■『ハプスブルクの宝剣』下巻以降の歴史 【オーストリア継承戦争:第二次シュレージエン戦争】 | sweet-insomnia-2017のブログ

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『マリーのアトリエ~ザールブルグの錬金術士~』のキャラを使って4コマ風フローチャートで^^


第二次シュレージエン戦争



【オーストリア継承戦争:第二次シュレージエン戦争】

■1745年11月23日:ラウジッツ地方『ヘンネルスドルフの戦い』

フリードリヒ2世は一時的に外交工作のためベルリンへ戻るが
11月にオーストリア軍がザクセン経由でベルリンへ侵攻する
作戦計画があることを諜報によって知り再びシュレージエンへ出陣する。

★背景

1745年11月、プロイセン本領のブランデンブルク攻撃を図るマリア・テレジアは
ベーメン北部からザクセンのラウジッツにカール公子のオーストリア軍主力部隊を
進出させようとしていた。

この計画を察知したフリードリヒ大王は気付かぬふりをしつつ密かに対策を講じ、
老デッサウをマクデブルクに送って西部の作戦を任せ、
シュレージエンに駐屯する息子の若デッサウに命じて当地にある軍を集結させた。

11月15日、大王は下シュレージエンの街リーグニッツに到着し、
若デッサウより集結を完了したプロイセン軍約3万を受け取った。

しかし大王はすぐに連合軍の攻撃に向かうのではなく一時待機した。
大王の作戦はカール公子軍がラウジッツへの進出を終えて
十分自国に接近したところで一気に強襲をかけるというもので、
諸部隊には北のクロッセンに移動する準備をさせるなど 、
ホーエンフリートベルクの戦いのときと同じように作戦意図の欺瞞に抜かりなかった。

11月20日、プロイセン軍はリーグニッツから西進して
ザクセン国境に接近し攻撃準備を整えたが、本隊はなおボーベア川の線に留まり、
自軍が手ぐすね引いて待ちかまえているということを悟られないために、
大王はヴィンターフェルトに兵3千を与えてボーベア川の支流で西を平行に流れる
クヴァイス川の線に展開させ、敵騎兵斥候の侵入を阻止するとともに
敵軍の行動を偵察させた。

カール公子の作戦はラウジッツから北上してオーデル川に出、
フランクフルトを占領してシュレージエンのプロイセン軍とブランデンブルク本領の
連絡を断ち、しかるのち西進してベルリンを攻撃するというものであった。

カール公子軍はベーメン北辺のライヒェンベルクやフリートラントから
続々とラウジッツに入り、ナイセ川を補給路にしてゲルリッツに物資集積基地を置き、
そのままナイセ川を下ってフランクフルトに出るつもりであった。

ラウジッツに展開するザクセン軍部隊はカール公子軍に合流し、
その前衛もしくは右翼側衛としてラウバン周辺に位置した。

11月22日、大王はヴィンターフェルトより、
敵軍はゲルリッツからラウバンにかけて展開しているとの報告を受けた。

大王は老デッサウにザクセンへの前進を開始するよう命令を発するとともに
自軍も行動を開始。11月23日、ナウムブルクでクヴァイス川を渡り、
4縦隊による強行軍でもって一挙に連合軍への接近を図った。

進路上に展開していたザクセン軍のウーランによるわずかな抵抗を除いて
プロイセン軍に障害は無く本隊に急報しようとする彼らを
プロイセン軍のフザールが追い掛けた。

ツィーテンの指揮するプロイセン第2軽騎兵連隊はウーランを追い散らしながら
ヘンネルスドルフ村に接近したところで、そこにザクセン軍部隊、騎兵3個連隊と
歩兵1個連隊が宿営しているのを発見、ツィーテンは大王に援軍が来るまで
我が部隊で敵を拘束しておくと報告した。

これを受けて大王はロッホウに2個胸甲騎兵連隊を預けてツィーテンのもとに急行させ
さらにポレンツの指揮する3個擲弾兵大隊を分派して後を追わせると
残る本隊にさらなる強行軍の開始を命じた。

ツィーテンはザクセン軍陣地を奇襲することに成功し、慌てふためいたザクセン兵は
多数の装備を残して村を飛び出すも村のすぐ外で戦闘隊形を整えることに成功した。

そこに駆けつけてきたルエシュ率いる第5軽騎兵連隊がザクセン軍に突撃をかけたが、
ザクセン軍騎兵の対抗突撃を受けて跳ね返された。
しかし次いでロッホウの胸甲騎兵が現れ、フザールとともに多方向から同時に
突撃をかけると今度はザクセン軍騎兵が打ち破られた。

ザクセン軍騎兵は散り散りになって敗走し、取り残されたザクセン軍歩兵1000余名は
プロイセン軍騎兵に包囲されてしまった。

ザクセン軍歩兵は方陣を組んでの銃砲火によってしばらく敵騎兵を寄せ付けなかったが、
やがてポレンツの擲弾兵が到着、彼らの攻撃によってザクセン軍の火砲による抵抗は
圧倒され、突撃に転じたプロイセン軍騎兵に蹂躙された末にザクセン軍は降伏した。

結局大王の本隊は戦闘の終わった後に到着し、その日はヘンネルスドルフ村に宿営した。
ツィーテンはルエシュとともに大王より鹵獲されたザクセン軍の軍太鼓を分け与えられた。

ツィーテンはこの戦いで混乱した戦闘のさ中に味方の不用意な発砲を受けて
足に負傷しており、以後の戦闘から離脱した。

翌日、プロイセン軍はカール公子軍の捕捉撃滅を図って西進したが、
カール公子軍がヘンネルスドルフの戦いを知って進軍を止め、
前進していた部隊に後退と集結を命じたことから空振りして
25日にはゲルリッツに達しゲルリッツ守備隊は降伏、集積されていた
あらゆる種類の物資はプロイセン軍の手に落ちた。

26日、大王はあくまでカール公子軍を求めてさらに南東に進軍したが、
カール公子はひたすら戦闘を回避、作戦を完全に放棄してベーメンへ退却した。

27日、ゲルリッツからナイセ川を上ったヴィンターフェルトの部隊がベーメン国境の
ツィッタウでオーストリア軍の後衛を攻撃し、ツィッタウの戦いが生じてオーストリア軍は
ツィッタウからも追われた。

大王はツィッタウの占領をもって追撃を取りやめ守備隊が置かれて
主力部隊はゲルリッツに集結した。かくしてプロイセンへの脅威は消滅した。

カール公子はかろうじて主力への直撃を免れたものの、膨大な量の物資を
放棄しただけでなく、追撃を受けて多くの兵を失い、また脱走兵を出した。

23日から27日までの5日間に渡る撤退行で生じたオーストリア軍の損害は
5千に達したとされる。

大王は強行軍の連続によって疲労した部隊にゲルリッツで休息を与えたのち、
ザクセンを屈服させるべく再び西進した。


■1745年12月15日:ドレスデン近郊『ケッセルスドルフの戦い』

1745年冬、ザクセンはオーストリアと結んでプロイセンへの攻撃を計画し、
オーストリア軍の応援を得てフリードリヒ・アウグスト・フォン・ルトフスキーの軍勢を
プロイセンへ入れようとしていた。

ところが11月末にヘンネルスドルフの戦いでラウジッツの友軍が撃破された
との知らせが入りプロイセンを攻撃するどころではなくなった。

アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世(老デッサウ)率いるプロイセン軍は
マクデブルクから南下を開始、慌てて後退する連合軍の後衛を駆逐しながら
前進してライプツィヒを占領した。

西進してくるフリードリヒ大王の軍と連絡をつけるためにエルベ川渡河点を
押さえる必要があり、息子のディートリヒにライプツィヒを任せると
デッサウ侯はいったん東北に向かってトルガウを占領した。

しかしトルガウはプロイセン軍の目標であるザクセンの首都ドレスデンから離れすぎていて、
より近い渡河点を得るためエルベ川沿いに南進し次にはマイセンの占領が求められた。
12月12日夜、デッサウ侯は守備隊を追い散らしてマイセンを占領した。

大王がデッサウ侯に即時のドレスデン進撃と決戦を求めていたのに対して、
老侯は補給を安泰にして慎重に進軍することを好んだ。

しかしラウジッツからベーメンに退いたカール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲンの
オーストリア軍がエルベ左岸を下ってドレスデンへ向かいつつあり、
カール軍がドレスデンで合流する前にルトフスキー軍を撃破する必要があった。

大王から度重なる催促を受けたデッサウ侯はドレスデン目指して雪中を行進し、
その途上でドレスデンへの道をふさぐ連合軍を発見した。

★戦闘

連合軍はエルベ川へそそぐ小さな谷川に沿ってその南側に布陣し、
西から中央にかけてザクセン軍が東のエルベ川との合流地点をオーストリア軍が守った。

連合軍は北に向かって崖となっている丘の上に砲を配置して地形の利を得ていた。
デッサウ侯は敵右翼のオーストリア軍はほとんど放置して
ザクセン軍を撃滅することを目指した。
実際にもオーストリア軍の大半は戦闘に参加しなかった。

デッサウ侯は古いタイプの将軍で戦闘の前には祈りを欠かさなかった。
伝えられる所によればこのときも以下のように祈ったという。

「主よ、私の戦歴に汚点を残すことのないよう、私に今日こそ慈悲をお与えください。
もし私への慈悲をお望みでないときは、敵を助けることなく、
ただ戦いの成り行きを見守っていてください」

午後2時、中央のプロイセン軍は小川とそのまわりの凍りついた湿地を越えて
ザクセン軍陣地に攻撃をかけた。

高所からの砲撃と銃撃によって、地形によって攻撃を妨げられるプロイセン軍は
大損害を受けた。二度目の攻撃も頓挫してプロイセン軍正面が後退すると、
ザクセン軍の一部は勝利を確信して陣地を出て追撃しようとした。

しかしそのころ、ザクセン軍左翼ではプロイセン軍騎兵部隊によって
ザクセンの騎兵部隊が追い立てられ、プロイセン右翼の歩兵が
ケッセルスドルフ村を占領してザクセン軍左翼を攻撃し、
さらにはザクセン軍中央を背後から包囲しようとしていた。

ザクセン軍は浮足立ち、デッサウ侯は好機を逃さず全軍突撃を命じた。
このとき陣地を出ていたザクセン軍は地形のため撤退も出来ず
かえってせん滅されてしまった。

デッサウ侯は兵士たちに、雪と氷で覆われた崖を登ってザクセン軍陣地を
攻撃することを命じ、崖に殺到する彼らが次々転げ落ちてゆくのもかまわずに
自ら崖を駆け登って砲兵陣地に突入した。
このときデッサウ侯は銃弾に服を撃ち抜かれたが、怪我はなかった。

ザクセン軍は総崩れとなって敗走した。
ドレスデンにはうろたえた兵士たちが逃げ込んで来て、
ザクセンの人々に敗戦を印象付けてしまった。

★結果

戦いの結果、ザクセン軍は兵士の半数を失い戦闘能力を喪失した。

12月17日にプロイセン軍はドレスデンに入城し、翌18日には大王もドレスデンに入った。

ザクセンは戦争継続を断念して単独でも和平を結ぶ姿勢を示し、
オーストリアもついに折れてシュレージエン割譲を承認するドレスデン条約が結ばれた。
オーストリア方につく予定だったロシアも参戦の話はなかったことになった。

これによって第二次シュレージエン戦争は終結となり、
プロイセンはヨーロッパ主要国の中でいち早く平和を得ることになるが、
オーストリアにはまだイタリア、ネーデルラント戦線が残されていた。

★『ドレスデン条約』

1745年12月25日に締結されたオーストリア継承戦争における講和条約
プロイセンと、オーストリア(ハプスブルク君主国)およびザクセンとの間に結ばれたもの

ケッセルスドルフの戦いで勝利したプロイセン軍はドレスデンを占領し
18日にはフリードリヒ大王もドレスデン入りした。

かねてよりイギリスが熱心に仲介して両国間の講和を成立させようとしていたが
ザクセンが戦争継続不可能であることを知ったマリア・テレジアも講和受け入れを決意し、
ドレスデンに派遣したフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハラッハ=ローラウに
大王との折衝を命じた。

★条約の内容

・プロイセン、オーストリア、ザクセンの三ヶ国は相互に戦争を終結させる。
・オーストリアは1742年のブレスラウ条約を改めて承認する。
・ザクセンはプロイセンに100万ターラーの賠償金を支払う。
・プロイセンはフランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を承認する。

オーストリアはシュレージエン、北イタリアのパルマ公国などの領地を奪われたが
上オーストリア、ベーメン、オーストリア領ネーデルラント、ミラノなどは奪い返し
ハプスブルク領の一体性を保持し神聖ローマ皇帝位も確保した。

プロイセンのフリードリヒ2世のみがシェレージエンをオーストリアから奪い
数々の戦闘で軍事的才能を発揮し「大王」と謳われることになった。


■『アーヘンの和約』 (1748年)

ドイツのアーヘン(エクス=ラ=シャペル)で1748年に結ばれた
オーストリア継承戦争の講和条約。第二次アーヘン和約とも称される。

フランス・スペインが、イギリス・オランダ・サルデーニャ・オーストリア・
ジェノヴァ共和国・モデナ公国と結んだ講和条約。

オーストリアはマリア・テレジアのハプスブルク家相続を
容認させる代償として以下の条件を承認。

・マリア・テレジアはスペイン・ブルボン家のフィリッポ・ディ・ボルボーネに
パルマ公国・ピアチェンツァ公国・グアスタッラ公国の公位を譲渡する。

・当時イギリス国王となっていたハノーファー選帝侯の
神聖ローマ帝国内での領土を承認。

・プロイセン王国のシュレージエン領有を確認。

この他の占領地は戦争勃発以前の状態へ戻すことが決められ
北アメリカではニューイングランド植民地軍が占領した
ロワイヤル島(現ケープ・ブレトン島)のルイブール要塞がフランスに返還された。



<地図>

■ボーベア川:Bobr (Czech:Bobr/ドイツ語:Bober)
■クヴァイス川:The Kwisa (ドイツ語:Queis)

■リーグニッツ:Liegnitz (レグニツァ:ポーランド語:Legnica)
■クロッセン:Crossen (現クロスノ・オジャンスキェ:Krosno Odrzańskie)

■ラウバン:Lauban(現ルバニ:Lubań)

■ヘンネルスドルフ:hennersdorf (ヘンリクフ・ルバンスキ:Henryków Lubański)

カトーリッシュ=ヘンネルスドルフ:Katholisch-Hennersdorf

■ツィッタウ:Zittau (チェコ語: Žitava, ポーランド語: Żytawa)

■ケッセルスドルフの戦い(独:Schlacht bei Kesselsdorf)


第二次シュレージエン戦争:地図




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次回:

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