麒麟がくる 大桑城 船田の乱(前)(31) | 山羊のソラくん

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5月4日に、生後1ヶ月の山羊ちゃんが我が家に婿入りしてきましたので成長を紹介していきます。

31、船田の乱(前)

 

 将軍義尚は近江出陣から3年後、陣中に病死しました。

 

 義尚の死を受け、美濃にいた「足利義視」の子「義材」(よしき)は上洛、1490年に将軍の座に就きます。

 

 

翌年、義材は義尚同様に六角高頼征伐のため近江へ出陣します。

 

 

 美濃の土岐成頼の次男は六角高頼の養子となり高頼と行動を共にしており、成頼・斎藤妙純は高頼と同盟関係にありました。

 

成頼・妙純としては将軍の六角征伐に加われば身内を攻める側にまわることになり非常に苦しい選択となりましたが、各地の大名が近江に出陣した将軍の下へ参陣して反逆の意のないことを示すなか、限界を感じたのか、高頼との同盟を解除し、将軍の元へ参陣します。

 

 

 

 将軍義材の近江出陣は結局六角高頼を討ち取ることができなかったものの、室町幕府の対美濃政策としては一応の成功を治め、1492年、将軍義材は帰京しました。

 

 

義尚・義材という2人の将軍が近江に直々に出陣した間、美濃に張りつめていた軍事的緊張も一旦は解けました。

 

 

 こうして事態は一応の決着をみたわけですが、それも束の間、美濃はまた新たな乱の兆しがあり、緊張が始まりました。

 

 

 

 将軍義材の近江討伐が一応終息したことにより、これに同行していた「斎藤利藤」が美濃に帰国したのです。

 

この利藤、前回お話ししたように美濃の実力者にして妙椿の後継者・斎藤妙純とは対立関係にありました。

 

 

この対立関係が、美濃内乱の要素としてまだよこたわっていたのです。

 

 

 

 妙椿の後継者妙純の影に隠れ、美濃の覇権を勝ち取ることができないでいた利藤は打倒妙純を志していたようですが、ここに「石丸利光」(いしまるとしみつ)という人物が登場します.斎藤妙椿の時以来、実績を挙げ台頭しつつあった人です。

 

 

 利光は、前述の対立関係を背景に斎藤利藤・土岐成頼・その子元頼らに近づき、土岐成頼のの子政房と斎藤妙純による政権と対立する勢力の中心人物になったとされています。

 

 

 

 そして、1495年、ついにはこの成頼元頼ー利光と、政房ー妙純という2つの派閥がぶつかりあい、合戦に及びます。「船田の乱」の始まりでした。

 

 

 

 

 

義稙(よしたね)の初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名

https://ja.wikipedia.org/wiki/足利義稙

 

石丸 利光(いしまる としみつ)美濃国の実権を握っていた持是院家の斎藤妙椿に仕え、船田城を本拠として、小守護代と呼ばれた。後に斎藤氏の名乗りを許されて斎藤 利光(さいとう としみつ)と名乗った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/石丸利光

 

船田合戦(ふなだがっせん)は、戦国時代前期に発生した、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純石丸利光の合戦。近隣の近江越前尾張も巻き込んでの争乱。

https://ja.wikipedia.org/wiki/船田合戦

 

 

<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)>

 

 

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