その5からの続きです。
私は一瞬、ニックに怒りを覚えた。‘なぜ彼は何もいえないのか?なぜもっとプロフェッショナルになれないのか?’
この頃までに彼はケンブリッジを中退し、彼にはすぐ近くに彼を支持するグループや友人がいなかった。ツアーを途中で下りた彼は、ハムステッドの部屋に引きこもった。彼はいつもハシッシュを吸っていたが、それは今や彼の生活パターンとなっていた。ギターをプレイし、マリファナを吸い、腹が減るとカレーを食べに出た。私たちがセカンド・アルバムのレコーディングを開始したとき彼は活気をとり戻したが、セッションとセッションの間、彼は孤立した暮らしに戻っていった。
私が認識していた社交上の定期的な外出は3つだけだった。1つはライアー・ダイス(注:各5個のさいころを投げて相手から見えないようにし、はったりをかけたりして自分の手を強そうに見せかけるゲーム)をするためボブ・スクワイアのところにいくこと、もう1つがニックの両親の家を訪問すること、そして最後がハムステッドのジョンとベヴァリーのところを訪問することだった。ベヴァリーはユダヤ人らしい母親の役目を引き受けていた。彼女はニックにチキン・スープを作ったり、彼の髪のことをたしなめたり、時には彼の服を洗濯さえしていた。彼女はニックのことが大好きだったし、彼にとてつもなく優しかった。ジョンも複雑な性格をもっていたが、たしかにニックを高く評価していたし、彼のことを大好きだとさえいっていた。しかし私はいかなるギタリストも、羨望の念をもたずにニックのプレイを見ることはできないと思う。私は時々ニックといっしょにジョンとベヴのところで夕食をとっていた。私たちはみんなハイになってレコードを聴いていた。こうしたリラックスした環境の中にいても、ニックはいつも用心深げに静かにしていた。
フランス・チャートを独占していたロング・ヘアの女性歌手、フランソワーズ・アルディはニックのファンだと語っていた。コラボレーションについて、ニックとの間で手紙のやりとりがあった。ニックと私はパリに飛び、サン・ルイ島にある彼女の最上階のフラットでお茶を飲むために古い階段を上っていった。最初から最後までニックはほとんどことばを発しなかった。私は彼女があまりにニックのことを不思議に思い、その話が失敗に終わってしまったのだと思う。
セールス不振、アメリカでの契約欠如、そしてツアーの失敗にもかかわらず、私は他のどのアーチストよりもニックとスタジオに入ることを楽しみにしていた。私たちはニックのヴォーカルとギターにエレクトリック・ベースとドラム・キットを加え、その後さらにセッション・ミュージシャンあるいはアレンジメントを施したリズム・トラックを作り始めた。ロバート・カービーはストリングスに加え、さらに手を伸ばし、ブラスのアレンジメントを書いた。私は‘Poor Boy’を聴いたとき、レナード・コーエンのアルバムに入っていた‘So Long, Marianne’と、そのあざけるような女性コーラスのことを考えた。私がニックに提案すると、彼はどう答えていいか分からないかのように少しの間私を見ていたが、完全に納得していたようには見えなかった。
私はその頃までに、事実上サウンド・テクニクス・スタジオに住んでいた。ウィッチシーズンのアーチストはさらに増え、みなが契約中だった。私たちが‘Poor Boy’のためのリズム・トラックを録った日、私は午前中を南アフリカのジャズ・ピアニスト、クリス・マクレガーのレコードのミキシング作業に当てていた。ニックと他のセッション・ミュージシャンたちが到着したとき、クリスはそばで聴いていていいかと尋ねた。クリスはトランスカイ(南アフリカ)の田舎で育ち、村のコーサ族の少年たちとはっぱを吸っていた。あの日、彼はダシーキを着てピルボックス・キャップをかぶり、コントロール・ルームの後ろに座り、パイプに草をいっぱいに詰めながら聴いていた。午前中のミックスのあとで、私の頭の中ではクリスのピアノがまだめいっぱい鳴っていた。ニック、デイヴ・ペグそしてマイク・コワルスキが曲を通しで演奏したとき、私は振り返り、クリスがニヤついているのを見た。私は、彼が考えていることと私が考えていることが同じかどうか彼に尋ねてみた。ジョン・ウッドがマイクをとりに行っている間、私は急いでスタジオのミュージシャンのところへ行き、こういった。「もうちょっとしたらピアニストがくるから」 それからクリスにニックを紹介した。彼が、ニックによってきっちりと書き出されたコード表をちらりと見やると、私たちはテープを回した。‘Poor Boy’のファースト・テイクのピアノ・ソロは、私のスタジオの中での最も思い出深い瞬間のひとつだ。
続く…














