41、「城戸」の内側
~大桑の調査成果から(4)~
試掘調査によりその存在が明らかになった「越前堀」。
そして今、も残っている「四国堀」と「外堀」。
これらの堀が城山の麓の守りをかためていたと考えられます。
当時大桑を本拠地とした戦国時代の人々はこうした堀で何を守ろうとしたのでしょうか。
それは「城戸」の内側に広がる「城下町」だったと考えられます。
「城戸」とは城内への出入り口となる部分のことで、「木戸」とも書きます。
では「木戸」の内側はどんな世界が広がっていたのでしょう。
「市洞」(いちぼら)の大手(おおて)、六谷(ろくたに)の木戸の間 出仕(しゅっし)の諸士(しょし)の鞍馬(あんば)の往来駱驛(おうらいらくえき)たる事 阿房宮(あぼうきゅう)にも異ならず。
尚も、市場に至り貴(とおとし)しとなく賤(いやし)と無く萬銭(ばんせん)を用いて萬事(ばんじ)を得たり。」
江戸時代以降に成立した「美濃雑事記」(みのぞうじき)という書物には、大桑城下の様子がこのように記されています。
戦国時代の大桑は守護大名土岐氏が本拠地とした所です。ですから当時、大桑城下が美濃の中心都市として反映していたと想定し、希望的に解釈すれば
「木戸より内側の市洞の大手から六反の木戸までの間には土岐氏に仕える侍らが行き来する家臣の屋敷などが立ち並び、城戸より外側の市場のあたりでは身分の違いに関わらず自由な交易や活動を行うことができた。」と理解すべき所でしょうか。
城戸の内にも外にも、武家屋敷や町や寺院などからなる町が広がっていたのではないかと想像できます。
しかし、江戸時代に書かれたこうした内容が、戦国時代の大桑城下の様子をどの程度正確に伝えているのかは不明です。
ですが、少なくとも、「大桑城下に城下町があった」という伝説は、江戸期の美濃では既に通説となっていたことが、この記述からは明らかです。
本当に城下町は実在したのでしょうか。町教育委員会は平成9年度から城戸の内側の調査を開始しました。