期間の何倍も長い。5年間の授乳の仕組みは脳にしっかりと刻み込まれている。その表れが「おしゃぶり」の習慣だ。離乳が進み授乳の必要がないのにも関わらず、おしゃぶりを口にくわえる。
 うん?先回リポートした「私」は果物を食べていた。ということは離乳が済んでいることです。
 ではちょっとだけ、「私」を追いかけているリポーターを呼んで見たいと思います。
「私を追いかけているリポーター、聞こえますか?」
「ハーイ、こちらリポーターです」
「私はしっかり追いかけていますか。見失っていませんか?」
「はいリポーターのちょっと前を走っています」
「なにか変わったことはありませんか?」
「私は走りながら、さっき採った果物を食べていましたが、今は食べ終えたようです。あ、「私」が一瞬振り返りました。あれ何か口にくわえています。」
「私はこちらの話題に答えてくれたんだと思います。分かりました、それは果物の芯の部分でしょう。おしゃぶりの代わりに、果物の芯をしゃぶっているのだと思います。」
「はい、こちらリポーター。そういわれれば、おしゃぶりです。確かに果物の芯をおしゃぶりにしています。それにしても驚きました。」
「はーい、リポーターさん、これからもリポートをお願いします。それでまたお願いしまーす。」

第9章   恐怖

 先回に続き「私」のあとを追っています。少しなだらかな草原のようなところにでました。ひやっとした風が心地良いです。左右に沼地も見られます。相変わらずスピードを落とすことなく駆け続けています。リポートをするわたしも、同じような速さで駆け続けています。
 何も出来事が起こる様子はありません。のどかな風景に見えます。
 「あ!」
 いきなり先を走る「私」が飛び上がりました。
「ギャー!ギャー!」と物凄い叫び声を上げています。いったいどうしたというのでしょうか。「私」は恐怖におびえています。ある所から後ずさりを始めました。何か危険な猛獣でも現れたのでしょうか。そっと近づいて見ることにしましょう。
「あ、いました。一匹のヘビがかま首を持ち上げ「私」をにらみつけています。そして「私」が相変わらず、奇妙な声を張り上げています。
 体長1メートルほどのヘビは、草むらの中にするすると消えていきます。一瞬にしてその姿を消しました。「私」もやっと気を落ち着かせたようです。どうやら何もなくすぎたようです。再び「私」は駆け始めました。何事もなくて良かったです。さあ後を追いかけるとしましょう。
 あ、いきなり頬に一粒の雨があたりました。見上げると空は真っ黒な雲に覆われています。遠くで稲妻の光が薄く輝きました。一難さってまた一難というところでしょうか。
「あ!光りました。」
「ガラガラー」
 同時に凄い雷の音が鳴りました。とても危険を感じます。「私」も走りながらどこか避難するところを探しているようです。あ、ちょうど大きな岩の塊のような小山が見えます。「私」その洞穴に逃げ込んだようです。
 再び稲妻がとどろきました。物凄い音です。ビカッと光った瞬間に、爆弾が炸裂したかのような雷鳴がとどろきます。洞穴に入った「私」はどうしているのでしょう。
 お、ないています。洞穴の中で、恐怖に打ち震え、洞穴の隅にうずくまっています。雷鳴がとどろくたびに、身体を震わせています。いつ止むとも知れない雷雨に、「私」はすっかりおびえ切っています。ひとまず雷雨のなかからリポートをお送りしました。


第9章   遺伝

 両親が言葉を自由に話すからといって、その子供が言葉を両親から受け継ぐことはない。子供は初めから「まんま」の言葉から覚え直さなければならない。では恐怖の感情はどうであろうか。
 猿はヘビをみると恐怖の叫び声をあげる。また仲間に危険信号を送る。ヘビだけでなく爬虫類がきらいなようで、カメのように奇妙な首を持っているもでですら恐怖の感情をしめす。これはあきらかに感情が遺伝として受け継がれている。
 人間もどうようである。生まれて初めて、ウサギをヘビをみせてやる。ウサギには恐怖感を表さないが、ヘビには恐怖の感情を示す。明らかに人間の脳のどこかに遺伝情報として埋め込まれている。視床下部が人間の感情をつかさどる箇所であることは分かっているが、どういう仕組みで恐怖の感情が遺伝としてつたわるのかは詳細ではない。
 人間の生死にかかわるような恐怖は、特に天敵として遺伝情報にしまわれる。しかしそういった生死に関わるものでなくやや危険レベルとしては低いものだが、一生の記憶に残る情報がある。ただこれは遺伝として後世に伝わるものではないが、その人の一生の感情を支配することがある。
 例えば「絶対に保証人になってはだめだよ」という経済的な親からの経験談を子供が何度もきかされるとする。またあわせて、保証人になったためにどれだけ悲惨な目にあったかもはなされる。そうするとその子供の心に、刻み込まれたように「保証人になっては駄目だ」という情報が確率する。
 前章でのべた感情の縦糸とt横糸の、縦糸の部分を形成するものである。ときには宗教であったり、人生訓であったり、倫理感であったりする。 




1:意識の誕生
2:自我の誕生
3:あれ!、何か変だな
4:意識の原点「自意識」を訪ねて
5:「ウソついた」の木
6:心って何?
7:子に受け継ぐ私
8:仲間としての私
9:進化のなかの自分
10:死の意識


秘密の道をぬけて  作:ロニー・ショッター 訳:千葉茂樹


時代は百五十年前のアメリカ。主人公アマンダが寝ているとき、アマンダノ父が逃亡奴隷を助けるため、家に招きいれたとき、アマンダは初めて逃亡奴隷の現実を目にする。一家をあげて逃亡奴隷家族を家にかくまい、彼らの逃亡の手助けをする。まだ幼いアマンダは父母とともに逃亡奴隷の手助けの一助をになうようになる。

幼いアマンダが、大きな社会問題の渦中に巻き込まれることが、なんの違和感もなく描かれる。そしてアマンダノが行動するたびに読者の涙を誘うのは何故なのだろう。感動の珠玉作である。


なのこの書は2005年度の課題図書である。中学生を対象とした図書である。


ここで本書の出だしのチャプター 1 を紹介しよう。

 あれはなんの音……? 暗い部屋のベッドのなかで、アマンダは、じっと耳をすました。ガサガサという音。カツンというノック。そして、ドスンという音が二回。幽霊? ちがう、ただの風の音よ。枯れ葉をゆらし、ドングリを屋根にたたきつけてふきぬけていく秋の風。

 アマンダはびくびくしながらまわりを見まわして、人形のコーイ・ヨックスをるかんだ。ベッドの上にはイさっきロウソクを吹き消すまで読んでいた本もあった。ぞくぞくすうるようなこわい本だ。アマンダは毎晩イ明かりを消したあともすぐには寝ないでイコーイ・ヨックスを相手にイよんでいたこわい物語を芝居にして遊ぶ。その夜もそうだった。なんにもこわいことなんかないわ。わたしの考えすぎにきまってるんだから。

 ところが、そのとき……。ネコの鳴き声のような音がきこえた。それから、かんだかい馬のいななき。そして、家の裏手から、奇妙な人間の声が。馬に乗った首なし男? アマンダはガタガタふるえながらロウソクをつかみ、コーイ・ヨックスをだきよせた。小さなベッドでぐっすり眠っている弟のトーマスの横を いつま先立ちで通りすぎイそっと階段をおりて外にでた。

人気絶頂のななシリーズ。漫画を読んでいるというより、テレビドラマを見ている感じ。恋愛、ミュージシャン、仕事…とさまざまな現代要素を織り込んで進めるドラマは、はまったら抜けるのは難しい。


本の中から、あらずじを抜書きさせていただきます。


(今までのお話)

東京行きの電車の中で、偶然に出会った奈々とナナ。性格や環境も対照的な2人が、運命が偶然が、再び巡り合い、同じマンションに同居することに…。

ナナは、一時別れたレンと再会。レンのいる「トラネス」に追いつこうと燃えている。「ブラスト」は大手プロと仮契約をし、デビューに向けて練習する日々。

奈々の恋は、タクミからノブへ。一気に燃え上がる2人だったが、奈々のお腹には子供が。どちらの子でも認知するというタクミ。奈々はノブには何も答えることができず…。

迷いながらも子供を産む決心をした奈々。それを受けて、なんとタクミがプロポーズ。そして、ノブ以上にショックを受けたナナはヤスを訪ねて気持ちを落ち着かせるが…?!



本の帯の言葉「君たち、世界を変えてみたくはないか?  待望の直木賞第一作


とりあえず冒頭の書き出しを掲載しよう。内容の楽しさが予感されます。



僕が通っている高校は新宿区にある。

新宿区にはどういうわけか有名進学校ばかりが集まっていて、例えば、総理大臣を輩出している私立大学の付属高校や、東大進学率がバカみたいに高くて高級官僚を次々生み出している都立高校、それに、やんごとない筋の子女がお通いあそばす女子高、などがある。

僕の高校は昭和三十八年に力道山を刺したヤクザ、の舎弟、という一部のマニアしか喜びそうにない有名人を生み出したのが最後、総理大臣にも官僚にもやんごとない筋にもまったく関係せずに、新宿区の中で陸の孤島のごとくたった一校だけ存在している典型的オチコボレ男子校だ。

なんの因果か、有名進学校のほとんどは僕の高校から半径二キロ以内にある。連中はご近所様の僕たちのことを、「ゾンビ」と呼んでいるらしい。僕が聞いたところによると、「ゾンビ」というあだ名の由来は大きく分けてふたつあった。

ひとつは、僕の高校の偏差値が脳死と判定されてしまう血圧値ぐらいしかないことからきている。要するに、脳死状態の僕たちは学歴社会において「生ける屍」に近い存在だという意味なのだろう。

さて、もうひとつ。こっちのほうは僕のお気に入りだ。

「殺しても死にそうにないから」

見方を変えれば、僕たちはヒーローに不可欠な資質を備えているとうわけだ。例えば、「レイダース」のインディ・ジョーンズや、「ダイ・ハード」のジョン・マクレーンみたいに、ちなみに、僕の高校自体のあだ名は「ジェラシック・パーク」なのだそうだ。


これから話そうと思っているのは、そんな僕たちのちょっとした冒険短譚だ。



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本の表紙→http://sweetcreat.exblog.jp/647508  

とても内容がしっかりした本です。作家である浅野さんが送るエッセイ。その中から一節を紹介します。


たとえば男と女の友情って?

あなたは、自分から男性を食事に誘ったことがありますか? 

女性が男性を誘う態度がいやらしくなってしまうのは、そこに欲が絡んでいるからです。しかし、魅力的名男性に対して、純粋にこの人のことが知りたい、もっと話をしてみたい、という気持ちから声をかけるのは素晴らしいことです。

女同士の気楽さも無ければ、恋人のように寄りかかる甘えも無い。どこか気の抜けない緊張感を保てる男友達は、女性にとって財産になります。いい男友達がいないという人は、自分の周りにいる男性をもう一度よく見直してみてください。たとえば、スーツの着こなしが抜群にうまいとか、映画やオペラに造詣が深いとか、その人ならではの魅力を持っている男性が、必ずいるはずです。そういう男性に、さりげなく声をかけて、食事に誘ってみるのです。

素敵な男性との食事はそれだけで楽しいものです。さらに、おしゃれなヨーロッパ映画や新作オペラの情報など、最高に素晴らしいひとときになります。

女性の多くは、男性に声をかける勇気を持てずにいます。女として自信が無く、男性に断られた時のことを考えるからです。でも、自分に自信のない人は、誰も友達になりたいと思いません。

素敵な男友達がほしいのなら、自分から男性を誘えるだけの自信を持つことです。もし相手に断られたら、別の男性を探せばいいのです。

恋人がいなくても、素敵な男友達のいる女性は輝いています。男友達からさまざまな刺激をうけると同時にい大人の女性として扱われることで、自信を得るからです。

素敵な男友達をたくさん持つことは、恋人を一人もつより贅沢なこと。そう言っても過言ではありません。それに恋人と違って、どんなにたくさんいても困ることはありません。

いい男友達が多ければ多いほど、あなたは磨かれ、素敵な女性になっていくのです。


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