序章
人は死をとても嫌う。たとえもう一度人に生まれ変わるとしても、今の意識があるかどうか心配だ。
生まれて1歳ごろに、赤ちゃんは離乳を始め流動食をくちにする。また床の上を這い這いし始める。目もはっきり見え、ママの声もわかり、匂いも分かる。流動食は味気ないが、それでも大雑把な味はわかり、パパに高い高いをされれば喜んで笑う。
そのときの自分の姿は、撮ってもらった写真を見れば、確かに幼い自分がいる。しかし、その記憶がない。
どう思い出そうとしても、おしゃぶりをくわえた自分を思い出すことができない。当時は幼いながら、意識はあったのだがそれは食べ物に反応するものであったり、気分がいい悪いのたぐいの意識に過ぎなかった。
この頃、自分の姿が鏡に写っているのを見て興味をしめす。しかしまだそれが自分だという認識はまだない。
第1章 意識の誕生
作家の三島由紀夫は自らの著書の中で、自分が生まれ出たときのことを覚えていたと書いている。物凄い記憶力、さすが天才だ。
私は確か2歳ぐらいのときのことを覚えている。母に背負われ、そこから見えた左右の光景を覚えている。
動物または人間の赤ちゃんに鏡を向けてみる。たいていきょとんとする。写ったものが自分以外の存在だと感じて目をそらしたり、威嚇したりする。
幼児期に入ったあたりから、またはごく稀に頭のいい猿は、鏡に写る像が自分だと認識する。すなわち自我の誕生だ。
そのうち鏡の中の自分を客観的に見始める。また意識においても自分という存在を外部から見られるようになる。
そのうち鏡の代わりに他人を置いて、自分がどう見られているかを考えるようになる。これは意識上の自分を確立する人間特有の能力だ。
存在としての自分と区別して、第二の自分の誕生だ。例えばお金を拾ったとき、自分のものにしようとしととする。しかしもう一人の自分がいて、ネコババは駄目だ、と盛んに忠告する。
自我とは我を通したい欲望でもあるから、過度な自我を抑制する幼児しつけがなされる。
自我と感情表現とは密接な関係にある。自我の抑制は感情表現の抑制でもある。自我や感情表現の抑制は幼児期にあっては親からの影響が大きい。
これら親からの社会的影響要素とは別に、持って生まれた民族的要素も影響する。
これは日本のお餅のようなものだ。餅米の種類という民族的要素を持った餅米を、日本という環境の釜で炊く。それを親の躾という杵でつき続け、家族という手返しを加え、ふっくらとした子供餅が出来上がる。
子供の肌を餅肌というが、ここから来ているのだろうか。
第3章 あれ!何か変だな
人は死をとても嫌う。たとえもう一度人に生まれ変わるとしても、今の意識があるかどうか心配だ。
だから死の恐れとは、肉体の死や、それに伴う苦しみの恐怖もあるが、意識が無くなることへの限りない不安かも知れない。
ではそもそも現在所有している意識とはいかなるものだろうか。そして私としての意識はいつ生まれたのか? そして私は今後どう変わっていくのかだろうか。
ではそもそも現在所有している意識とはいかなるものだろうか。そして私としての意識はいつ生まれたのか? そして私は今後どう変わっていくのかだろうか。
私って誰? どこからきたの? 鏡よ鏡、鏡さん。私の行く先を写して!
第1章 誕生と五感
第1章 誕生と五感
生まれて1歳ごろに、赤ちゃんは離乳を始め流動食をくちにする。また床の上を這い這いし始める。目もはっきり見え、ママの声もわかり、匂いも分かる。流動食は味気ないが、それでも大雑把な味はわかり、パパに高い高いをされれば喜んで笑う。
そのときの自分の姿は、撮ってもらった写真を見れば、確かに幼い自分がいる。しかし、その記憶がない。
どう思い出そうとしても、おしゃぶりをくわえた自分を思い出すことができない。当時は幼いながら、意識はあったのだがそれは食べ物に反応するものであったり、気分がいい悪いのたぐいの意識に過ぎなかった。
この頃、自分の姿が鏡に写っているのを見て興味をしめす。しかしまだそれが自分だという認識はまだない。
第1章 意識の誕生
作家の三島由紀夫は自らの著書の中で、自分が生まれ出たときのことを覚えていたと書いている。物凄い記憶力、さすが天才だ。
私は確か2歳ぐらいのときのことを覚えている。母に背負われ、そこから見えた左右の光景を覚えている。
これらのことから分かるように、意識の大きな要素は、人の五感からの記憶だ。コンピュータに例えれば、記憶とは脳みそにファイル化されたメモリーだ。
意識とは記憶を取り出したり、しまったりする精神作用でもある。
特に2、3歳迄は「ママ、どこにいるの?」といった、注意に類することや、「台の上にあるお菓子を食べてやるぞ」といった、意図に類することを意識する段階だろう。
しかしこの頃の意識は単純な思考で、まだまだ自己を確立する段階に至っていない。
第2章 自我の誕生
意識とは記憶を取り出したり、しまったりする精神作用でもある。
特に2、3歳迄は「ママ、どこにいるの?」といった、注意に類することや、「台の上にあるお菓子を食べてやるぞ」といった、意図に類することを意識する段階だろう。
しかしこの頃の意識は単純な思考で、まだまだ自己を確立する段階に至っていない。
第2章 自我の誕生
動物または人間の赤ちゃんに鏡を向けてみる。たいていきょとんとする。写ったものが自分以外の存在だと感じて目をそらしたり、威嚇したりする。
幼児期に入ったあたりから、またはごく稀に頭のいい猿は、鏡に写る像が自分だと認識する。すなわち自我の誕生だ。
そのうち鏡の中の自分を客観的に見始める。また意識においても自分という存在を外部から見られるようになる。
そのうち鏡の代わりに他人を置いて、自分がどう見られているかを考えるようになる。これは意識上の自分を確立する人間特有の能力だ。
存在としての自分と区別して、第二の自分の誕生だ。例えばお金を拾ったとき、自分のものにしようとしととする。しかしもう一人の自分がいて、ネコババは駄目だ、と盛んに忠告する。
自我とは我を通したい欲望でもあるから、過度な自我を抑制する幼児しつけがなされる。
自我と感情表現とは密接な関係にある。自我の抑制は感情表現の抑制でもある。自我や感情表現の抑制は幼児期にあっては親からの影響が大きい。
これら親からの社会的影響要素とは別に、持って生まれた民族的要素も影響する。
これは日本のお餅のようなものだ。餅米の種類という民族的要素を持った餅米を、日本という環境の釜で炊く。それを親の躾という杵でつき続け、家族という手返しを加え、ふっくらとした子供餅が出来上がる。
子供の肌を餅肌というが、ここから来ているのだろうか。
第3章 あれ!何か変だな
幼児はお菓子が大好きだ。戸棚に置いてあるお菓子を、こっそりいただこう。今日もあるある。一ついただきまーす。
その夜、お母さんはお菓子が減っているのに気がついて、子供の手の届かない上の棚にお菓子を移した。誰もいないお台所に子供が現れた。
子供はすぐ棚を開ける。さあお菓子をいただくぞ。あれ? ない! 確か昨日はここにちゃんとあったのに。しかたない、テレビでも見よっと。
さて子供が4歳ぐらいになると、意識上の変化が起こる。それまでは戸棚を開けて、お菓子がないと、「お菓子がないなあ」と諦めてしまう。そして、遊びを始める。しかし4歳ぐらいから変化が起こる。
棚にお菓子がないと、「あれ、確かあったはずだけど…。お母さん、どこかに隠したかな? 隠したとしたらどこだろう?」と考えるようになる。この子供の変化はとても重要だ。いわゆる誤認識課題と呼ばれる。
子供の目に写った光景を、単に本能の視点から見る段階から、その仕組みを理解しようとする意識の誕生だ。知識欲も一段と加速し、言葉の発達や本やテレビなど様々な情報と、考える能力が合わさり、飛躍的に能力が上昇する。
子供はこの時点で社会デビューだ。人生の扉を開け、何色ものスポットライトを浴びる。「私」の誕生といってよい。
人間は動物の中で、生まれてから成人に達するまでの必要年月が一番長い。他の動物であれば、すっかり完成している時期だが、人間は4歳でやっと「私」という意識の誕生だ。
第4章 意識の原点「自意識」を訪ねて
生殖能力こそまだ備わっていないが、もう思考能力では大人の仲間入りだ。この時期から自分を意識し始める。
自分が何をしているか、何を考えているかを意識し始め、自分が何か見たり、何を感じたりしているのかを考え始める。いわゆる自意識の能力をゲットする。
成人した私達の意識を大河に例えれば、4、5歳の頃の自意識が芽生えた頃は、大河の源流に相当する。
テレビリポーターとなって実況放送をしてみよう。
「私は今、意識川の源流に立っています。山の雪解け水や湧き水などが基となった源流は、その幅わずか30センチ程の小さな流れです。
そして見えるでしょうか、ここに4歳を過ぎたばかりの「私」が立っているのが。まだあどけない「私」は周りの風景が珍しいのか、目を輝かせて見入っています。そしてこの源流から下流に向かって悠久の流れに沿って旅を続けたいと思います。
それはある意味、「私」探しの旅と呼べるかも知れません。それでは出発することにします。
あれ、さっきまで立っていた「私」の姿が見えません。先回りして下って行ったのでしょうか。急ぐことにしましょう。それでは皆さん、また後ほどお会いしましょう。自意識村からお送りしました。」
第5章 「ウソついた」の木
「今章でも意識の源流を訪ねて、をお送りしています。源流点から30分程下っています。意識川の両側に木立が見られるようになってきました。
あ! すぐ先に、今「私」の姿が見られました。あれ! 木立の中に消えていきました。急いであとを追うことにします。
太陽の光が枝の葉に遮られてだんだん暗くなってきました。おお! 大きな木が一本、開けたところに立っています。木の周りは草が繁っているだけです。何の木でしょうか。
あ! 何と一本の枝の先に明るく輝くものが見られます。ホロスコープのように何かが映っているのが分かります。何が映っているのでしょうか? 謎は深まるばかりです。
よく見ると、小さな子供がお母さんに何か言っている光景です。ちょっと見てみましょう。
「僕、もう歯を磨いたよ」
「ホントなの? 歯ブラシ見せてごらん。駄目じゃないの、歯ブラシが濡れていないでしょ。さ、歯を磨きなさい」
え! このシーンは…、確か私が始めてウソをついたシーンです。あのときは眠くて、歯を磨くのがおっくうだったんです。それでお母さんにウソをついてしまったんです。
皆さん見てください。他の枝の先にもホロスコープのような映像が映っています。それらは皆私が喋っています。もう一つを見てみましょう。すこし大きくなって、友達のマサオ君と話しています。
「マサオ、俺、あやちゃんのこと好きじゃないよ」
そうだ。あれは幼稚園で友達のマサオ君に、本当はあやちゃんのことが好きだったけど、好きじゃないとウソを言ったときのものです。
それでも凄いです。枝のあちこちに、私のついてウソの数々が映し出されています。この木は「ウソをついた」の木です。
しかし私にとって衝撃的でした。私が生まれて初めてついたウソを見せられるなんて。
以上、「ウソついたの木」からお送りしました。
第6章 心って何?
私達の身体はうまくできている。例えば胃を例にとると、お腹がすくと食べたい欲求に駆られる。また必要な栄養が不足すると、その栄養が含まれている食品が食べたくなる。
ここまでは胃の働きだ。しかし食事は、ただ何を食べるかだけではない。食べたい食事を何処で、誰と、どうやって食べるかが問題だ。この複雑な思考が「心」である。また食事をした後の感想も「心」に含まれる。
食事直後は色んなことが巡るが、一月もすると食べた食事の印象も薄れて来る。あの時は、誰々と、ステーキを、お気に入りのレストランで、美味しかった! ざっとこんなところだ。そして食事前には色んな考えを働かせていたのが、食事後はそのほとんどが記憶に変わる。
このことからも分かるように、心の主要な要素は現在と未来に集中する。
またもう一つの例、「心臓」を見てみよう。心臓の働きは、運動をすると、養分や酸素が必要となり、動きが速くなる。しかしその要素の中に、「誰と」とか「どこで」とかはない。身体の状況によって左右されるだけだ。
言うまでもなく、器官の働きは心と関係が薄い。こうやってみてみると「心」が関わる要素は、性、衣食住、芸術、行動、攻撃性、言語等いわゆる欲望に類するものだということが分かる。だが人間のいろいろな器官の働きや感情は、駆り立てられる衝動の大きさに大きな差がある。
マイナスの衝動により駆り立てられるものとしては食欲がある。空腹と言う衝動をほっておくと餓死してしまう。また孤独や疎外感の衝動をほおっておくとノイローゼになってしまう。 逆にプラスの衝動が生じるものとしては、性衝動による快感がある。集い住む楽しさ、芸術からくる感動、語り合う喜び、などもある。
例えば旅行と言う行動を例にとると、計画段階も楽しいが、実際に旅行中の感動に比べたら比較にならない。明らかに未来、過去に比べ、現在の感動が圧倒的に大きい。
心の活動も現在に集中する。これら現在に集中する心の活動に類するものを「心の横糸」と呼ぼう。
しかし心に類するは、活動的なもののほかに、人の倫理感とか持論とかのものがある。これらは、むしろ過去から未来にかけて人の精神の基礎となる。心の基礎と言ったらいいだろうか。これら心を「心の縦糸」と呼ぼう。 実際の私たちの心は、縦糸と横糸のいわゆる「心の十字」で表わされる。縦糸については後章で触れてみよう。
第7章 助け合い
うそついた木から下ること30分、「私」はどんどん坂道を下っています。とても3、4歳の子供とは思えません。あ、どうしたんでしょう。いきなり立ち止まりました。何がおきたのでしょうか。しばらく離れて様子を伺いたいと思います。
「私」はきょろきょろ見回しています。何か探しているのでしょうか。さがしているとしたら一体なにでしょう。
あ、こちらを振り向きました。リポーターのこのわたしを見ています。あれ、「私」上を向いています。
おお、「私」の頭上1メートルほどのところに木の枝が繁っています。そうです、大きな果物がなっているのが見えます。おいしそうです。
なるほど「私」はあの果物を取りたいと思っているのでしょう。ということはリポーターのわたしに協力せよと言っているのでしょうか。ちなみに肩を叩いてみましょう。「この肩にのりたいのか」という仕草をして見ましょう。
あ、「私」がうなずいた。確かに首を上下に振って、うなずきました。なんということでしょう。自分で果物が取れないとわかると、諦めるかとおもいましたが、リポターに協力してくれという動作です。これは驚きました。
それでは、協力することにしましょう。「私」の前で膝を折って低くなりました。お、「私」はリポーターの後ろに回って馬乗りになってきます。ずっしりと両肩に体重がかかりました。「よいしょ」っと。リポーターのわたしは、立ち上がりました。「私」は手を伸ばして果物ともぎ取っているようです。どうやら取り終わったようです。
再びわたしが低くかがむと、肩の上の「私」はピョンと地上に飛び降り、再び駆け出して行きました。さあ後を追うことにしましょう。 木陰の続く草原を「私」は果物を手にどんどん駆けて行きます。見失わないように急ぐことにしましょう。
あれ、いきなり見失ってしまいました。ちょうど大きな岩が立ちはだかり、進む方向が二手にわかれています。「私」はどっちにかけていったのでしょうか。このまま間違えて進んでいったら見失ってしまいます。でもどっちにいったのか手がかりはありません。
いや、ありました。手がかりが。確かにありました。大きな岩の片側に矢印が刻まれています。白い柔らかい石で書いたのでしょう。はっきりと進む方向が読み取れます。
なるほど。なっとくです。「私」はさっきの肩車のお返しをしたのです。なるほど、それで理解でします。「私」には助け合う感情が生じているのです。外の動物の場合、本能で助け合う行動をとることがあるのですが、人間は幼児期に助け合う感情を行動に移すことができるのでした。
それでは、矢印にそって急ぐことにしましょう。以上「助け合い」の場所からリポートでした。またお会いしましょう。
第8章 離乳
猿も、猿から進化した人間も5歳ごろまでを幼児期とする。ときに猿のばあい食べ物を自然から採っているため、親猿が赤ちゃん猿のために離乳食をつくることができない。どうしても赤ちゃん猿は母乳に頼らざるをえない。だから母猿は5年の永きに渡って子猿に母乳を与え続ける。5年間も育児に専念するわけだ。
比べて人間は1年程度で母乳に移行できるから、離乳後は育児の負担がずっと少なくなる。このことが人間を多産可能にすることと言われる。
離乳が始まった赤ちゃんは徐々に柔らかい流動食から、硬いものに移行していく。しかし、猿だった期間は人間となった期間の何倍も長い。5年間の授乳の仕組みは脳にしっかりと刻み込まれている。その表れが「おしゃぶり」の習慣だ。離乳が進み授乳の必要がないのにも関わらず、おしゃぶりを口にくわえる。
うん?先回リポートした「私」は果物を食べていた。ということは離乳が済んでいることです。
ではちょっとだけ、「私」を追いかけているリポーターを呼んで見たいと思います。
「私を追いかけているリポーター、聞こえますか?」
「ハーイ、こちらリポーターです」
「私はしっかり追いかけていますか。見失っていませんか?」
「はいリポーターのちょっと前を走っています」
「なにか変わったことはありませんか?」
「私は走りながら、さっき採った果物を食べていましたが、今は食べ終えたようです。あ、「私」が一瞬振り返りました。あれ何か口にくわえています。」
「私はこちらの話題に答えてくれたんだと思います。分かりました、それは果物の芯の部分でしょう。おしゃぶりの代わりに、果物の芯をしゃぶっているのだと思います。」
「はい、こちらリポーター。そういわれれば、おしゃぶりです。確かに果物の芯をおしゃぶりにしています。それにしても驚きました。」
「はーい、リポーターさん、これからもリポートをお願いします。それでまたお願いしまーす。」
第9章 恐怖
先回に続き「私」のあとを追っています。少しなだらかな草原のようなところにでました。ひやっとした風が心地良いです。左右に沼地も見られます。相変わらずスピードを落とすことなく駆け続けています。リポートをするわたしも、同じような速さで駆け続けています。
何も出来事が起こる様子はありません。のどかな風景に見えます。
「あ!」
いきなり先を走る「私」が飛び上がりました。
「ギャー!ギャー!」と物凄い叫び声を上げています。いったいどうしたというのでしょうか。「私」は恐怖におびえています。ある所から後ずさりを始めました。何か危険な猛獣でも現れたのでしょうか。そっと近づいて見ることにしましょう。
「あ、いました。一匹のヘビがかま首を持ち上げ「私」をにらみつけています。そして「私」が相変わらず、奇妙な声を張り上げています。
体長1メートルほどのヘビは、草むらの中にするすると消えていきます。一瞬にしてその姿を消しました。「私」もやっと気を落ち着かせたようです。どうやら何もなくすぎたようです。再び「私」は駆け始めました。何事もなくて良かったです。さあ後を追いかけるとしましょう。
あ、いきなり頬に一粒の雨があたりました。見上げると空は真っ黒な雲に覆われています。遠くで稲妻の光が薄く輝きました。一難さってまた一難というところでしょうか。
「あ!光りました。」
「ガラガラー」
同時に凄い雷の音が鳴りました。とても危険を感じます。「私」も走りながらどこか避難するところを探しているようです。あ、ちょうど大きな岩の塊のような小山が見えます。「私」その洞穴に逃げ込んだようです。
再び稲妻がとどろきました。物凄い音です。ビカッと光った瞬間に、爆弾が炸裂したかのような雷鳴がとどろきます。洞穴に入った「私」はどうしているのでしょう。
お、ないています。洞穴の中で、恐怖に打ち震え、洞穴の隅にうずくまっています。雷鳴がとどろくたびに、身体を震わせています。いつ止むとも知れない雷雨に、「私」はすっかりおびえ切っています。ひとまず雷雨のなかからリポートをお送りしました。
第9章 遺伝
両親が言葉を自由に話すからといって、その子供が言葉を両親から受け継ぐことはない。子供は初めから「まんま」の言葉から覚え直さなければならない。では恐怖の感情はどうであろうか。
猿はヘビをみると恐怖の叫び声をあげる。また仲間に危険信号を送る。ヘビだけでなく爬虫類がきらいなようで、カメのように奇妙な首を持っているもでですら恐怖の感情をしめす。これはあきらかに感情が遺伝として受け継がれている。
人間もどうようである。生まれて初めて、ウサギをヘビをみせてやる。ウサギには恐怖感を表さないが、ヘビには恐怖の感情を示す。明らかに人間の脳のどこかに遺伝情報として埋め込まれている。視床下部が人間の感情をつかさどる箇所であることは分かっているが、どういう仕組みで恐怖の感情が遺伝としてつたわるのかは詳細ではない。
人間の生死にかかわるような恐怖は、特に天敵として遺伝情報にしまわれる。しかしそういった生死に関わるものでなくやや危険レベルとしては低いものだが、一生の記憶に残る情報がある。ただこれは遺伝として後世に伝わるものではないが、その人の一生の感情を支配することがある。
例えば「絶対に保証人になってはだめだよ」という経済的な親からの経験談を子供が何度もきかされるとする。またあわせて、保証人になったためにどれだけ悲惨な目にあったかもはなされる。そうするとその子供の心に、刻み込まれたように「保証人になっては駄目だ」という情報が確率する。
前章でのべた感情の縦糸とt横糸の、縦糸の部分を形成するものである。ときには宗教であったり、人生訓であったり、倫理感であったりする。
1:意識の誕生
2:自我の誕生
3:あれ!、何か変だな
4:意識の原点「自意識」を訪ねて
5:「ウソついた」の木
6:心って何?
7:子に受け継ぐ私
8:仲間としての私
9:進化のなかの自分
10:死の意識
2:自我の誕生
3:あれ!、何か変だな
4:意識の原点「自意識」を訪ねて
5:「ウソついた」の木
6:心って何?
7:子に受け継ぐ私
8:仲間としての私
9:進化のなかの自分
10:死の意識