30、将軍の近江出陣と美濃
美濃国守護代斎藤妙椿の存命中、美濃の政権は尾張・伊勢・近江・越前・飛騨など周辺諸国に影響力を持ち、高い文化と安全が確保された府城「革手」(現在の岐阜市下川手)には応仁の乱で荒廃した京都を出た公家や僧らが訪れました。
しかし、妙椿は1480年に没し、彼の死後、美濃の実権をめぐる「斎藤利藤」(さいとうとしふじ)「斎藤妙純」(さいとうみょうじゅん)の争い『文明美濃の乱』がおきます。
京都では応仁の乱が終息し、足利義政の子「義尚」が将軍の座についていましたが、先の応仁の乱で義尚と対立した「義視」を奉って都の乱から美濃に帰国した妙椿の後継者が「妙純」でしたから、幕府側としては当然「利藤」の側を支援することになります。
しかし、美濃国内では妙椿の跡を受けた「妙純」が優位に立ち、守護土岐成頼と共に美濃の実権を握ります。
将軍義尚からすれば、成頼・妙純政権は反幕府的な態度をとっていたということになり、見逃せないものだったでしょう。
ところで、当時各地の守護や国人は朝廷や寺社の荘園を実力で私領化するなどして、勢力の拡大をはかっていました。
室町幕府としてはこうしたことを見逃しておくこともその権威の失墜に関わる問題でした。中でも近江南部の守護「六角高頼」(ろっかくたかより)は幕府に対して強硬な構えを見せていました。
これに対して、1487年には将軍義尚が直々に近江南部に進軍してこれを討伐する動きにでました。
将軍の隣国近江への進軍に際して身の国内では俄かに緊張が高まり、成頼、妙純共に一時革手から東に退いて人を張り備えます。
一方m義尚の近江討伐には成頼の子「政房」と「斎藤利藤」が従っていたようで、幕府の側からは、政房と利藤が国外にありながら美濃の正当な政権担当者として扱われていたようです。大局的には美濃の政権が2つに分裂して存在していたことになります。
このように見てみると、将軍義尚の近江出陣の目的のひとつには、美濃の土岐斎藤氏の勢力削減があったものと考えられます。
こうした幕府の牽制の裏を返せば、当時の美濃には室町幕府の権力に対抗して美濃一国をまとめ治めるような独自性が芽生えつつあったと言えます。
斎藤 利藤は、室町時代の武将。美濃守護代。斎藤利永の嫡男。典明、利国(妙純)、利安、利綱の兄
https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤利藤
斎藤 妙純(さいとう みょうじゅん) / 斎藤 利国(さいとう としくに)は、室町時代から戦国時代の武将。美濃守護代斎藤利永の子。叔父にあたる斎藤妙椿の養子となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤妙純
文明美濃の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/船田合戦#文明美濃の乱
六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。
https://ja.wikipedia.org/wiki/六角高頼
<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)>
古城山/大桑城跡展望台より岐阜城を望む