■『ハプスブルクの宝剣』下巻以降の歴史②【外交革命~『七年戦争』前夜】 | sweet-insomnia-2017のブログ

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■『ハプスブルクの宝剣』下巻以降の歴史 【オーストリア継承戦争:第二次シュレージエン戦争】 」
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【外交革命~『七年戦争』前夜】



■外交革命

1756年に起こったヨーロッパの国際外交における重大な転換のことで
具体的には17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家とブルボン家が
『七年戦争』の前に同盟を結んだことを指す。

背景にはイギリスとフランスの200年間に及ぶ世界的抗争(第2次100年戦争)と
ハプスブルク=ロートリンゲン家になってからの
オーストリアと新興プロイセンとの抗争という二つの対立軸がある。


★ブルボン・ハプスブルク両家の確執

オーストリアとフランスの対立は15世紀に遡る。

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が
ブルゴーニュ後継者マリーと結婚しフランスを撃破。

フランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動により
ブルゴーニュ公としての権限を失ったマクシミリアンの娘
マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら
マクシミリアン1世のアンヌ・ド・ブルターニュとの再婚を阻み
アンヌと結婚した上マルグリットを人質として留め置いたことなど。

あるいはマリーの父シャルル突進公とルイ11世との対立が起源。

15世紀末葉から16世紀にかけてはイタリア戦争において
ハプスブルク家のカール5世とヴァロワ家のフランソワ1世が対立。

16世紀始めカール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ
スペイン・ハプスブルク朝が始まるとフランスは東西のハプスブルク勢力から
挟撃される状態となって両家は何重にも婚姻を重ねつつも宿敵の関係にあった。

フランスがブルボン朝に交代してからも17世紀後半から18世紀初頭にかけての
ルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていた。

17世紀前半の『三十年戦争』でもフランスは旧教国でありながら
反ハプスブルクの新教諸勢力と結んだ。

18世紀のスペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争でも
両国は互いに敵同士として戦った。


★「外交革命」背景

「ハプスブルク家」

1740年~1748年にかけてのオーストリア継承戦争で
オーストリア=ハプスブルク家は新興のプロイセンに敗北して
シュレージエン地方を喪失した。

この敗北による衝撃は、それまでイタリア戦争、三十年戦争、
スペイン継承戦争などを通じて抗争を続けてきたフランスより、
主要な敵はプロイセンであるという認識を
当時のオーストリア宰相カウニッツなどに抱かせる。

それまでの主要な同盟相手であったイギリスにも、
この戦争における態度から不信感を抱いた。

これらのことがオーストリア=ハプスブルク家が
フランス=ブルボン家へ接近を図る要因となり
後にドイツ諸侯の失望を招きハプスブルク離れの遠因となる。


「ブルボン家」

オーストリア継承戦争で反ハプスブルク家のプロイセンをフランスは支援した。

新大陸・インドなどでフランスと対立していたイギリス(イギリス帝国)は
オーストリアを支援する姿勢を見せイギリスとプロイセンは対立関係にあった。
こうした中、ドイツ・ハノーファー選帝侯国の出身であるイギリス国王ジョージ2世は
プロイセンがハノーファーに危害を与えることを懸念した。

プロイセンの牽制を図ったイギリスは1755年のサンクトペテルブルク協約で
プロイセンがハノーファーを攻撃した場合、ロシアがプロイセンを攻撃することを
取り決めた。これを恐れたプロイセンはイギリスに接近し翌1756年1月16日の
第4次ウェストミンスター条約でハノーファーを攻撃しないことを約した。

以上のような経緯からフランスと対立関係にあるイギリスに接近していった
プロイセンに対しフランスは裏切られたという印象をえる。

こうして1756年5月1日にヴェルサイユ条約が成立しブルボン家(フランス)と
ハプスブルク家(オーストリア)の間に防御同盟が成立するにいたった。

その帰結としてフランス王太子(後のルイ16世)とオーストリア皇女
マリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)との婚姻に繋がった。


★「外交革命」推進

「外交革命」を推進したのは、マリア・テレジアの信任厚いカウニッツ伯である。
カウニッツはオーストリア継承戦争後に駐仏大使として赴任し、
ルイ15世の宮廷で実力をふるっていた王の愛妾ポンパドゥール夫人を動かして
仏墺同盟に踏み切らせた。


■七年戦争

1754年~1763年まで(主な戦闘は1756年~1763年まで)行われた戦争。

ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンを
プロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因。
そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。

イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、
スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、
戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。

インドではムガル帝国がフランスの支持を受けて、
イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。

この戦争の前にフランスとオーストリアは
台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために
古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。

しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し
イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、
オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き
ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。